第29話「雪の日」

 十二月下旬。

 天気予報が、東京に初雪を告げていた。


 その日の朝、目を覚ますと、窓の外が白くなっていた。

 雪だ。本当に降ったんだ。


 スマホを見ると、ファーティマからメッセージが来ていた。


『湊! 雪! 雪が降ってる!』


 時刻は午前六時。いつもより早い。興奮して目が覚めたのだろうか。


『見たよ。積もってるな』


『初めて見たの! 本物の雪!』


『アブダビには降らないんだっけ』


『降らないわ! 人生で初めて見たの!』


 メッセージの後に、大量の雪の絵文字が送られてきた。

 彼女の興奮が伝わってくる。


『今日、学校終わったら一緒に雪で遊ばない?』


『遊ぶって、何するんだ』


『わからない! でも遊びたいの!』


 俺は思わず笑ってしまった。

 いつもは落ち着いているファーティマが、こんなにはしゃいでいるのは珍しい。


『いいよ。放課後、公園で待ち合わせよう』


『約束よ!』


 * * *


 学校に着くと、ファーティマは窓の外ばかり見ていた。

 授業中も、ちらちらと外を気にしている。先生に注意されても、すぐにまた窓を見てしまう。


「ファーティマ、落ち着けよ」


 昼休み、俺は苦笑しながら言った。


「だって、溶けちゃったらどうするの」


「そんなすぐには溶けないって」


「でも、心配なの」


 彼女は真剣な顔をしていた。本気で心配しているらしい。


「放課後まで残ってるから。約束する」


「本当?」


「ああ。むしろ、もっと積もるかもしれない」


 ファーティマは少し安心したようだった。

 でも、それでも時々窓の外を見ていた。


 * * *


 放課後、俺たちは約束通り公園に向かった。

 雪はまだ残っていた。というより、昼間も降り続いていたので、朝より積もっている。


「わあ……」


 公園に着いたファーティマは、感嘆の声を上げた。

 一面の銀世界。木々の枝にも、ベンチにも、遊具にも、白い雪が積もっている。


「綺麗……」


「だろ」


「触っていい?」


「いいよ」


 ファーティマは恐る恐る雪に手を伸ばした。

 指先が白い雪に触れる。


「冷たい!」


「当たり前だろ」


「でも、ふわふわしてる。綿みたい」


 彼女は雪を掬い上げた。手のひらの上で、雪がキラキラと光っている。


「溶けていく……」


「手の温度で溶けるんだ」


「儚いわね。こんなに綺麗なのに、すぐに消えてしまう」


 ファーティマは少し寂しそうな顔をした。

 でもすぐに、目を輝かせて俺を見た。


「ねえ湊、雪だるま作りたい」


「雪だるま?」


「映画で見たの。雪を丸めて、大きなお人形を作るのよね?」


「ああ、そうだな」


「やってみたいわ。教えて」


 俺たちは雪だるま作りを始めた。

 まず小さな雪玉を作り、地面を転がして大きくしていく。


「こうやって転がすと、雪がくっついて大きくなるんだ」


「へえ……本当だわ。どんどん大きくなる」


 ファーティマは夢中になって雪玉を転がしていた。

 コートが雪で白くなっても、手袋がびしょびしょになっても、気にしていない。


「よし、これくらいでいいか」


 俺は大きな雪玉を二つ作った。下の体と、上の頭。


「重ねるぞ」


「うん」


 二人で頭の部分を持ち上げて、体の上に乗せた。

 少し不格好だが、雪だるまの形になった。


「顔を作ろう」


「何で作るの?」


「その辺の小石とか、木の枝とか」


 俺たちは周りを探して、材料を集めた。

 小石で目を、木の枝で腕を、落ち葉で口を作る。


「完成!」


 ファーティマが歓声を上げた。


「可愛い! 私たちの雪だるま!」


「ちょっと歪んでるけどな」


「そこがいいのよ。世界に一つだけの雪だるま」


 彼女はスマホを取り出して、雪だるまの写真を撮った。

 それから、俺と雪だるまと三人で写真を撮った。


「宝物がまた増えたわ」


 * * *


 雪だるまを作り終えた後も、俺たちは公園で遊んだ。


「ねえ湊、雪合戦って知ってる?」


「知ってるけど——」


 言い終わる前に、雪玉が飛んできた。

 避けきれず、肩に当たる。


「当たった!」


 ファーティマが笑っている。


「お前……」


「ほら、反撃して」


 俺は雪を丸めて、彼女に投げ返した。

 彼女は身をかわしたが、少しだけ当たった。


「きゃっ! 冷たい!」


「自業自得だ」


 そこから、本格的な雪合戦が始まった。

 雪玉を投げ合い、逃げ回り、笑い合う。子供みたいだと思ったが、楽しかった。


「待って、タイム!」


 ファーティマが息を切らせて言った。


「疲れた……」


「俺もだ」


 俺たちはベンチに座った。雪を払って、並んで腰を下ろす。

 白い息が、空に立ち上っていく。


「楽しかったわ」


「ああ」


「雪って、こんなに楽しいものなのね」


 ファーティマは空を見上げた。

 また、ちらちらと雪が降り始めていた。


「アブダビには、絶対にない景色だわ」


「砂漠の国だもんな」


「ええ。雪なんて、夢の中でしか見たことなかった」


 彼女は手のひらを空に向けた。

 舞い降りてきた雪の結晶が、手のひらの上で一瞬輝いて、溶けていく。


「湊」


「ん?」


「私、日本に来て良かった」


 彼女は俺を見た。


「桜を見て、花火を見て、紅葉を見て、雪を見て。全部、湊と一緒に」


「……」


「一年前の私には、想像もできなかった。こんなに幸せな時間を過ごせるなんて」


 俺は何も言えなかった。

 彼女の言葉が、胸に染みていた。


「ありがとう、湊。私を幸せにしてくれて」


「俺は、何もしてないよ」


「してるわ。たくさん」


 ファーティマは微笑んだ。

 雪が、彼女の白いヒジャブの上に降り積もっていく。


「私ね、ずっとこうしていたい。湊と一緒に、日本で暮らしていたい。ずっと」


 その言葉に、胸が締めつけられた。

 ずっと、という言葉の重さ。彼女には、残された時間がある。


「俺も、そうしたいよ」


「本当?」


「ああ。お前と一緒にいたい。ずっと」


 ファーティマの目が潤んだ。


「湊……」


「だから、諦めない。どんな壁があっても」


「うん」


「お前の母さんも、きっと説得してみせる」


「うん」


「約束する」


 俺は彼女の手を取った。

 冷たくなった手。でも、握り返してくる力は温かかった。


「信じてる」


 彼女はそう言って、俺の肩にそっと頭を預けた。


 雪が静かに降り続いている。

 世界が白く染まっていく。


 二人きりの公園。

 二人だけの時間。


 このまま時間が止まればいいのに。

 そう思った。


 でも、時間は止まらない。

 季節は巡り、やがて春が来る。


 その時、俺たちはどうなっているのだろう。


 考えても答えは出ない。

 だから今は、この瞬間を大切にしよう。


 彼女の温もりを感じながら、俺は降りしきる雪を見上げていた。

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