第3話:未使用のチケット

一幕目:沈んだ帰り道

オフィス街の夜、歩道におちた光が雨で滲んでいた。事務職として働く木島玲奈(32)は主張の激しいネオンの光から、目を背けるように歩いていた。

「拍手の音、忘れたふりが、うまくなった」

スマホの通知が鳴る。「演劇祭グランプリ受賞」のニュース。映し出されたのは、かつてともに夢を追った同期の名前だった。

玲奈は、足元に映った照明と自身の顔を見つめる。

「あのまま、もし、続けていたら――――」

視界のすみ、路地の先に、柔らかな灯りが見えた。でかでかと書かれた「四次元ストア」の看板。子供が定規で引いたような直線でできたその建物は、一昔前に取り残された佇まいであった。

玲奈は、好奇心に駆られ、店の扉を開けた。

店内は、現代のごく普通のコンビニであったが、一点だけ異質なのが、棚が遠近に伸び、どこまでも奥深く続いている。刺々しくない天井の白熱光が、雨で冷えた玲奈の体を温かく包む。

「ようこそ。お探しの時間は何でしょうか?」

光の中、店主らしき男性が現れた。

男は、全身黒のダブルのスーツに、サングラスをかけたオールバックで、肌に張りがある。20代に見えるが、正確な年齢は推測できない。清涼感漂わせる雰囲気や長身のスタイルから、俳優のように整った顔立ちだと思わせる。

玲奈はためらいながら、胸の内の願いを絞り出した。

「……選ばなかった方の、私に、会えるチケットを」


二幕目:未使用の観覧チケット

陳列された棚の、無数のケースの中には「未使用の観覧チケット」が入っていた。

席番はA―12。舞台と客席、全体を俯瞰できる、今の自分にはちょうどいい距離感の座席。

玲奈の指先が震えながらチケットに触れる。店主の声が響く。

「観劇したら、後悔はなくなります。ただし――――」

玲奈は店主を見る。

「舞台の彼女の記憶は、あなたのものにならない」

それは、努力の痛みや、選ばれた人生の重みが共有できないことを意味していた。

演者と観客。向かい合うことはあれど、通い合うことはない。それは私が一番理解している。玲奈はチケットを受け取った。

「代価は未練。お預かりします」

レジの皿に、玲奈の心から抜け落ちた透明な粒が落ちる。

「行こう、開演だ」


三幕目:理想の自分

玲奈は古い劇場のファサードに立つ。ポスターには『BRAVO! K-REINA主演』。客席へと向かう通路は暗転前の期待がこもった、ざわめきに満ちていた。

手のひらのチケット座席番号「A-12」を確認し、指定の席に座る。

緞帳が揺れ、いさ開演ベルが鳴る。

ライトに浮かび上がったのは、舞台の玲奈だった。力強い立ち姿。観客が息を呑む。

立っているだけで、空気が彼女の味方をしている。

その姿を見つめながら、客席の玲奈の喉が、ひくりと鳴った。

――私は、ここには立てない。


客席の玲奈は、微笑むとも泣き笑いともつかない表情で、舞台の自分を見つめた。

舞台の玲奈の台詞が、劇場にこだまする。「まだ、終わらせない」

客席の玲奈は拳を握り、舞台と客席の玲奈の視線が、一瞬だけ重なった。

中盤、舞台の玲奈がソロで歌う。観客が総立ちになり拍手を送る中、客席の玲奈は涙を拭った。


休憩時間。楽屋のポスターに手を触れ、鏡に映る自分と目が合う。

「私は、どこまで来た?」

後半、クライマックス。舞台の玲奈の決めの台詞が響いた。

「選ばれなかった道でも、私は立てる」


そして、舞台の玲奈は、観客席のA-12の席をまっすぐに見つめた。客席の玲奈がわずかに頷くと、舞台の玲奈は、客席にしか分からない小さな合図で微笑んだ。

緞帳が降り、嵐のような拍手が起こる。称賛の波が、舞台へと押し寄せる。

その音に包まれながら、玲奈は思った。

羨ましい。

悔しい。

そして――情けない。

この場所は、努力した人のための席だ。

私は、観る側でいることを、自分で選んだのだと。

玲奈は胸に手を当て、深く息を吸った。


客席は、夢から覚めた微睡のなか、静まり返っていた。

聞き分けのいい椅子が、今日だけは私の体を掴んで放さない。

演者と観客。向かい合うことはあれど、通い合うことはない。

A-12の前の通路には、透明な粒が落ちていた。


四幕目:代償と受容

ロビーを出る玲奈の胸のざわめきは、静かになっていた。スマホの通知の「同期の受賞」記事を見ても、心はもう波立たない。胸の奥を探って、玲奈は気づいた。

――もう、痛くない。

同期の名前も、あの舞台も、

思い出しても、胸は波立たなかった。

後悔は、確かに消えていた。

それなのに。

静かすぎる。

整いすぎている。

まるで、

大事な感情まで一緒に置いてきたような、空白。

玲奈は、その静けさを、喜ぶべきかどうか、分からずにいた。

手のチケットは、ふっと光を放って消えた。


ネオンが静かに滲む夜道。ショーウィンドウの鏡に映る飾られた自分に、玲奈は小さく囁いた。

「Bravo」

ポケットに指を入れると、小さな紙切れに触れた。取り出すと、手書きの文字で『Bravo!』と書かれたメモ。誰からのものか、なぜここにあるのか分からないが、玲奈は笑った。

「……ありがとう」

胸の奥は静かで、澄み切っていた。


五幕目:半券チケット

四次元ストアの棚には、観覧済の半券チケット(A-12)がケースに入っていた。

店主はケースをそっと閉じる。

「覚めてもなお、残る夢は、本物か」

扉の内、お客様の来店ベルが鳴る。

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