第2話 進めない理由

告白から、何も変わらないまま夏が終わろうとしていた。


「……で?」


結菜ゆいなが、私のベッドに仰向けになりながら言った。両足をぶらぶらと揺らし、スマートフォンを胸の上に置いたまま、視線だけをこちらに向けてくる。


「付き合ってるの?」


その問いは、軽い。軽いのに、胸の奥を正確に突いてくる。


「付き合ってない」


結菜は一拍おいてから、むくっと上半身を起こした。


「え、まだ?」


「……まだ」


声が、自分でも驚くほど小さくなった。


悠斗ゆうとと私は、あの日から何度も二人で会った。川沿いのカフェで、窓際の席を選んで、意味もなく長居したり。季節の変わり目の並木道を、どちらからともなく歩くペースを合わせて歩いたり。帰り際、別れが惜しくて、用もないのに駅前を一周したこともある。


でも——手をつないだことは、ない。


距離が近づいた気がして、少しだけ踏み出そうとすると、どちらかがほんの少し躊躇ためらってしまう。“恋人”と呼べる何かは、まだ始まっていなかった。


「ふーん……」


結菜は、口元だけで笑った。目は笑っていない。


「じゃあさ」


少しだけ声のトーンを落として、言う。


「私、まだ完全に負けたってことじゃないよね?」


心臓が、一瞬だけ強く跳ね上がった。


「……結菜」


「冗談だよ。半分はね」


そう言いながら、結菜は私の肩のあたりに頭を預けてくる。この距離感が、彼女の強さであり、私の弱さだった。


彼女は、壊さないまま踏み込める。私は、壊したくなくて立ち止まってしまう。同じ“好き”なのに、使い方が違う。



大学では、三人でいる時間が、いつの間にかまた増えていた。気づけば、昼休みは三人で食堂。空きコマは三人で中庭のベンチ。特別に約束したわけじゃない。


悠斗が中央。その左右に、私と結菜。無意識に決まる並び順。そして——結菜は、必ず悠斗の腕に絡む。


「結菜、歩きにくい」


「えー?悠斗、体力なさすぎなんじゃない?」


「いや、結菜が元気すぎるだけだと思う」


「それ褒めてる?」


「褒めては……ない」


そんなやり取りをしながら、三人で歩く。周囲から見れば、仲のいい友達。あるいは、どちらかが恋人でもおかしくない関係。


私は、その半歩だけ後ろを歩くことが多かった。


(……ずるい)


結菜は、遠慮しない。私は、遠慮しすぎる。それが、まだ前へ進めない理由だと、分かっているのに。


「紗季、そこ段差」


「え?」


悠斗が振り返って、私のほうへ手を伸ばす。一瞬だけ、指が触れた。それだけで、胸がざわつく。


「ありがとう」


「うん」


悠斗はすぐに手を離す。それ以上、何も起きない。


その距離が、今の私たちの限界だった。私たちの関係には、まだ名前がない。その距離を、どう呼べばいいのか。


私は、まだ分からない。



学内の掲示板に、新しい告知が貼られたのは昼休みだった。


白いコピー用紙に、太いゴシック体。余計な飾り気のない、いかにも大学っぽい雑なレイアウト。それでも人が群がっているのは、そこに書かれた内容のせいだ。


——学内の人気投票イベント、学園祭の目玉企画。


「こういうのってさ、絶対半分は“アイドルのものまね”だよね」


「結菜、言い方」


紗季が横から、小さく咎める。


悠斗は二人の少し後ろで、周囲からの雑多でまとまりのない視線を感じていた。

掲示板よりも、なぜか紗季たちのほうを見ている人が多い。


(……分かりやすいな)


紗季は自分が見られていることに慣れていない。目を合わせないように、掲示板の端を眺めている。それが逆に目立つことに気づいていない。


結菜は気づいている。気づいたうえで、あえて見て見ぬふりをしている。


「ねえ悠斗」


結菜が肩越しに振り向いた。


「興味、ある?」


「……別に」


悠斗はそう答えながら、掲示板の告知をもう一度見た。イベントの開催要項。応募方法と選考方法。そして、最後に添えられた一文。


——“当日参加枠あり”


