第3話:対決の火蓋
決戦の日の朝は、雲ひとつない快晴だった。まるで、これから繰り広げられる戦いの舞台を照らし出すスポットライトのように、太陽の光が容赦なく降り注いでいる。義実家へ向かう車中、ハンドルを握る私の手には、じっとりと汗が滲んでいた。隣に座る悠斗は、これから始まる出来事の本当の意味も知らず、どこか遠足にでも行くような浮かれた様子で鼻歌を歌っている。
「いよいよ今日だな、肉じゃが対決! 俺、審判なんて初めてだから緊張するよ」
「そうね」
「でもさ、母さんに勝とうなんて思わない方がいいぞ。母さんの肉じゃがは、もう殿堂入りみたいなもんだから。美咲は美咲なりに、頑張ったってところを見せれば、母さんもきっと分かってくれるって」
その言葉には、私への気遣いのつもりであろう響きが含まれていた。だが、今の私には、彼のその「優しさ」が、無自覚な侮辱にしか聞こえない。あなたは、私が負けることを前提に話しているのね。私が、あなたの母親に勝てるはずがないと、心の底から信じている。
「ええ、頑張るわ」
私は短く答えると、アクセルを少しだけ強く踏み込んだ。心臓の鼓動が、エンジンの回転数と呼応するように速くなる。緊張している。でも、それは恐怖からくるものではない。これから始まる自分のための戦いを前にした、武者震いだった。
義実家の玄関を開けると、すでに佳代子さんは臨戦態勢だった。真新しいエプロンをきりりと締め、仁王立ちで私たちを迎える。その背後、リビングのソファからは、今日の世紀の対決を観戦しにきた義姉の沙織さんが「主役の登場ってわけね」とニヤニヤしながら声をかけてきた。
「いらっしゃい、美咲さん。逃げずに来たことだけは褒めてあげるわ」
「お邪魔します、お義母さん。よろしくお願いします」
私が深々と頭を下げると、佳代子さんは満足げに鼻を鳴らした。キッチンには、まるでリングのように、調理台が二つ、向かい合うようにセッティングされている。片方には佳代子さん愛用の年季の入った調理器具が並び、もう片方は、私が使うために空けられていた。私が持参したマイ包丁や計量カップ、そして厳選した食材が入った保冷バッグを置くと、沙織さんがわざとらしく覗き込んできた。
「へえ、なんか色々持参しちゃって。料理教室ごっこみたいでウケる」
「沙織、やめなさい。形から入るのも、初心者には大事なことなのよ」
佳代子さんの言葉に、沙織さんが声を殺して笑う。キッチンは完全にアウェーの空気だ。だが、私はもう動じなかった。深く息を吸い込み、自分のエプロンの紐をきつく結ぶ。さあ、始めよう。
「それじゃあ、始めましょうか。制限時間は一時間半。いいわね?」
ゴングのように響く佳代子さんの声と同時に、二つのキッチンタイマーがセットされた。
佳代子さんの調理は、まさに「おふくろの味」を体現したような豪快さだった。大きな鍋に油をひき、スーパーで買ってきたであろう豚バラ肉をざっと投入する。ジューッという派手な音と共に、脂の焼ける匂いが立ち上った。
「肉はこうやって、しっかり炒めてコクを出すのよ」
解説しながら、木べらで肉をかき混ぜる。そこに、乱切りにされたじゃがいもと人参、くし切りにされた玉ねぎを、まるで瓦礫でも放り込むかのように鍋に追加していく。
そして、味付けの工程。佳代子さんは計量カップなど使わない。棚から取り出した大瓶の砂糖を、鍋に直接ザラザラと振り入れる。次に濃口醤油を、ボトルから直接トクトクと、鍋の中の煮汁が真っ黒に近い茶色に染まるまで注ぎ込んだ。
「悠斗はとにかく甘いのが好きなの。これくらい入れないと、味がぼやけちゃうのよ」
私に教えるというより、自分の正しさを誇示するような口ぶりだった。最後にみりんを回し入れ、落し蓋をすると、彼女はふう、と一息ついて腕を組んだ。あとは煮込むだけ、というわけだ。その迷いのない動きは、長年の経験に裏打ちされた絶対的な自信に満ちていた。
