第十五話:甘い泥沼
ローファーの硬い靴底が、荒れたアスファルトを捉える感触だけが、私がこの世界に物理的な質量を持って存在している唯一の証のように感じられた。
右足を踏み出し、体重を乗せ、左足を引き上げる。その単調極まりない動作の繰り返しが、もうどれくらいの時間続いているのか、私の感覚では判然としない。
足首からふくらはぎにかけて、一歩ごとに重だるさがまとわりついてくる。筋肉が悲鳴を上げているというよりは、体がこの灰色の空間に馴染もうとして、徐々に石化し始めているような、そんな錯覚に近い疲労感だった。
私たちは、団地という――峡谷の底を歩いていた。
もちろん、ここで両脇に迫り上がるのは、自然が作り出した岩肌の崖ではない。規格化された四角いコンクリートの箱を積み上げた、五階建ての集合住宅群だ。
視界の限り、判で押したような同じ意匠、同じ高さ、同じ色の建物が、無縁仏の墓石のように整然と、そして無機質に並んでいる。
空を見上げても、そこにあるのは太陽の存在しない、セピア色に濁った天井だけだった。光源がどこにあるのかも分からない、ぼんやりとした明かりが、世界全体を古ぼけた写真のような色調に染め上げている。その光は影を濃く落とすこともなく、ただ事物の輪郭を曖昧に浮かび上がらせるだけに留まっていた。
風は完全に凪いでいた。
空気は過飽和なほどの湿気を帯びて重く、肌にじっとりと張り付く。それは夏の蒸し暑さとは異なり、腐敗した水底に沈んでいるような、冷たく粘着質な湿り気だった。
呼吸をするたびに、鼻腔の奥に特有の臭気が入り込んでくる。防虫剤のナフタリンと、古くなってささくれた畳、そして湿ったカビの臭いが複雑に混ざり合った、陰鬱な生活臭。それは、住人が去ってから長い時間が経過し、密閉されたまま時が止まっていた空き家に、不意に足を踏み入れた瞬間の空気に似ていた。
その臭いを吸い込むたびに、肺の中が古い綿埃で埋め尽くされていくような息苦しさを覚える。酸素ではなく、死んだ時間を吸い込んでいるような不快感が、内側から私の生気を蝕んでいく。
前を歩く九条さんの背中だけが、この色彩のない世界における唯一の色のある物体だった。
彼女の黒髪は、無風の空間にあって微動だにせず、背中に張り付くように垂れている。その漆黒だけが、周囲の曖昧な灰色から切り離された、鋭利な実存感を放っていた。
彼女は一度も振り返らず、一定の歩幅で歩き続けている。その迷いのない足取りを見ていると、彼女にはこの迷路の全体像が見えているのではないかと錯覚しそうになる。だが、彼女の視線が時折、建物の角や窓の配置を慎重に探っているのを見るにつけ、彼女もまた、手探りで進んでいるに過ぎないのだという事実を突きつけられる。
建物の側面には、巨大な数字がペンキで描かれていた。
『51』
『109』
『8』
それらの数字には、やはり何の規則性も見出せなかった。
隣り合う建物同士で数字が連続しているわけでもなく、区域ごとに桁が統一されているわけでもない。ただ、巨大な筆で殴り書きされたような数字が、無秩序に配置されているだけだ。
ある数字は、長年の雨風に晒されて塗装が剥げ落ち、判読すら難しくなっていた。またある数字は、黒い煤のような汚れに覆われ、何か不吉な呪術の紋様のように見えた。
それらは住居を表示するための記号としての機能を失い、ただこの場所が混沌とした無意味な空間であることを主張する、巨大な落書きのように感じられた。
私たちは、巨大な団地という怪物の胃袋の中を、消化されるのを待ちながら歩いている異物のようなものかもしれない。
そんな考えが頭をよぎり、私は首を振って否定した。
余計なことを考えてはいけない。思考の隙間に、不安という名の毒が入り込んでくる。
ただ足を動かすことだけに集中する。
硬いアスファルトの感触。
自分の荒い呼吸音。
制服が擦れる衣擦れの音。
それらの物理的な刺激だけを頼りに、私は私という意識を、この希薄な現実に繋ぎ止めていた。
「……ねえ、九条さん」
私は、乾燥して張り付いた喉を無理やり開いた。
声が、あまりにも小さく、頼りなく響く。周囲の圧倒的な静寂に、瞬時に飲み込まれてしまいそうだ。
「まだ、続くのかな」
