「#理想のママ」を演じる義姉へ。あなたの娘が本当に懐いているのは、見下していた“ずぼら”な私です。

@jnkjnk

第1話:偽りの「いいね!」と見えない涙

週末の穏やかな日差しがフロントガラスを照らす。夫の智也が運転する車の助手席で、私は後部座席のチャイルドシートですやすやと眠る息子、陽翔(はると)の寝顔にそっと微笑みかけた。一歳になったばかりの陽翔の、ぷっくりとした頬と小さな寝息。それが私の日常にある、何よりの宝物だった。


しかし、その穏やかな気持ちは、進行方向に近づいてくる義実家を思うたびに、鉛のように重くなっていく。月に一度の家族の集まり。聞こえは良いけれど、私にとっては憂鬱な義務でしかない。原因はただ一人、夫の姉である一条麗華さん、その人だ。


「結衣、そんなに緊張しなくていいよ。姉さんだって、悪気があるわけじゃないんだから」


私のこわばった表情を察したのか、智也がハンドルを握ったまま、なだめるような口調で言った。またその台詞だ。智也はいつもそう。姉が私にどんな棘のある言葉を投げつけようと、「悪気はない」「結衣の考えすぎだ」と、まるで呪文のように繰り返す。彼にとっては、平穏を乱さないことが最優先事項なのだ。たとえ、その平穏が妻の我慢の上に成り立っているのだとしても。


「……うん、わかってる」


私は力なく頷き、窓の外に視線を逃がした。わかっていない。智也は何もわかっていない。麗華さんの私に対する態度は、単なる「悪気がない」で済まされるものではない。それは明確な悪意と、見下すような視線に満ちている。


義実家の駐車場に車が滑り込むと、玄関のドアが勢いよく開いた。


「智也、結衣さん、いらっしゃい! 陽翔くんも、よく来たわねぇ」


出迎えてくれた義母の美津子さんは、陽翔の顔を見るなり相好を崩した。チャイルドシートから陽翔を抱き上げると、その小さな体を愛おしそうに揺する。根は優しい人で、孫のことは心から可愛がってくれている。ただ、少しだけ昔気質なところと、そして、娘である麗華さんを盲信しているところを除けば。


「さあさあ、上がって。麗華ももう来てるわよ」


その名前に、私の心臓が小さく跳ねる。リビングのドアを開けると、甘く香ばしい匂いと、きらびやかなオーラが目に飛び込んできた。


「あら、結衣ちゃんたち、やっと来たのね。こんにちは」


テーブルの中央に、まるで雑誌の特集ページから抜け出してきたような手料理の数々を並べながら、麗華さんが振り返った。今日も完璧だ。寸分の隙もないメイク、流行を取り入れた上品なワンピース。その隣では、娘の莉奈ちゃんが、母親と色違いのお揃いの服を着せられ、お人形のようにちょこんと座っている。五歳になったばかりの莉奈ちゃんは、母親によく似た大きな瞳をしていたけれど、その表情はどこか固く、年齢相応の快活さは感じられなかった。


「こんにちは、麗華さん。わあ、すごい……! 今日も全部、麗華さんの手作りなんですか?」

「まあね。莉奈ももう大きいから、市販のお菓子は添加物が気になっちゃって。大したことないのよ、趣味みたいなものだから」


そう言って麗華さんはスマホを取り出すと、テーブルの上の料理を様々な角度から撮影し始めた。その姿は、趣味というより仕事に近い執念を感じさせる。きっと今夜、彼女のインスタグラムには『#義実家パーティー #休日の過ごし方 #全部手作り #丁寧な暮らし』といったハッシュタグと共に、完璧に編集された写真がアップされるのだろう。


