第6話死の淵から、ただ歩いて帰ってきた女。 死の淵から、ただ流されて帰ってきた男。
富樫警官の爆笑から一転、山伏慶太が自身の壮絶な過去を告白するシリアスなシーンを執筆します。
***
富樫さんは、まだ腹を抱えて笑っている。
「いやー、それにしても歩いて帰ってくるか、普通! あの子、もはや妖怪か何かの類だな!」
ひとしきり笑い終えた富樫さんが、涙を拭きながらこちらを見た。
おれは、ゴツゴ-ツとした磁気ネックレスの感触を指で確かめながら、静かに口を開いた。
**「なら、富樫さん。ぼくの話も、聞いてもらえますか」**
さっきまでの呆然とした表情は消え、自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
おれの、これまでにない真剣な声色と目に、富樫さんの顔から笑みがすっと消える。
**「あ? なんだ急に真剣になって。…いいぜ、何だ?」**
刑事の顔に戻った富樫さんが、まっすぐにおれを見据える。
おれは一度、ゆっくりと息を吐いた。
「昔…検針員になる前の話です。ぼく、交際していた女性に殺害されそうになったんです」
生活安全課の部屋に、沈黙が落ちる。
富樫さんの眉が、ぴくりと動いた。
「彼女には、別に本命の男性がいたみたいで…。ぼくは、邪魔になった」
「…………」
「ある夜、その男の服を無理やり着せられて…そのまま、車ごと千葉の断崖絶壁から突き落とされました」
まるで他人事のように、淡々と事実だけを口にする。
あの日の、シートベルトに締め付けられる感覚と、逆さまになって落ちていく景色のスローモーションが、瞼の裏に蘇る。
「…おそらく、ぼくをその男に見せかけて、事故死か自殺に見せかけたかったんでしょうね」
「……待て」
富樫さんが、低い声で制した。
「君は、どうやって…」
「崖下の岩場に車が引っかかって、奇跡的に。…ずぶ濡れで気を失っていたところを、夜明けの波を待っていた、若いサーファーのリーダーみたいな青年に助けられて…。それで、いま、ここにいます」
そこまで言って、おれはふっと笑った。
「だから、まあ…ぼくも、似たようなもんですよ。安藤さんと」
死の淵から、ただ歩いて帰ってきた女。
死の淵から、ただ流されて帰ってきた男。
富樫さんは絶句していた。
さっきまで安藤ありさの武勇伝に大爆笑していた陽気な中年刑事の姿は、どこにもない。
彼はしばらく黙り込んで、何かを考えるように天井を仰いだ後、静かにおれの顔を見た。
「……そうか」
ぽつりと、それだけを呟いた。
「君も、大概だな…」
その声には、同情でも憐憫でもない、もっと深いところから来る、ずしりとした重みがあった。
富樫さんは、ゆっくりと立ち上がると、自分のデスクから缶コーヒーを二本取り出し、一本をおれの前に置いた。
「…なるほどな」
彼は缶のプルタブを開けながら、独り言のようにつぶやいた。
「どうりで君たちが、互いの『磁場』とやらに引き合うわけだ。…お前ら、二人とも、一度あっち側の世界に足を踏み入れて、無理やりこっちに引き返してきた連中なんだな」
富樫さんの言葉が、ストンと胸に落ちた。
そうだ。
おれたちは、似ているんだ。
生き埋めにされても歩いて帰ってくる彼女と、崖から突き落とされても流されて帰ってくるおれ。
おれたちが見ている世界は、感じている「磁場」は、たぶん、普通の人たちとは少しだけ、違ってしまっている。
おれは、ぬるくなった缶コーヒーを、ただ黙って握りしめた。
(了)
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