問いかけに、明確な答えが返ってくることは期待していなかった。ただ、音を出すことで、この窒息しそうな閉塞感に小さな穴を開けたかっただけだ。
九条さんは歩調を緩めず、私の問いには何も答えなかった。
彼女の沈黙は、無視というよりは、答えるための言葉を持たないことの表れのように思えた。あるいは、言葉を発する意味がないことを話すことを嫌っているのかもしれない。
たしかにそうだ、この状況では。私の問い自体が意味をなさないのかもしれない。終わりがあるのかないのか、それは誰にも分からないのだから。
さらにしばらく歩くと、風景に変化が現れた。
これまで私たちの行く手を壁のように遮り、視界を制限していた団地の列が、不意に途切れたのだ。
そこには、ぽっかりと口を開けたような、四角い広場があった。
建物に四方を囲まれた、中庭のような空間。
地面は灰色の無機質なアスファルトから、踏み固められた赤茶色の土へと変わっている。
その中央に、いくつかの遊具が配置されていた。
公園だった。
かつては子供たちの歓声が響き、活気に満ちていただろう場所。
しかし今は、ただの残骸の集積所のように静まり返っている。
中央に鎮座しているジャングルジムは、ところどころ塗装が剥がれ落ち、そこからは赤錆に覆われていた。
その隣には、四本の支柱で支えられたブランコがある。
座板は木製で、雨風に晒されて腐りかけ、苔むしている。吊り下げている鎖は赤黒く錆びつき、風もないのに微かに揺れていた。
キィ、キィ、という微小な音が、静寂の中に染み渡るように響いている。
まるで、目に見えない透明な誰かがそこに座り、足を揺らしているかのような一定のリズム。
その音を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
見てはいけないものを見てしまったような、本能的な忌避感。ここには「いる」。目には見えない何かが、確かにここに存在している。
だが、足は止まらなかった。
身体が、休息を求めていたからだ。
どこでもいいから座りたい。横になりたい。こののしかかるような重力から解放されたい。
そんな切実な肉体的な欲求が、精神的な警戒心を凌駕しようとしていた。
公園の入り口付近には、ひび割れたコンクリート製のベンチがあった。
背もたれの部分が欠け、座面には苔のような黒いシミが広がっている。それでも、今の私にはそれが王座のように魅力的に見えた。
「……少し、休まない?」
私の提案に、九条さんは足を止めた。
彼女は公園全体をゆっくりと見回した。その視線は、鋭く、油断がなかった。
彼女の視線が、揺れるブランコを一瞥し、そして周囲の団地の窓へと向けられる。
「長居は推奨しない。ここは空気が淀んでいる」
彼女はそう言いながらも、私の疲労を察してか、ベンチの端に腰を下ろした。
私もその隣に、重い荷物を下ろすようにして座り込んだ。
硬いコンクリートの感触が、お尻を通じて全身に伝わる。冷たさが染みてくるが、今はそれさえも心地よい。
はあ、と深い息を吐き出すと、体の中に溜まっていた緊張が一瞬だけ途切れた気がした。
視界の先には、錆びついた滑り台がある。
その向こうには、砂場があった。
砂場の中には、忘れ去られたプラスチックのスコップやバケツが、半分土に埋もれたまま放置されている。
誰かが遊んで、そのまま帰ってしまったのだろうか。
それとも、遊んでいる最中に、何かが起きて、二度と戻ってこれなくなったのだろうか。
子供たちはどこへ行ったのだろう。
親たちはどこへ行ったのだろう。
そんな不吉な想像をしていると、不意に、鼻をくすぐる匂いが変化したことに気づいた。
先ほどまでの、鼻をつくようなカビとナフタリンの臭気ではない。
もっと柔らかく、温かみのある香り。
醤油と砂糖を煮詰めたような、甘辛い煮物の匂い。
炊き立ての米から立ち上る、ふくよかな湯気の香り。
魚が焼ける香ばしい煙の匂い。
味噌汁の出汁の香り。
夕飯の支度をする匂いだ。
それも、どこかの飲食店から漂ってくるようなよそよそしいものではない。
それぞれの家庭の台所から、換気扇を通じて路地に流れ出してくる、生活の営みの匂い。
母が包丁を使う音。鍋がコトコトと煮える音。食器が触れ合う音。
それらが匂いと共に、記憶の底から蘇ってくる。
お腹が鳴った。