「わたくしたちは、こちらを持ってきたんです。駅前の新しいお店ので、評判みたいで」


私は気を取り直して、有名パティスリーの紙袋を差し出した。色とりどりの焼き菓子が詰められた、自慢の品だ。


「あら、まあ! 美味しそうじゃないの。ありがとう、結衣さん」


義母が素直に喜んで受け取ってくれる。その隣で、麗華さんがわざとらしく大きなため息をついた。


「結衣ちゃんは、本当に要領がいいのね。買ってきたものなら、準備も片付けも楽でいいわよね。私みたいに、朝からキッチンに立ちっぱなしの人間からすると、羨ましいくらい」


ちくり、と鋭い針が胸を刺す。直接的な非難ではない。けれど、その言葉の裏には「手抜き」「愛情が足りない」というメッセージが透けて見える。私は、こわばる頬を必死に持ち上げて、曖昧に笑うことしかできない。ちらりと智也に助けを求める視線を送るが、彼は義父とテレビの野球中継の話を始めていて、こちらのことなどまるで意に介していない様子だった。まただ。また、私一人だ。


孤独感が霧のように心を覆っていく。元保育士だった私は、子供の食事には人一倍気を使っている自負がある。陽翔の離乳食だって、毎日食材のバランスを考え、心を込めて作っている。でも、そんな私の日常は、麗華さんのきらびやかなSNSの前では「地味でずぼらな嫁の言い訳」にしか映らないのだろう。


「さあ、莉奈、陽翔くん! こっちに来てちょうだい。お写真撮るわよ」


麗華さんの甲高い声が響く。彼女はスマホのカメラをインカメラに切り替えると、莉奈ちゃんと陽翔を自分の両脇に座らせた。


「莉奈、もっと笑って! そう、いい子ね。陽翔くん、こっち向いてー。いないいない……ばあ!」


まだ状況がよくわかっていない陽翔はきょとんとしている。一方の莉奈ちゃんは、母親の指示通りにぎこちない笑顔を顔に貼り付けていた。何枚も、何枚も、納得がいくまで続く撮影会。子どもたちの集中力なんて、とっくの昔に切れている。莉奈ちゃんの瞳から、だんだんと光が失われていくのを、私はただ黙って見ていることしかできなかった。


「はい、オッケー! よくできました」


ようやく解放された子どもたちは、待ってましたとばかりにリビングを駆け出した。麗華さんは撮った写真の選別と加工に夢中で、子どもたちのことなどもう見ていない。


「莉奈、あんまり走り回るとお洋服が汚れちゃうでしょ!」

「はーい……」


母親の声に、莉奈ちゃんはつまらなそうに返事をすると、リビングの窓から庭へと続くウッドデッキにちょこんと座った。陽翔もその後を追い、おぼつかない足取りで莉奈ちゃんの隣に座る。年の離れた従姉弟が並ぶ姿は微笑ましかったが、莉奈ちゃんの背中からは、言いようのない寂しさが漂っていた。


その時だった。


「きゃっ!」


小さな悲鳴と共に、ガタン、と大きな音がした。見ると、ウッドデッキの端に置いてあった植木鉢に莉奈ちゃんが足を引っ掛け、派手に転んでしまっていた。


「莉奈!」


私が思わず立ち上がったのと、麗華さんがスマホから顔を上げたのは、ほぼ同時だった。わっと泣き出した莉奈ちゃんの元へ、しかし先に駆け寄ったのは麗華さんではなかった。


「ちょっと、莉奈! だから言ったでしょ、走り回るなって! ああもう、せっかくのワンピースが泥だらけじゃない!」


駆け寄ってきた麗華さんの第一声は、娘を心配する言葉ではなく、服を汚したことへの叱責だった。膝を抱えて泣きじゃくる莉奈ちゃんの腕を掴み、乱暴に立たせようとする。


「痛い……ママ、痛いよぉ……」

「大げさに泣かないの! 恥ずかしいでしょ、みんな見てるじゃない!」


その光景に、私の頭からすうっと血の気が引いていくのがわかった。違う。子供が転んで泣いている時にかける言葉は、そんなものじゃない。違う、違う、違う。


気づけば、私の体は勝手に動いていた。リビングの隅に置いてある救急箱を手に取ると、私はまっすぐに莉奈ちゃんの元へ向かった。


「麗華さん、少し、いいですか」


私が静かにそう言うと、麗華さんは驚いたように目を見開いた。きっと、いつも黙って耐えている私が口を挟んでくるとは思わなかったのだろう。私は麗華さんの返事を待たずに、莉奈ちゃんの前にそっとしゃがみこんだ。