一方、私は静かに自分の作業に集中していた。まず、持参した小さな土鍋に、丁寧に拭いた昆布と水を入れ、火にかける。沸騰直前で昆布を取り出し、たっぷりの鰹節を投入。火を止めて、鰹節が静かに沈んでいくのを待つ。その間に、別の小鍋では鶏ガラを煮て、澄んだスープを取っていた。
「まあ、ずいぶん手間のかかることをするのね。出汁なんて、粉末ので十分なのに」
佳代子さんが、私の手元を覗き込んで呆れたように言う。私は答えず、濾した鰹出汁と鶏ガラスープを合わせ、黄金色に輝く液体をボウルに移した。ふわりと立ち上る、上品で複雑な香り。これが、私の肉じゃがの命となるベースだ。
次に、野菜の下ごしらえに取り掛かる。買ってきたばかりの新鮮なメークインの皮を薄く剥き、一つ一つ丁寧に角を丸くしていく。いわゆる「面取り」だ。煮崩れを防ぎ、味を均一に染み込ませるための、和食の基本的な技法。人参も同様に処理し、それぞれを下茹でしておく。玉ねぎは繊維に沿って薄切りにし、後で使うために脇に置いた。
トントントン、トントン……。
キッチンに響く、私の包丁がまな板を叩くリズミカルな音。それは、佳代子さんの調理中のガチャガチャという雑な音とは対照的だった。
「なんなのよ、あの動き。本当に料理が下手な人の手つきじゃないわよね……」
ソファでスマホをいじっていた沙織さんが、訝しげに呟いたのが聞こえた。
「形だけよ、形だけ。どうせ味はめちゃくちゃなんだから」
佳代子さんは強気に返すけれど、その横顔には、ほんのわずかな焦りの色が浮かんでいるように見えた。
いよいよ肉の工程だ。私が取り出したのは、美しいサシの入った和牛の切り落とし。それを熱したフライパンに一枚一枚丁寧に広げ、強火でさっと表面だけを焼き付けていく。ジュワッという音とともに、極上の肉の脂が溶け出し、たまらなく香ばしい匂いがキッチンに満ちた。それは、佳代子さんの鍋から漂う甘ったるい醤油の匂いを、一瞬にしてかき消すほどの力強い香りだった。
「なっ……! 肉じゃがに、そんな良いお肉使うなんて、もったいない!」
佳代子さんが、思わずといった様子で声を上げる。
「素材の味を活かしたいので」
私は短く答えると、焼き付けた肉を一度皿に取り出した。そして、肉から出た上質な脂が残るフライパンで、先ほど切っておいた玉ねぎを、弱火でじっくりと炒め始める。ゆっくり、ゆっくりと。玉ねぎが持つ水分を飛ばし、甘みを極限まで引き出すための、時間のかかる作業だ。
最初の威勢はどこへやら、佳代子さんは自分の鍋の様子を見ながらも、ちらちらと私の手元を気にするようになっていた。沙織さんに至っては、スマホを置き、完全に身を乗り出して私の調理工程を食い入るように見つめている。
やがて、玉ねぎが美しい飴色になった。そこに、先ほど焼き付けた牛肉を戻し入れ、下茹でしたじゃがいもと人参を、崩さないようにそっと加える。そして、命の源である黄金色の出汁を、静かに注ぎ入れた。本みりんと、風味付け程度のごく少量の薄口醤油を加える。鍋の中は、佳代子さんのものとは対照的に、素材の色が透けて見えるような、澄んだ琥珀色の世界が広がっていた。
アルミホイルで丁寧に落し蓋をし、火加減をごくごく弱火に調整する。あとは、祖母の教え通り、素材たちが一番喜ぶように、静かに味を含ませていくだけ。
一時間半後、二つのキッチンタイマーがほぼ同時に鳴り響いた。
「できたわよ、悠斗! お母さんの愛情たっぷり肉じゃがよ!」
佳代子さんが、濃い茶色に煮詰まった肉じゃがを大皿に豪快に盛り付ける。煮崩れかけたじゃがいもに、こってりとしたタレが絡みつき、見るからに味が濃そうだ。