空腹を感じているという自覚はなかったのに、その匂いを嗅いだ瞬間、胃袋が強烈に自己主張を始めたのだ。
それと同時に、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
懐かしい。
どうしようもなく、懐かしい。
涙が出そうになるほど、切なくて、愛おしい。
視界が、ふわりと滲んだ気がした。
セピア色に沈んでいた風景が、夕焼けの鮮やかなオレンジ色に染まっていく。
ところどころ錆びついて赤茶色だったジャングルジムが、夕日を受けて黄金色に輝き始めた。その輝きは、かつての栄光を取り戻したかのように神々しい。
腐りかけていたブランコの座板が、使い込まれて滑らかな飴色の木材に見える。
ここは、知っている場所だ。
初めて来たはずの団地。
それなのに、私の記憶の底にある引き出しが、勝手に開いていく。
幼い頃、近所の友達と暗くなるまで遊んだ公園。
「また明日ね」と言って手を振った帰り道。
家路を急ぐ足取り。
早く帰れば、お母さんがご飯を作って待っていてくれる。
今日の献立は何だろう。
肉じゃがかな。ハンバーグかな。
思考が、温かいお湯で溶かされていくように、ゆっくりと解きほぐされていく。
ここにあるのは恐怖ではない。
安らぎだ。
帰るべき場所を見つけたという、絶対的な安心感。
耳に届く音も変わっていた。
静寂は消え失せ、遠くから子供たちの笑い声が聞こえてくる。
どこかの家でついているテレビの音。バラエティ番組の賑やかな効果音と、観客の笑い声。
遠くで響く豆腐屋のラッパの音。プー、パァー、という間延びした音色。
包丁がまな板を叩く、トントンというリズミカルな音。
それらが重なり合い、夕暮れ時の幸福な音となって私を包み込む。
ああ、帰らなくちゃ。
もう遅い時間だ。
早く帰らないと、お母さんに叱られる。
でも、叱られた後には、温かいお風呂と、美味しいご飯が待っている。
そうだ、私は迷子になっていたんだ。
長い長い迷子から、やっと家を見つけたんだ。
私は自然と立ち上がっていた。
足の重さは嘘のように消えていた。
体中を満たしていた疲労感は、心地よい微睡みのような倦怠感へと変わっていた。
私は、公園を取り囲む団地の方へと歩き出した。
団地の窓という窓に、明かりが灯っている。
温かみのある、電球色の光。
その光の中に、人影が見えた。
カーテン越しに動くシルエット。
ベランダに出て、洗濯物を取り込んでいるお母さん。
窓から顔を出して、誰かを呼んでいるような仕草をする、近所のお婆ちゃん。
彼らは、私を知っている。
私も、彼らを知っている気がする。
あの一階の角部屋は、確か優しいお婆ちゃんが住んでいて、よく飴をくれたっけ。
あの三階の部屋には、同級生の男の子が住んでいて、いつも窓から顔を出してふざけていた。
ここは私の地元だ。
私の故郷だ。
ずっと探していた、私の本当の居場所だ。
耳元で、声がした気がした。
言葉として明確な形を持っているわけではない。言語として認識できる音波ではない。
けれど、その音の響きは、私の脳に直接、意味を流し込んできた。
――おかえり、という響き。
――ご飯ができてるよ、という響き。
――温かいよ、という響き。
――こっちへおいで、という響き。
その声なき声は、甘い蜜のようにドロリとしていて、それが脳裏にへばりついた。
拒絶しようという意思が湧かない。疑うことさえ罪悪感に思える。
ただ、その甘さに身を委ねてしまいたいという欲求だけが、風船のように膨らんでいく。
九条さんのことなど、もうどうでもよかった。所詮、彼女は他人だ。でもあそこにいるのは家族だ。
私は、ふらふらと一号棟の入り口へと向かった。
一階の入り口には、誰かが立っている。
逆光で顔は見えない。
でも、あの背格好は、お母さんだ。
割烹着を着て、心配そうに私を待っている。
「お母さん……」
口から、自然と言葉が漏れた。
涙が溢れてきた。
怖かった。寂しかった。
変な場所で、変な女の子と一緒に歩き回って、とても疲れた。
もう歩きたくない。もう考えたくない。
でも、もう大丈夫。
お母さんが迎えに来てくれたんだから。
私は駆け寄ろうとした。
早くあの温かい腕の中に飛び込みたくて。
この冷たい現実から逃げ出したくて、足を速めた。
その時。
パァンッ!