「莉奈ちゃん、痛かったね。ちょっと見せてくれるかな」


できるだけ優しい声で話しかける。莉奈ちゃんはしゃくりあげながら、恐る恐る膝を差し出した。白いタイツは破れ、その下の柔らかな皮膚からは、赤い血が滲んでいる。見ているだけで痛々しい。


「大丈夫だよ。すぐきれいにして、魔法のお薬を塗ってあげるからね」


私は慣れた手つきで救急箱を開け、消毒液を染み込ませたコットンで、そっと傷口の周りの泥を拭き取った。


「ちょっとしみるかもしれないけど、頑張れるかな?」

「……うん」


莉奈ちゃんは小さな声で頷くと、きゅっと唇を結んで痛みに耐えている。その健気な姿に、胸が締め付けられるようだった。私が傷口を消毒している間、莉奈ちゃんは泣くのをこらえ、ただじっと私の手元を見つめていた。


「よし、きれいになった。じゃあ、仕上げにこれを貼ろうね」


私は救急箱から、動物の絵が描かれた可愛らしい絆創膏を取り出した。


「うさぎさんと、くまさんと、ねこさん。どれがいい?」

「……ねこさん」


莉奈ちゃんが小さな声で答える。私はその猫の絆創膏を丁寧に貼りながら、ふっと息を吹きかけた。


「痛いの痛いの、飛んでいけー」


それは、私が保育士時代に、数えきれないほど子どもたちにやってあげたおまじないだ。特別な意味なんてない。でも、子どもたちはこのおまじないが大好きなのだ。


莉奈ちゃんは、ぽかんとした顔で私を見つめていたが、やがてその瞳から、堰を切ったように再び涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。でも、それはさっきまでの痛みや恐怖の涙とは、少し違うように見えた。


「よしよし、もう大丈夫だからね。痛かったね、怖かったね」


私は莉奈ちゃんの小さな頭を、そっと撫でた。柔らかい髪の毛が、指の間をすり抜けていく。しばらくそうしていると、莉奈ちゃんはしゃくりあげるのをやめ、私の腕にこてん、と頭を預けてきた。その小さな体温が、私の心にじんわりと広がっていく。


「……大げさなんだから。結衣ちゃん、ごめんなさいね、手間かけさせちゃって」


気まずそうな麗華さんの声が、頭上から降ってきた。彼女は娘の涙よりも、汚れたワンピースのことばかり気にしているようだった。夫の智也も、義両親も、ただ遠巻きにこちらを見ているだけで、誰も何も言わない。


この家の中で、この子の本当の痛みに気づいてあげられるのは、私だけなのかもしれない。

帰り道、車の中で陽翔の隣で眠ってしまった莉奈ちゃんを、麗華さんは面倒くさそうに抱きかかえて自分の車へと運んでいった。その背中を見送りながら、私の胸には、今日の屈辱感とは別に、ある種の静かな決意のようなものが芽生えていた。


偽りの「いいね!」で固められたあの人には、決してわからないだろう。子供の心が本当に求めているものが何なのか。

私は、ただ莉奈ちゃんの心の傷にも、そっと絆創膏を貼ってあげたい。そう、強く思った。偽物の母親に奪われた、本当の笑顔を取り戻してあげるために。私の静かな反撃は、この瞬間、始まったのだ。

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