「当日参加……?」


悠斗が小さく呟くと、結菜がすぐ反応した。


「ね、こういうの絶対“飛び入りで盛り上がる”やつでしょ」


「結菜」


紗季が、さっきより少し強い声で言う。


「変なこと考えないで」


結菜は、にっと笑った。


「変ってなに。楽しいこと考えてるだけだよ」


その言葉に、悠斗の背中が少しだけ冷える。結菜の“楽しいこと”は、たいてい誰かの心臓に負担をかける。


紗季は、その場の空気に、少しだけ落ち着かない様子だった。



夏の終わりの告白以来、紗季は何も変わらないように見せるのが上手くなった。悠斗に対して、以前よりも優しい口調になる瞬間は増えた。けれど、触れられそうになると距離を取る。


「一歩前進したのに、付き合っていない」

その状態が、秋になっても続いていた。


学園祭の準備は、告知の紙をきっかけに一気に加速した。学内はいつの間にか、段ボールとガムテープと木材の匂いに支配される。


「紗季、こっちの装飾どうする?」


「もう少し上。左右は揃えて」


紗季は、指示が的確だった。余計なことは言わない。感情を揺らさない。でも、仕事ができる人が持つ“信頼”が、静かに周囲を引き寄せていく。


「紗季ってさ、ほんと頼りになる」


「うん、なんかさ、自然と気が引き締まるよね」


そんな声が、紗季の背中のほうからよく聞こえるようになった。


「紗季がいると、私のダメさが際立つ」


「結菜はダメっていうか、自由すぎる」


悠斗がぼそっと言うと、結菜が即座に反撃した。


「自由って言うな。“才能”って言って」


紗季が小さく笑う。


そうやって笑うときの彼女は、悠斗の前では少しだけ柔らかくなる。


その変化に気づいてしまう。

気づいてしまうから、意識してしまう。

意識してしまうから、余計に何もできなくなる。


(……悪循環)


結菜は、悠斗の鈍さを知っている。

紗季が自分から踏み出す勇気を持てずにいるのも、分かっている。



「ねえ紗季」


ある日、準備の合間。結菜が、何でもないふうを装って言った。


「イベント、出たら?」


「出ない」


即答だった。紗季は目も合わせない。


結菜は笑いながらも、視線だけは真剣だった。


「でもさ、当日、盛り上がった勢いで、とかあるでしょ」


「ない」


「あるって。学園祭だよ?」


紗季はため息をついた。


「結菜、ああいうイベント、好きそうだよね」


「好きかな、正直」


結菜は胸を張る。


「紗季が出たら“盛り上がる”よ。絶対」


紗季は少しだけ眉を寄せた。


「目立つの、嫌いだから」


「嘘。嫌いじゃないでしょ」


結菜はさらに笑う。


「嫌いなのは、“目立つこと”じゃなくて、“変に期待されること”でしょ」


紗季が反応した。ほんの少しだけ、目が揺れる。


悠斗は、そのやり取りを聞きながら、紗季のことを一番分かっているのは結菜だ、と時々思う。



私はサークルの模擬店の当番として、慣れない服を身にまとっていた。裾が少し短めの、学園祭用にアレンジされた衣装。普段なら絶対に選ばないような格好だ。誰かが「映えるから」と押し切ったらしい。


「……これ、必要?」


紗季は衣装を受け取った瞬間、固まった。露出が高いわけではない。けれど、少しだけ“やりすぎ”に見える。


結菜は、衣装を持ち上げて眺めた。


「うわ、これ普通にかわいい」


「結菜は平気だよね」


「平気っていうか、むしろ好きかも?」


結菜は当然のように言う。


「だってさ、学園祭だよ?お祭りだよ?」


「お祭りだからって……」


紗季は小さく呟く。


悠斗は、衣装を見ないように目を逸らした。紗季が着る姿を想像してしまったからだ。


(……だめだろ)


結菜は、悠斗の表情の変化を見逃さなかった。


(ふーん)


