第1話 名前のない違和感
四月の風は、いつも必要以上に人の距離を縮めてくる。
桐谷恒一は校門の前で立ち止まり、行き交う生徒たちの背中を眺めていた。新しい制服、浮き足立った声、久しぶりに再会したらしい笑顔。二年生になったというだけで、昨日までと何も変わらないはずなのに、世界のほうが一歩先に行ってしまったような感覚があった。
「いた」
短く、迷いのない声だった。
振り返ると、篠原紬がこちらに向かって歩いてくるところだった。肩までの髪が風に揺れ、制服のリボンが少し曲がっている。恒一は、無意識にそれを直したくなる衝動を飲み込んだ。
「おはよう、桐谷くん」
彼女はいつも通りに笑う。誰にでも向ける、ちょうどいい温度の笑顔。
「おはよう」
それだけ言うのに、喉がわずかに引っかかった。
二人は同じクラスだった。去年も、そして今年も。偶然と言うにはできすぎていて、運命と言うには軽すぎる。その中途半端さが、恒一には落ち着かなかった。
「クラス替え、どうだった?」
「まあ……同じ、だったし」
「だよね。なんかさ、安心した」
そう言って、紬は少しだけ声を落とした。恒一はその変化に気づいたが、理由までは踏み込めなかった。
安心、という言葉を彼女が使うとき、そこにはたいてい別の感情が混じっている。寂しさとか、不安とか。けれど彼女は、それをそのまま出すことをしない。
昇降口までの短い道を、二人は並んで歩いた。近すぎず、遠すぎず。ぶつからない程度の距離。
「ねえ、桐谷くん」
「なに?」
「今年さ、ちゃんと楽しい一年にしようよ」
唐突だったが、冗談めいた口調だった。
「ちゃんと、って?」
「うーん……逃げない、みたいな?」
紬は笑いながら言った。でもその目は、恒一を見ていなかった。
逃げない。
その言葉が、胸の奥で小さく引っかかる。
「篠原は、逃げてるの?」
「さあ?」
彼女は肩をすくめる。「逃げてないって言いたいけど、たぶん、上手に誤魔化してる」
恒一は何も言えなかった。彼女がそう言うとき、それ以上踏み込むと、何かを壊してしまう気がしたからだ。
教室に入ると、去年と同じ配置の机が並んでいた。担任も同じ。変わらないことが、少しだけ息を楽にさせる。
「席、隣だね」
紬がそう言って、恒一の机を軽く叩いた。
「……そうだね」
彼女が隣にいる。それだけで、心拍が少し速くなる。理由は分かっている。でも、それを言葉にする勇気はなかった。
始業式が終わり、ホームルームが始まる。担任の声を聞き流しながら、恒一はノートの端に意味のない線を引いていた。
ふと、隣から視線を感じる。
「桐谷くん」
小さな声。
「今日、放課後さ……」
言いかけて、紬は一度言葉を切った。
「時間、ある?」
たったそれだけの質問なのに、胸がざわつく。
断る理由はなかった。けれど、頷くのにも少し覚悟が要った。
「あるよ」
「よかった」
紬は安心したように息を吐いた。その仕草が、なぜか胸に残った。
——この一年で、何かが変わる。
そんな予感が、確かにあった。
それが恋になるのか、
それとも、別の痛みになるのか。
そのどちらかだと、恒一はまだ知らなかった。
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ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
よろしければ、続きもお付き合いください。
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