乾いた破裂音が、耳を震わせた。
同時に、左頬に鋭い熱と痛みが走った。
視界が揺れ、地面が急接近する。
私はバランスを崩し、その場によろめいた。
「え……?」
何が起きたのか理解できなかった。
アスファルトに手をつく。
ザラリとした痛みが掌に走る。皮膚が擦りむける感覚。
私は呆然と顔を上げた。
目の前に、九条さんが立っていた。
彼女は右手を振り抜いた姿勢のまま、私を見下ろしていた。
夕焼けの逆光などない。
黄金色の輝きなどない。
そこにあるのは、相変わらずのセピア色に澱んだ空と、彼女の冷たい視線だけだった。
彼女が、私を叩いたのだ。
平手打ち。
その事実は、遅れて私の脳に到達した。
「目を覚ましなさい」
彼女の声は、低く、地を這うように響いた。
そこには同情も、憐憫もなかった。
ただ、事実を突きつけるような冷徹な響きだけがあった。それは、溺れている人間に水をかけるような、荒療治の一環だった。
私は頬を押さえた。
ジンジンと脈打つ痛み。
その熱さが、私の頭の中に充満していた甘い霧を、急速に晴らしていく。
匂いが、変わった。
いや、元に戻ったのだ。
あの美味しそうな夕飯の香りは瞬時に消え失せ、鼻をつく腐敗臭とカビの臭いが倍の濃度になって戻ってきた。
子供たちの笑い声も、テレビの音も、豆腐屋のラッパも消えた。
残ったのは、耳鳴りがするほどの重苦しい静寂と、どこかで窓がガタガタと鳴る乾いた音だけ。
「あれを、よく見なさい」
九条さんは、私が向かおうとしていた一号棟の入り口を指し示した。
私は恐る恐る、視線を向けた。
息が止まった。
そこには、誰もいなかった。
お母さんなんていない。
割烹着を着た人影だと思っていたものは、壁に染み付いた巨大な黒いシミだった。
雨漏りか何かで汚れた、ただの汚れ。
それが、薄暗さの中で人の形に見えていただけだったのか。
いや、違う。
シミが、動いていた。
壁の表面を、黒い液体がゆっくりと這っている。
それは形を変え、くねくねとしたシルエットを作り出している。
頭があり、胴体があり、手足のような突起がある。
けれど、それは人間ではなかった。
子供が墨汁で塗りつぶしたような、真っ黒な影法師。
顔の部分には、目も鼻も口もなく、ただ底なしの闇が渦巻いている。
ゾッとした。
私はあんなものを、お母さんだと思っていたのか。
あんな得体の知れない汚れに、抱きつこうとしていたのか。
もし九条さんが止めてくれなかったら、私はあのシミに触れて、そのまま取り込まれていたかもしれない。
「やはり、ここは廃棄場なのよ」
九条さんが静かに言った。
彼女は私と影の間に立ち、壁のシミを油断なく睨みつけていた。
「行き場を失った過去の記憶や感情が、溜まっているのかもしれない。それらは形を持たないけれど、生きた人間を誘いこんでいる」
彼女の言葉を聞きながら、私は周囲の窓を見回した。
さっきまで、温かい家族の団欒があるように見えた窓。
そこには今、無数の影が張り付いていた。
カーテンの隙間から。
ガラスの向こう側から。
黒い人影が、じっとこちらを見下ろしている。
目がないのに、視線を感じる。
それも、一つや二つではない。
何十、何百という視線が、私の全身を舐め回すように這っている。粘着質な視線。
彼らは言葉を発しなかった。
明確なセリフなどなかった。
けれど、その佇まいそのものが、雄弁に語りかけてくる。空気の振動を通して、彼らの渇望が伝わってくる。
寂しい、という渇望。
苦しい、という叫び。
寒い、という訴え。
一緒になろう、という誘惑。
先ほどまでの「甘い誘惑」の正体はこれだったのだ。
彼らの放つ負の感情が、私の記憶の中にある幸せなイメージと勝手に結びつき、私の脳内で都合の良い幻覚を見せていただけだったのだ。
それは、食虫植物が甘い匂いで虫をおびき寄せるのと変わらない。私は自ら進んで、消化されに行こうとしていたのだ。
「絶対に彼らに同調してはいけない。心を許した瞬間に、精神ごと引きずり込まれて、あなたもあの壁のシミの一つになる恐れがある」
九条さんは冷たく言い放った。
壁のシミの一つ。
その言葉の具体性が、私を震え上がらせた。
私はもう一度、一号棟の入り口を見た。
さっきの影が、壁から剥がれ落ちるようにして、地面に降り立った。
にゅるり、という湿った音が聞こえた気がした。
影は立体感を持ち始め、黒い泥人形のようになって、こちらへ向かって歩き出した。
一歩、また一歩。
足音はしない。
地面を滑るように、音もなく近づいてくる。
それに呼応するように、周囲の建物からも影たちが溢れ出してきた。
一階のベランダから乗り越えてくる者。
排水溝から這い出してくる者。