心の中で、結菜が何かをメモする。

悠斗が何を好きで、何に弱いか——結菜はそういう“データ”を、無意識に集めている。


ただ、今の結菜はそれを使わない。それが結菜の厄介なところでもあり、優しさでもある。


「ねぇ悠斗」


結菜は、軽い声で言う。


「学園祭のイベント……何か起きそうじゃない?」


「……何も起きない」


悠斗は即答する。その反応が、結菜には面白い。


「起きないって言い切れるの、すごいね」


「結菜、絶対何かする気だろ」


「うわ、失礼」


結菜は胸に手を当てた。


「私はただ、学園祭を盛り上げたいだけの善良な一般学生です」


悠斗はため息をつく。


「それが一番信用できない」


結菜は笑いながら、そして、少しだけ真顔になって声を落とす。


「紗季のこと、どう思ってるの」


悠斗の中で、秋の空気が一瞬冷える。


「……どうって」


「好き?嫌い?」


結菜らしい。


あまりにも直球すぎて、悠斗が答えられずにいると、結菜は、ふっと表情を緩めた。


「まあいいや」


そして、いつもの明るさに戻る。


「でもさ、紗季が可愛いのは事実。目立つのも事実」


結菜は紗季を傷つけたいわけじゃない。でも、立ち止まったままの彼女を、見て見ぬふりもできない。


そして――結菜自身も、悠斗を諦めていない。



学園祭当日。


観客席は埋まり、司会の声が響く。紗季は模擬店用の“映える衣装”のまま、観客席の端の方にいた。


仕事の合間の、ほんの短い休憩。


――結菜が、隣にいる。


結菜の目が、妙にきらきらしている。紗季は、その意味を理解したくなかった。


「結菜」


短く、名前だけを呼ぶ。


「……変なことは、しないでね」


結菜は、最高に無邪気な笑顔で返した。


「えー?なにそれ」


結菜は肩をすくめる。


「私は学園祭を全力で楽しんでるだけだよ?」


紗季が何か言い返そうとしたとき——司会の声が、必要以上に明るく響いた。


「さあ皆さん、お待たせしました! ここからは当日参加枠です!」


歓声と拍手。そのどれもが、紗季には遠く聞こえた。


司会が続ける。


「当日参加枠は、観客席からの他薦もOKです!」


観客席がざわめく。


「紗季」


一拍置いて、結菜がこちらを見た。


「ちょっと、付き合って」


「……どこに」


「決まってるでしょ」


次の瞬間、結菜の手が、紗季の手首を掴んだ。


「――ステージ」


「え?ちょ、結菜——」


抵抗しようとしたが、結菜の力は思ったより強い。いや、強いというより、迷いがない。


観客席の何人かが、声を上げた。


「無理、無理無理!」


悠斗は、少し離れた場所で、その光景を見ていた。最初は、何が起きているのか分からなかった。人が立ち上がった。結菜が誰かの手を引いている。


――紗季?


結菜が、紗季を引っ張っている。逃げ場はない。ステージまでの距離が、やけに短く感じられる。


司会が気づく。


「おっと!こちら、推薦ですか!」


歓声が一段と大きくなる。結菜は、司会に向かって手を振った。


「この人、私の幼馴染で、——」


結菜は堂々と宣言した。


「一番可愛い人です」


会場がどよめく。私は顔が熱くて、俯くしかなかった。


「一緒に出よ」


紗季は、結菜を見る。


「……え?」


「一人じゃない。二人で」


司会が、戸惑いながらも進行する。


「えー、こちら……推薦ではなくお二人での参加、ということで……?」


観客がざわつく。結菜は胸を張った。


「はい。お願いします」


前代未聞、という言葉が、誰かの口から漏れた。



ステージの上で、結菜と紗季は並んで立っていた。


左右に広がる照明の熱。真正面から突き刺さる観客の視線。ざわめきが、空気そのものを震わせている。


(……どうしてこんなことに)


