[Chapter 3: 山の威容]

東北の早朝。

その冷気は「寒い」という形容を通り越し、剥き出しの皮膚を切り裂く剃刀の刃に似ていた。


フロントガラスを白く濁らせる己の吐息を、陽葵(ひまり)は幾度も拭い去った。

「目的地周辺です」

カーナビゲーションが吐き出した無機質な合成音声が、唐突に途切れる。


辿り着いたのは、未舗装の無人駐車場だった。

周囲に点在する数台の軽トラックは、どれも持ち主の気配を失い、錆びついた静寂を纏っている。

登山シーズンを外れたこの時期、生きた人間の影はどこにも見当たらなかった。


エンジンを切る。

瞬時に、車内は濃密な沈黙に支配された。

陽葵はシートベルトを外すことさえ忘れ、フロントガラスの向こうに聳え立つ目的地を仰ぎ見た。


そこに横たわっていたのは、地図上の穏やかな名とは裏腹に、およそ生命を拒絶するような威容を誇る山並みだった。


地元では古くから、別の忌み名で呼ばれているという。


「割波山(さくなみやま)」――。

公的な地誌にはそう記されているが、麓に住まう古老たちがその名を呼ぶことはない。彼らは一様に声を潜め、忌まわしきその地を「喰波(はみなみ)」と呼んだ。


一度飲み込んだ命を、決して吐き出さぬ場所。

寄せては返す波のごとく、次々と生者を深淵へと引きずり込んでいく、飢えた巨大な臓器。


陽葵の脳裏に、幼い頃に祖母が口ずさんでいた古い唄が蘇る。

――赤い鳥居を越えたなら、陽の昇らぬ常夜に沈み、魂は蛍の影に成りる。


当時はただの迷信、あるいは子供を躾けるための脅し文句だと一笑に付していた。

だが今、その不吉な伝承は、物理的な実体を伴って彼女を包み込もうとしている。


纏わりつく重たい霧が、まるで粘着質の実体を持った指先のように、陽葵の襟首をじりじりと撫で上げた。



木々の緑はあまりに深く、黒ずんでいる。

それはまるで、何世紀もの歳月をかけて陽光を吸い尽くし、その奥底に澱のように溜め込んできた重苦しさだった。


風が吹き抜けるたび、広大な樹海が一斉にざわめき、低い唸り声を上げる。

それは部外者への警告のようでもあり、あるいは空腹の獣が喉の奥で鳴らす、粘着質な期待音のようにも聞こえた。


胃の腑の底に冷たい塊が沈み込んでいく。

陽葵は、身体の隅々まで凍りつくような畏怖に打たれ、思わず呼吸を止めた。


「……本当に、ここにいるの?」


震える声が、狭い車内に空虚な波紋を広げる。

動画に映り込んでいた、あの不気味な赤黒い鳥居。

それは、この深淵のどこかに確実に存在するはずだ。


悠真(ゆうま)は、その傍らに立っていた。

二年前、冷たいアスファルトの上で、物理的な死を遂げたはずの彼が。

今、この山のどこかで、あの日の続きを彷徨っている。


陽葵は震える指先で、助手席の鞄を探った。

触れたのは、硬質でなめらかな感触。

取り出したのは、彼岸花を象った一本の簪(かんざし)だった。


繊細な細工が施された花弁の茎元には、濁った光を放つ小さな石の紐飾りがぶら下がっている。

悠真との婚約が決まりかけた頃、母が「嫁入り道具に」と持たせてくれた品だった。

当時は時代錯誤な贈り物だと笑ったが、今やそれは、現実と狂気を繋ぎ止めるの楔(くさび)となっていた。


「そんな怖い顔すんなよ。お守りみたいなもんだから」


悠真の声が、記憶の底から澱(よど)みのように浮かび上がる。

私の髪に簪を挿した、あの大きな掌の熱。

照れ臭そうに視線を逸らした、あの不器用な横顔。


あの日、確かに存在していた体温は、無機質なアスファルトの上で永遠に失われたはずだった。

剥き出しの死が、すべてを凍りつかせたはずだった。


しかし、掌(てのひら)の中の簪を強く握りしめると、木製のやわらかな感触の奥に、異質な何かが脈動している。