私も、完成した肉じゃがを深めの鉢にそっと盛り付けた。煮崩れることなく形を保ったじゃがいもと人参。鮮やかな緑を添えるために、さっと茹でた絹さやを散らす。見た目は、佳代子さんのものと比べると明らかに地味だった。澄んだ煮汁は、まるで上品なお吸い物のようだ。
二つの肉じゃがが、食卓の中央に並べられた。審判である悠斗は、ゴクリと喉を鳴らし、どこか緊張した面持ちで箸を取った。沙織さんと佳代子さんは、当然、母の勝利を信じて疑わないという顔で、その様子を見守っている。
「じゃあ、まずは……母さんのから」
悠斗は、慣れ親しんだ佳代子さんの肉じゃがを一口、パクリと食べた。
「うん、いつもの味だね。美味しいよ、母さん。この甘辛い感じ、ご飯が進むよ」
その言葉に、佳代子さんは「そうでしょう!」と満面の笑みを浮かべた。沙織さんも「やっぱりね」と頷いている。しかし、悠斗のその言葉には、私が予想していた通りの、熱量のなさが滲んでいた。それは「美味しい」というより、「知っている味で安心する」というニュアンスに近い。感動や驚きは、そこにはなかった。
そして、運命の瞬間が訪れる。
悠斗は、私の肉じゃがへと箸を伸ばした。見た目の地味さからか、その表情にはほとんど期待の色はない。「まあ、一応食べてみるか」といった、どこか儀礼的な雰囲気さえ漂っていた。
彼はまず、澄んだ煮汁をレンゲですくい、一口飲んだ。
その瞬間、悠斗の動きが、ピタリと止まった。
ゆっくりと閉じていた目が、カッと見開かれる。驚きに染まった彼の顔。彼は信じられないといった様子で、もう一度、煮汁を口に含んだ。
「……なんだ、この出汁……」
か細い声が漏れる。
次に、彼は恐る恐る、じゃがいもを口に運んだ。箸で簡単に切れるほど柔らかいのに、形はまったく崩れていない。じゃがいもを咀嚼した悠斗の表情が、さらに険しくなる。いや、それは険しいのではなく、味の情報を処理しきれずに混乱している顔だった。
最後に、和牛を一切れ、口に入れる。
その刹那、悠斗の全身に、まるで電流が走ったかのような衝撃が駆け抜けたのが、見て取れた。
彼は箸を持ったまま、完全に固まってしまった。その大きな瞳は、目の前の肉じゃがの鉢を見つめたまま、一点から動かない。
「……うまい……」
静寂を破ったのは、彼の絞り出すような、か細い声だった。
「……なんだこれ……。肉が、香ばしくて、とろけるように柔らかい……。じゃがいもは、ホクホクなのに、出汁の味が芯までしっかり染みてる……。でも、しょっぱくない。甘ったるくもない。なのに……なのに、ものすごく味が深い……」
彼は、まるで初めて食べ物を口にした子供のように、一つ一つの感動を言葉にしようと必死になっていた。そして、一度動き出した箸は、もう止まらなかった。肉を口に運び、じゃがいもを頬張り、煮汁をすする。その目は、もはや佳代子さんや沙織さんの方を見ることもなく、目の前の鉢に釘付けになっていた。
そして、彼は顔を上げ、信じられないものを見るような目で、私を見つめた。
「うまい……! 美咲……これ、今まで俺が食べた肉じゃがの中で、一番……いや、比べ物にならないくらい、うまい……!」
その絶賛の言葉は、勝敗を告げる無慈悲な宣告となって、静まり返ったリビングに響き渡った。
佳代子さんの顔から、血の気が引いていくのが分かった。絶対的な自信に満ちていたその表情は、驚愕、そして信じられないという拒絶の色に変わり、やがて屈辱に歪んでいく。隣の沙織さんも、口を半開きにしたまま、弟と私の肉じゃがの間で視線を行ったり来たりさせている。
キッチンに立っていた時の、あの静かな闘志が、今は確かな達成感に変わっていた。私はただ、目の前の光景を静かに見つめていた。私の静かなる反撃は、今、まぎれもない形で、一つの結果を出したのだ。
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