頭の中が真っ白になりかけるのを、必死で押し留める。


そんな紗季の隣で、結菜はまったく物怖じしない。堂々と背筋を伸ばし、観客に向かって軽く手を振る。


「どうもー」


観客席から笑いが起こる。その笑いが、空気を少しだけ和らげた。


「えーっと」


結菜は、司会の方を見る。


「来ちゃいました」


歓声が、さらに大きくなる。


(やめて……)


期待されることが、こんなにも重いなんて。紗季は、自分が思っていた以上に繊細だった。結菜は、そんな紗季の様子を横目で確認していた。そして、ほんの一歩だけ近づく。


「大丈夫」


小さく、でもはっきりと。


「一人じゃないから」


その言葉が、紗季の胸に落ちる。


(……結菜)


紗季は、深く息を吸った。



司会が進行を続ける。


「では、簡単に自己紹介をお願いします」


結菜は、即座に一歩前に出た。


「はい!経済学部の空木うつぎ結菜です!」


拍手。


「今日は、この子と一緒に参加することになりました!」


そう言って、紗季のほうを見る。


観客が笑う。視線が一斉に紗季へ集まる。


「……えっと」


紗季は、マイクを受け取る手が少し震えるのを感じた。


「同じく経済学部の、たちばな紗季です」


それだけ。


余計なことは言わない。言えない。


(短すぎた?)


一瞬不安になるが、観客の反応は悪くない。


「さっき、あっちのサークルの模擬店にいた……」


「ちょっと、緊張してる?」


そんな囁きが聞こえる。結菜は、その空気を逃さない。結菜は、わざとらしく紗季を指差した。


「めちゃくちゃ恥ずかしがってます」


観客が沸く。


「ちょ、結菜……」


紗季は小声で抗議するが、マイクは拾ってしまう。


「かわいい!」


「いいぞー!」


声援が飛ぶ。


紗季は、顔が熱くなるのを感じた。耳まで赤くなる。


今日に限って、言われるがままに袖を通してしまった模擬店用の、いわゆる“映える衣装”。それが、紗季の想像以上に人の目を引いている。短い裾が揺れるたび、すらりとした脚の輪郭がふっと浮かび、そのたびに、視線が集まってくるのがわかる。


普段の自分なら、きっと手に取ることすらない。


(……絶対無理)


でも、不思議と――

結菜が隣にいる。それだけで、踏みとどまることができた。



結菜は、軽く手を振り、楽しそうに観客へ応える。


一方、紗季は――派手なことはしない。背筋を伸ばし、視線を正面に向ける。無理に笑わない。でも、逃げない。


その姿が、逆に目を引いた。


「対照的だな」


「でも、並ぶとすごくバランスいい」


「姉妹みたい」


そんな声が飛ぶ。


結菜は、紗季の様子を横で見ながら、内心で思っていた。


(……やっぱり、強い)


紗季は、自分で思っているよりも、ずっと強い。そして、こういう場で輝いてしまう。結菜は、悔しくないと言えば嘘になる。でも、同時に誇らしい。



進行が少し滞っていた。


司会とイベントのスタッフが、袖で何か話している。二人をどう扱うか、迷っているのが分かる。


結菜は、その様子を横目で確認すると、マイクを持ったまま、司会に向かって言う。


「二人セットってことで評価してくれていいですよ」


観客がどよめく。


司会が驚いた顔をする。


「……二人セット、ですか?」


「はい」


結菜は即答。


「だって、私たち一緒なんで」


言い切る。


紗季は、一瞬だけ目を見開いた。


「結菜……」


「なに?」


結菜は、ちらっと紗季を見る。


「嫌?」


その問いに、紗季は言葉を詰まらせた。


嫌かと聞かれたら、正直、ステージに立っていること自体が恥ずかしい。

それでも――一人で立つよりは、結菜が隣にいてくれるほうが、ずっといい。


「……二人だったら嫌じゃない」


小さな声だったが、結菜には十分だった。


「だってさ!」


結菜は司会に向き直る。


司会は、数秒考えたあと、笑顔を作った。


「分かりました」


観客席がざわつく。


「本来は個人戦ですが……学園祭です」


司会は声を張る。


「前代未聞ですが、今回は“二人セット”として扱いましょう!」


拍手と歓声が、爆発した。



ステージの照明が切り替わり、会場全体に穏やかな空気が戻る。だが、それも束の間、司会がマイクを握り直した。


「それでは、お待たせしました。結果発表に移ります!」


その一言で、再び観客席の温度が上がる。ざわめきが波のように広がり、期待と興奮が混ざり合う。


紗季は、結菜の隣でじっと立っていた。心臓の鼓動が、まだ速い。


(……結果なんて、どうでもいい)