死者の残り香か、それとも執念か。

消え残った鼓動が、微かな振動となって私の髄まで響いてくる。


「行かなきゃ……」


陽葵は自分に言い聞かせるように、震える唇を強く噛んだ。

滲んだ血の鉄錆びた味が、冷え切った意識を現世(うつしよ)へと繋ぎ止めていた。


簪の石は、周囲の微かな光さえ飲み込むように黒ずんでいる。

だが、それを強く握りしめると、不思議と指先の震えが収まった。

なめらかな木製の温かさが皮膚を通して心臓に伝わり、凝り固まった決意を再確認させる。


車外へ一歩踏み出すと、刺すような冷気が肌を切り裂いた。

陽葵の装いは、本格的な入山を想定したものではない。

厚手のコートに、履き慣れたスニーカー。

専門的な装備もなければ、山の知識も皆無に等しい。

それでも彼女の足は、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、古びた登山口の標識へと向けられた。


砂利を踏みしめる音が、この静謐な空間では不敬なノイズとして響き渡る。

鳥居を模したゲートを潜り、山道へと足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。


湿り気を帯びた土の匂い。

そして、腐葉土が発酵し、饐(す)えたような重い香りが鼻腔を突く。

見上げれば、重なり合う枝葉が天を覆い隠し、正午近いというのに視界は日没後のように昏い。


道は、想像を絶する険しさで彼女を拒絶した。

木の根が血管のように地面を這い回り、不用意な足取りを絡め取ろうとする。

滑りやすい斜面に体勢を崩しながらも、彼女は必死に斜面を這い上がった。


心臓の鼓動が、鼓膜を直接叩くように激しく打ち鳴らされる。

吐息は白く乱れ、喉の奥が焼けるように熱い。


「悠真……悠真……っ」


名前を呼ぶたび、意識が希薄になり、身体が軽くなるような錯覚に陥る。

同時に、背後から誰かに凝視されているような、肌を這うような視線を感じた。


振り返っても、そこには立ち枯れた木々と、急速に濃くなり始めた霧の壁があるだけだ。


霧は刻一刻と、その密度と色調を変えていった。

鉛のような無機質な灰色が、じわじわと澱んだ銀色へと変質していく。


もはやそれは、単なる気象現象の範疇を超えていた。

森の深淵から溢れ出した濃密な「匂い」が、陽葵の視界を、そして彼女の意識の境界を侵食し始めている。


網膜の端を、人とも獣とも判別のつかない歪な輪郭がよぎった。

音は一切、聞こえない。

ただ、劣化したフィルムのノイズのように、現実の風景を掻き乱しては消失する。


鼻腔を突く饐えた異臭が、肺の奥深くまで入り込む。

生理的な嫌悪感が吐き気を呼び、陽葵の意識は薄氷が割れるように遠のいていった。


しかし、森の奥からは時折、パキリ、と乾いた枝を折る音が忍び寄ってくる。


不意に、強い風が吹き抜けた。

それは彼女の頬を優しく撫でるようでいて、有無を言わさぬ強引さで森の深淵へと誘う、抗いがたい意志のようだった。


耳元で、風が囁く。

――早く、もっと奥へ。


陽葵は簪を握る手に力を込め、前を見据えた。

泥に汚れたスニーカー、枝に裂かれたコートの裾。

その姿は満身創痍でありながら、瞳には二年前にはなかった、狂気にも似た強い光が宿っていた。


畏怖を超えた先にある、確信。

この闇の向こうに、理(ことわり)の外側に、必ず彼がいる。


彼女の影は、誘き寄せられるように森の奥へと消えていった。

山の威容はただ静かに、その小さな侵入者を受け入れ、背後の道を濃霧で閉ざしていった。

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