彼らは一様に顔がなく、全身が黒い泥でできている。
彼らが通った後の地面には、黒い粘液がベットリと付着し、そこから腐ったような臭気が立ち上っている。
「……逃げるわよ」
九条さんが私の手首を掴んだ。
その手は氷のように冷たかったが、確かに実体のある人間の手だった。
私はその感触にすがりつくようにして、立ち上がった。
足が震える。恐怖で膝が笑っている。
足元を見ると、地面のアスファルトが変質し始めていた。
影たちが近づくにつれて、固い地面が軟化し、黒い泥沼へと変わりつつあるのだ。
靴底が、ねっとりとした粘液に吸い付かれる。
まるで、地面そのものが私たちの足首を掴んで離さないように。
「走って!」
九条さんの鋭い声と共に、私たちは駆け出した。
行先など分からない。
ただ、迫りくる黒い影の群れから、少しでも遠ざかりたい一心だった。
背後から、無数の気配が追ってくる。
足音はない。
ただ、ズルズルと重いものを引きずるような音と、湿った空気が動く風圧だけが感じられる。
走りながら、私は視界の端に映るものを見た。
建物の壁にへばりつく影たち。
彼らは手を伸ばしていた。
その手招きは、先ほどまでの優しい母親の仕草とは似ても似つかない、溺れる者が藁をも掴むような、必死で醜悪な動きに変わっていた。
耳元で、風切り音に混じって、うめき声のようなものが聞こえる。
言葉ではない。意味のある単語ではない。
ただの音の羅列。
けれど、私にはそれが、何千人もの人間が同時にすすり泣いている音のように聞こえた。
悲しみが、大気中に充満している。
ここにあるのは、終わることのない過去への執着と、満たされない渇望だけだ。
私は歯を食いしばった。
涙が出そうになるのを堪える。
泣いてはいけない。
悲しんではいけない。
共感したら負けだ。
あの影たちが可哀そうだなんて思ってしまったら、私は足を止めてしまうだろう。
そして、彼らに飲み込まれ、私もあの黒い泥の一部になってしまう。
九条さんの背中を追う。
彼女の黒髪が揺れるのを、視界の中心に据える。
彼女は何も感じていないのだろうか。
この圧倒的な悲しみの渦の中で、どうして平然としていられるのだろうか。
いや、彼女の手が痛いほど強く私の手首を握っていることが、彼女もまた必死で何かに抗っていることの証左だった。彼女の手もまた、微かに震えているように感じた。
地面がどんどん柔らかくなっていく。
まるで底なし沼の上を走っているようだ。
一歩踏み込むたびに、足が沈む。
黒い泥が靴の中に入り込み、冷たい舌で足を舐め回されているような不快感が広がる。
泥の中には、異物が混じっていた。
何かを踏むたびに、嫌な感触が伝わってくる。
壊れた玩具のような硬さ。
腐った布のような柔らかさ。
それらは全て、かつてここに存在した誰かの生活の残骸なのだろう。
黒電話の受話器のようなものが、泥から突き出しているのが見えた。コードが蛇のようにのたうち回っている。
前方からも、影が現れた。
建物の陰から、ふらりと姿を現す。
逃げ場がない。
四方八方を、過去の亡霊たちに囲まれている。
九条さんは速度を緩めなかった。
彼女は影の薄い部分を見定め、そこへ向かって突っ込んでいく。
私も覚悟を決めて、彼女に続いた。
影の横を通り過ぎる瞬間、強烈な冷気が肌を刺した。
そして、脳裏に直接、知らない誰かの記憶の断片がフラッシュバックした。
――暗い部屋で一人泣いている子供のイメージ。
――受話器を握りしめたまま動かない手のイメージ。
――古びたアルバムを見つめる老人の背中のイメージ。
一瞬の幻視。
けれど、その感情の重さは本物だった。
吐き気がした。
他人の絶望を、無理やり飲まされたような気分だ。
「振り払って!」
九条さんが叫んだ。
私は頭を振り、こびりついたイメージを追い出した。
これは私じゃない。
関係ない。
私は生きている。今、ここに生きている。
私たちは泥沼と化した広場を抜け、再び建物の隙間へと飛び込んだ。
狭い路地。
そこにも影たちは満ちていたが、広場ほど密集してはいなかった。
そして何より、足元のアスファルトはまだ固さを保っていた。
広場の異常が、まだここまでは及んでいないのだ。
硬い地面を踏みしめることができる。その単純な事実に、私は安堵した。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
背後から追ってくる影たちの気配は、一向に途切れない。
私たちは振り返ることもできず、ただ灰色の谷間を走り続けた。
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