本音だった。あのステージに立った時点で、もう十分すぎるほどだった。でも、結菜は違う。結菜は、結果も含めて“イベント”だと思っている。


「ほら、背筋伸ばして」


小声で言われ、紗季はそっと姿勢を整える。


「……もう終わったのに」


「終わってないよ」


結菜は笑う。


「最後までがセット」


その言葉に、紗季は苦笑した。


「今年の準グランプリは――」


司会が一拍置く。


「前代未聞ではありますが……」


会場が静まり返る。


「空木結菜さん、そして橘紗季さん! 二人セットでの受賞です!」


一瞬、理解が追いつかなかった。


次の瞬間、割れるような拍手と歓声。


「え、二人?」


「やっぱり!」


「前代未聞だって!」


結菜は、目を見開いたあと、すぐに満面の笑みを浮かべた。


「やった!」


そして、反射的に紗季の手を掴む。


「ほら、ほら!」


紗季は、完全に固まっていた。


「……え?」


頭が追いつかない。

自分の名前が呼ばれた。

しかも、「結菜と一緒に」。


「ちょ、ちょっと……」


結菜に引っ張られる形で、再びステージ中央へ。


司会が続ける。


「お二人の対照的な魅力、そして並んだときのバランスが、非常に印象的でした!」


観客が頷く。

納得の空気がある。


結菜はマイクを受け取る。


「ありがとうございます!」


元気な声。


「二人セットなんて初めてらしいですけど、学園祭なんで!」


会場が笑う。


「紗季が頑張ったおかげです!」


結菜はそう言って、マイクを差し出した。


「次、紗季の番」


渡されたマイクを受け取り、紗季は言葉に迷う。


(……何か言わなきゃ)


「……えっと」


声が、少しだけ震えた。


「一人だったら、無理だったと思います」


その正直な言葉に、会場が静かになる。


「結菜がいたから……立てました」


結菜は、目を丸くしてから、照れたように笑った。


「なにそれ」


でも、その声は嬉しそうだった。


観客席で、悠斗は拍手をしながらも、複雑な表情をしていた。


(……準グランプリ)


二人で。


それは祝福すべき結果だ。

そう分かっている。


でも――


ステージ上の紗季は、今まで見たことがないほど注目を浴びていた。視線を集め、評価され、称賛される立場。


(……遠くなった気がする)


そんな感覚が、胸に広がる。



イベントが終わり、模擬店のバックヤードへ戻ると、紗季は張りつめていた気持ちがゆっくりと和らいでいくのを感じた。


「……疲れた」


小さく息をついて、椅子に腰を下ろす。

結菜は、その隣に自然な仕草で座った。


「でも、楽しかったでしょ」


「……うん」


否定はできなかった。


「ねえ」


結菜の声が、ほんの少しだけ真面目になる。


「後悔してる?」


紗季は、少し考える。


恥ずかしかった。

でも――


「……してない」


その答えは、思ったよりもすんなり出た。


一方で、悠斗は模擬店の片付けをしながら、無意識のうちに何度も視線を紗季に向けていた。


「悠斗」


不意に名前を呼ばれ、手が止まる。


「今日は……ありがとう」


「え?」


「ずっと、私のこと、見ていてくれたよね」


悠斗は、少しだけ視線を逸らした。


「……うん」


紗季は、ふっと肩の力が抜けたように、やさしく微笑んだ。


「それだけで、十分」


それ以上は、何も言わない。


告白の返事を、急かさない。

期待も、責めも、そこにはない。


その優しさが、悠斗にはひどく痛かった。

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