季節外れの詩(うた)
ミクラ レイコ
大切なもの
三月下旬のある日。私、
今この家には私とお母さんしか住んでいない。二人で暮らすには広すぎるこの一軒家から引っ越す事に不満は無いけれど、倉庫の整理は思ったより大変だ。
倉庫の奥にある棚には、私が幼稚園児の頃に遊んだ人形やがらくたが詰め込まれている。昔の私はどうしてビール瓶の蓋なんてものを集めていたんだろう。
私が苦笑していると、ふと一台のイーゼルスタンドが目に入った。木製の古いイーゼルスタンド。そこに立てかけられていたのは、一枚のキャンバス。
キャンバスには、油絵の具で風景画が描かれていた。ありふれた田舎の風景。その中央には、一本の桃の木が描かれている。花が咲いているみたいだから、季節は春だろう。
淡い色合いで、幻想的な雰囲気すら感じる桃の木。大抵の人は、この風景画を見て心を奪われるのだろう。でも私は、その絵を見て複雑な気持ちになった。
「おっすー、桃子! 手伝いに来たぞー!!」
私の感傷的な気分をぶち壊して倉庫に入って来たのは、
私は、目をぱちくりとさせて大雅さんの方を見る。
「大雅さん、どうしてここに?」
すると、大雅さんは笑いながらこちらに近付く。
「いやあ、
直美と言うのは私の母親だ。大雅さんと私は幼馴染と言うこともあり、大雅さんは私のお母さんにも気安い話し方をする。
大雅さんは、桃の木の風景画に視線を向けて目を輝かせる。
「あ、それ、
私は、無言で頷いた。亮介というのは私の父親だ。お父さんはプロの画家だったけど、一年前に病気であの世に旅立った。
「俺、この作品好きだったんだよー。この絵を見て俺も画家になりたいと思ったくらいだし」
大雅さんは、美大を卒業した後プロの画家となったけれど、まだ売れていない。コンビニで働きながら画家としての活動をしているらしい。
「……大雅さん。その絵が気に入ってるなら、持って帰っても良いよ。私、その絵いらないから」
私が言うと、大雅さんは眉根を寄せて尋ねる。
「なんでいらないんだよ? 亮介先生の作品だぞ?」
大雅さんは、私のお父さんを尊敬しているからそんな事を言えるんだろう。私は、大雅さんから目を逸らして言った。
「ねえ、大雅さん。この絵のタイトル、知ってる?」
「知らないわけ無い。『大切なもの』だろ?」
そう。確かにこの絵のタイトルは『大切なもの』だ。お父さんが子供の頃過ごした田舎の風景を描いた絵。きっと、子供の頃の思い出を大切にしているのだろう。でも……。
「昔の思い出を大切にするのは結構な事だと思う。でも、私は? 私、お父さんに大切にされた記憶なんて無い」
お父さんは、私が幼稚園児だった頃まではよく私と遊んでくれたし、ご飯も作ってくれた。でも、私が小学生になった頃から、お父さんはアトリエ代わりの自室に引きこもる事が多くなり、碌に私と話してくれなくなった。
お父さんが画家として忙しくなるにつれ、私との溝は大きくなるばかりだった。
「亮介先生は、お前の事を大事にしてたと思うぞ」
大雅さんが、不機嫌な顔で言う。私は、首を横に振って答えた。
「そんなわけ無いよ。私が『参観日に来てほしい、絶対だよ!』って言っても来てくれなかったお父さんだよ。私の事を大切にしていたとは思えないな」
すると、大雅さんは何か考え込んだ後、「あー、もうっ!!」といって自分の頭をわしゃわしゃと書き乱した。
そして、大雅さんは辺りをキョロキョロとした後、倉庫にあったカッターを手にする。大雅さん、何をするつもりなんだろう?
そう思って私が大雅さんを見つめていると、大雅さんは桃の木の絵に近付き――キャンバスの布を、カッターを使ってバリバリと剝がし始めた。
「な、何してるの、大雅さん!?」
私は戸惑って声を上げる。大雅さん、お父さんの絵が大好きだったじゃない。どうしてお父さんの絵を傷付けるような事をするの?
この絵は一時的にイベントに展示されていただけで売り物じゃないけど、こんな事……。
大雅さんは、私の方に向き直ると、絵を指さして言った。
「桃子、よく見ろ、この絵を!!」
私は、わけが分からないながらも絵の方に視線を向けて、目を瞠った。
キャンバスの布を剥がしたその下から出て来たのは、別の絵。それは、笑顔でこちらを振り向く私の絵だった。
「これ……!!」
私は思わず声を漏らした。絵の中の私は小学校低学年くらい。お父さん、いつの間にこんな絵を描いていたんだろう。
いや、それより、どうして絵の下に絵を隠すみたいな事を……。
大雅さんは、ニカッと笑って言った。
「十年くらい前、イベント用の絵を描いてくれないかって頼まれた先生は、最初お前をモデルとしてこの絵を描いたんだよ。でも、顔も個人情報の一つだからこの絵を発表するのはやめてくれって直美おばさんに言われて、お前の絵を風景画の下に隠す事にしたんだ」
そうだったんだ……。私は、改めて絵を見つめる。その絵からは、お父さんの私に対する愛情が伝わってくるような気がした。でも……。
「……私を大切に思ってくれてるなら、どうして私とあまり話してくれなかったの……?」
すると、大雅さんは目を伏せて言った。
「……俺も後から聞いたんだけどさ。亮介先生、若年性の認知症だったみたいなんだよ」
「えっ!!」
あの絵を描いた当時、お父さんは三十二歳。そんなに若くても認知症になるんだ……。
大雅さんは、言葉を続ける。
「だからさ、お前と遊ぶ約束をしてそれを忘れたりすると、お前が悲しむだろ? だから、先生はあえてお前とあまり関わらない生き方を選んだ。……不器用な人だよ」
そして大雅さんは、キャンバスを持って私に差し出すと、穏やかな笑顔で言った。
「やっぱり俺は、お前にこの絵を持っていてほしいな。『大切なもの』っていうのは、間違いなくお前の事だよ」
私は、絵を受け取ると、それをギュッと胸に抱き締めた。
「……ありがとう、お父さん。私の事を大切に思ってくれて、ありがとう……」
いつの間にか、私の目からは涙がボロボロと零れていた。
倉庫の小さな窓から、昼下がりの柔らかい日差しが差し込んでいる。
季節は、もう春。
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