死者との婚約 ~終わらない世界の果てに~

水辺 京

第1話 始まりの朝

 小鳥の囀りが、朝の静寂を優しく撫でる。

 カーテンの隙間から差し込む光の粒子が、部屋の中で踊っているようだった。


 ふと目が覚める。

 時計の針は朝の六時を指していた。予定よりもだいぶ早いが、不思議と眠気はなかった。


 身体が軽い。心臓が、遠足の前の子供のように高鳴っているのが分かる。

 俺はゆっくりと横を向いた。


 そこには、柔らかい寝息を立てる美咲の姿があった。

 シーツから覗く華奢な肩。長い睫毛。

 その穏やかな寝顔を見ているだけで、胸の奥から温かいものが込み上げてくる。


(……可愛いな)


 三年間、ずっと一緒にいて、今日が一番愛おしく感じる。

 それも当然だ。今日は彼女の二十四回目の誕生日であり、俺たちにとって特別な記念日になるはずの日なのだから。


 彼女を起こさないよう、ゆっくりとベッドを抜け出す。

 そして俺はクローゼットの上着のポケットに忍ばせておいた、小さなベルベットの箱に指先で触れた。

 硬質な感触。

 その中には、彼女に渡すための輝きが眠っている。


 『プロポーズ』


 その言葉を脳内で反芻するだけで、口元が緩んでしまう。

 今の俺は、間違いなく世界で一番幸せな男だ。不安なんて一つもない。

 プランは完璧。天気予報も快晴。


 今日という一日は、俺たちの人生で最高のページになる。そう確信していた。


(さて、朝食の準備でもしますか)


 リビングに着くと鼻歌交じりにコーヒーメーカーのスイッチを入れる。

 抽出音が静かな部屋に響く間に、テレビのリモコンを手に取った。


『――次のニュースです。未明、舞砂駅周辺で発生した通り魔事件について、警察は逃走中の男の行方を追っています』


 画面に映し出されたのは、見慣れた駅の南口だった。

 ブルーシートで覆われた一角。規制線の向こうで点滅する赤色灯。

 アナウンサーが無機質な声で続ける。


『男は刃物を所持しており、現在も現場付近に潜伏している可能性があります。近隣住民の方は戸締まりを徹底し――』


 背筋が粟立つような寒気を感じた。

 舞砂駅。今日、俺たちがデートで向かう予定の遊園地の最寄り駅だ。

 遊園地までは少し距離があるとはいえ、決して無関係な場所ではない。


(まさか……な)


 せっかくの誕生日に水を差された気分だ。だが、遊園地自体は営業しているだろうし、昼間から人混みの中に犯人が現れるとも思えない。

 俺は無意識に、不安を打ち消すようにテレビの音量を下げた。

 その時、寝室のドアが軋む音がした。


「……ん、優くん? 早いね」


 目を擦りながら、美咲がリビングに入ってくる。

 寝癖のついた髪、大きめのパジャマに包まれた華奢な体。その無防備な姿を見ると、先ほどのニュースの陰惨さが嘘のように思えた。

 守らなければならない、と強く思う。


「おはよう、美咲。誕生日おめでとう」

「あ……ありがとう。えへへ、一番に言ってもらえちゃった」


 彼女は花が綻ぶように笑うと、コーヒーの香りに鼻をひくつかせた。


「いい匂い。私の分もある?」

「もちろん。今朝食も作るから」

「やった。優くんのベーコンエッグ、大好きなんだよね」


 大袈裟だな、と苦笑しながら、俺はフライパンを火にかけた。

 ベーコンが焼ける香ばしい匂い。トースターのタイマーが回るジリジリという音。


 パンが焼けるとその上にレタスを敷き、焼けたばかりのベーコンエッグを乗せる。

 そう、美咲はこれが大好物なのだ。


(うまいにうまいを乗せればうまくなる……とか言ってたな)


 そんな当たり前のことを真面目に言う美咲を思い浮かべながらも、珈琲を注ぎ朝食の準備を整える。


「朝食できたよー!」

「はーい!今行くね」


 俺の声に美咲はすぐに反応すると、支度の途中だったのか、直しきれていない寝癖を立てながら急ぎ足で現れた。

 どうやらせっかくの焼きたてが冷めてしまうのが許せないらしい。


「うーん!やっぱり優くんの朝食は世界一だ!これからも頼むよ」

「おだてたって毎日は作ってやらないぞ」


 美咲の言葉にやれやれと呆れたように言葉を返すが、『これからも』という言葉は少し嬉しかった。

 口元は緩み、にやけてしまう。

 俺は心の底を探られぬように、パンを口に放り込み口元を隠した。

 ありふれた、けれど愛おしい日常の朝。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る