第27話「父の本音」

 十一月中旬。

 俺は再び、ファーティマの家を訪れた。


 今回は、アフマドさんから連絡があった。

 二人で話したいことがある、と。


 ライラさんではなく、アフマドさんから。

 それが何を意味するのか、俺にはわからなかった。


 * * *


 マンションのエントランスで、アフマドさんが待っていた。

 スーツ姿ではなく、カジュアルな服装。休日らしい穏やかな雰囲気だった。


「湊さん、来てくれましたね」


「お呼びいただき、ありがとうございます」


「堅くならないでください。今日は、父親として話がしたいのです」


 アフマドさんは俺を、マンション近くのカフェに案内した。

 窓際の席に座り、コーヒーを注文する。


「ファーティマさんは?」


「今日は、二人で話したいのです。娘には内緒で」


 内緒。

 少し緊張した。


「何のお話でしょうか」


「湊さん」


 アフマドさんは真剣な目で俺を見た。


「あなたは、娘のことをどれくらい知っていますか」


「どれくらい、というと……」


「娘の過去のことです」


 過去。

 俺は首を傾げた。


「ファーティマさんの過去、ですか」


「ええ。娘がなぜ、あなたにあれほど心を開いたのか。その理由を知っていますか」


「いえ……」


 考えたこともなかった。

 ファーティマは最初から明るくて、社交的で、誰とでも打ち解けられる人だと思っていた。


「娘は昔、いじめに遭っていました」


 予想外の言葉に、俺は言葉を失った。


「アブダビの学校で、です。小学校の高学年の頃でした」


「いじめ……」


「理由は、娘の母親がモロッコ人だったからです」


 アフマドさんの声は静かだったが、どこか痛みを含んでいた。


「UAEは多民族国家ですが、それでも差別はあります。純粋なエミラティ——UAE人——ではないということで、娘は仲間外れにされました」


「そんなことが……」


「娘は明るく振る舞っていましたが、心の中では傷ついていました。友達を作ることに、臆病になっていた時期もあります」


 俺は黙って聞いていた。

 ファーティマのそんな一面、知らなかった。


「日本に来ることが決まった時、妻も私も心配しました。また同じことが起きるのではないか、と」


「……」


「でも、娘は変わりました。あなたに出会ってから」


 アフマドさんは俺を見た。


「あなたは、娘を特別扱いしなかった。ムスリムだから、外国人だから、ではなく、一人の人間として接してくれた」


「俺は、そんなつもりは——」


「だからこそ、です。意識せずにそうできる人は、珍しいのです」


 アフマドさんはコーヒーを一口飲んだ。


「娘は、あなたに救われたのです。だから、あなたのことを好きになった」


 * * *


「湊さん」


 アフマドさんは続けた。


「私は、あなたに反対しているわけではありません」


「え?」


「妻は反対しています。それは事実です。でも、私は違う」


 俺は驚いて、アフマドさんを見た。


「娘が幸せなら、それでいいと思っています。相手が誰であっても」


「でも、宗教のことは——」


「宗教は大切です。でも、それだけが全てではない」


 アフマドさんの目は真剣だった。


「私も若い頃、恋をしました。妻と出会った時のことです」


「ライラさんと……」


「妻はモロッコ人で、私はUAE人。当時、両家の反対がありました」


 意外だった。あのライラさんも、かつては反対されていたのか。


「特に私の父——ファーティマの祖父——は猛反対でした。モロッコ人の嫁など認めない、と」


「でも、結婚されたんですよね」


「ええ。私が押し切りました」


 アフマドさんは少し笑った。


「若かったのです。妻を愛していたから、他のことは何も考えませんでした」


「……」


「だから、湊さんの気持ちはわかります。好きな人のために、壁を乗り越えたいという気持ち」


 俺は少し救われた気がした。

 この人は、俺の味方なのだ。


「でも、だからこそ言いたいこともあります」


 アフマドさんの表情が、少し厳しくなった。


「壁を乗り越えるのは、簡単なことではありません。私と妻も、結婚してから何度も衝突しました」


「衝突……」


「文化の違い、価値観の違い、家族との関係。問題は次から次へと出てきます。愛だけでは解決できないことも、たくさんある」


「はい」


「それでも、一緒にいたいと思えるか。困難があっても、乗り越える覚悟があるか」


 アフマドさんは俺の目を見つめた。


「それを、あなたに問いたいのです」


 * * *


 俺は深呼吸をして、答えた。


「覚悟は、あります」


「本当ですか」


「はい。ファーティマさんと一緒にいたい。どんな困難があっても」


「宗教のことは、どうするつもりですか」


「正直、まだ答えは出ていません。でも、学んでいます。イスラムのこと、勉強しています」


「改宗する気持ちはありますか」


「可能性は、閉ざしていません」


 俺は正直に答えた。


「すぐには無理です。でも、ファーティマさんと将来を一緒に歩むために必要なら、真剣に考えます」


 アフマドさんは黙って俺を見ていた。

 長い沈黙の後、彼は小さく頷いた。


「わかりました」


「え?」


「あなたの気持ちは、本物のようですね」


 アフマドさんは微笑んだ。


「私は、あなたを応援します。娘のことを、よろしくお願いします」


「アフマドさん……」


「ただし、妻を説得するのは簡単ではありません。時間がかかるかもしれない」


「わかっています」


「でも、私も協力します。一緒に、妻を説得しましょう」


 俺は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「お礼を言うのは早いですよ。まだ何も解決していません」


「それでも、アフマドさんが味方になってくれるだけで、心強いです」


 アフマドさんは立ち上がった。


「娘を幸せにしてください。それだけが、私の願いです」


「はい。必ず」


 俺たちはカフェを出た。

 外は少し肌寒かったが、心は温かかった。


 * * *


 その夜、ファーティマに連絡した。


『今日、お前の父さんと話した』


『え? 父と?』


『ああ。色々話を聞かせてもらった』


『何を話したの?』


 俺は少し考えてから、答えた。


『お前のこと。過去のことも』


 しばらく返信がなかった。


『……父が話したの?』


『ああ。いじめのことも』


『そう……』


『なんで言ってくれなかったんだ』


『言えなかったの。恥ずかしくて』


『恥ずかしいことなんかない。お前は何も悪くない』


 また間があった。


『湊、ありがとう』


『何が?』


『私を、普通に扱ってくれて。最初から、ずっと』


『当たり前だろ』


『当たり前じゃないのよ。私にとっては』


 彼女の言葉が、胸に染みた。


『これからも、そうする。お前は俺にとって、特別な人だから』


『……うん』


『おやすみ、ファーティマ』


『おやすみ、湊。大好き』


 俺はスマホを置いて、天井を見上げた。


 アフマドさんが味方になってくれた。

 大きな一歩だ。


 でも、まだライラさんがいる。

 彼女を説得するのは、簡単ではないだろう。


 それでも、諦めない。

 ファーティマのために。

 そして、俺たちの未来のために。

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