第11話 プロ

残酷な表現有り。苦手な方はご注意下さい。

感想、ご指摘お待ちしております。

 

 

鐘の音が、まだ耳の奥で震えていた。

金属同士が打ち鳴らされた、あの乾いた音。

終わりを告げる合図であり、同時に“始まり”の合図でもある音。

その余韻が消え切る前に――

 

鉄腕は、もう目の前にいた。

 

「――っ!?」

 

“来る”とは思っていた。

合図が鳴れば殴り合いが始まる。これはそういう場所だ。

だから殴りかかってくるだろう、と頭では分かっていた。

だが、ここまで“速い”とは、まるで想像していなかった。

 

視界の隅に影が走る。

その次の瞬間には――鳩尾に拳がめり込んでいた。

 

鈍い音。

何か柔らかいものが押し潰される音が、身体の内側から鳴る。

肺という肺から空気が絞り出され、喉を裂いて外に飛び出した。

 

「が――っ!!?」

 

悲鳴になりきれない声が、喉の奥で弾ける。

 

足が床から浮いた。

身体が折りたたまれる。

腹の内側で臓器がぐしゃりと捻じれたような感覚が走る。

胃の中の空気と唾液が、一気に込み上げてくる。

 

(あ、やば――)

 

そこまでで、思考がぷつりと途切れた。

 

鉄腕の拳は引かれない。

押し込んだまま、さらに一歩、身体を前に出す。

拳を支点に、迅花の身体ごと持ち上げ、そのまま――叩きつけた。

 

リングの床が跳ねる。

背中に当たった衝撃が、骨を伝って頭の芯まで震わせる。

肺が、再び空気を失った。

 

呼吸ができない。

喉が開かない。

口はぱくぱくと開閉するのに、空気だけが入ってこない。

手足が意識と関係なく痙攣する。

 

観客席が、沸騰した鍋みたいに一斉に爆発した。

 

「うおおおお!!」

「いきなり鳩尾かよ!」

「いい入りだ、今日キレてんな鉄腕!」

 

誰かが笑っている。

誰かが叫んでいる。

世界は盛り上がっている。

迅花の世界だけが、崩れていた。

 

視界が揺れる。

細かい白い点が、星みたいにぱらぱらと飛ぶ。

耳鳴りが、金属の擦れる音みたいにうるさい。

 

まだ試合は始まったばかりのはずなのに。

終わってほしいと心が先に悲鳴をあげていた。

 

鉄腕は、その願いを知る由もなく――いや、知っていても関係なく――容赦をしない。

 

髪を掴まれた。

指が頭皮に食い込み、束ねていた髪ごと乱暴に引き上げられる。

首に嫌な負担がかかり、視界が跳ね上がった。

 

「っ、やめ――」

 

言い切る前に、膝が顔面に突き上げられた。

 

鼻梁を何か硬いもので思いきり打ち抜かれたような衝撃。

顔の真ん中で、骨がきしむ音がした。

それが“自分の骨の音”だと理解するまでに、数秒かかった。

 

世界が反転する。

上下が入れ替わり、視界が真っ白に弾ける。

 

鼻の奥に広がる、濃い鉄の味。

涙が勝手ににじむ。

呼吸するたび、ヒューヒューと情けない音が喉から漏れた。

 

痛い――とか。

辛い――とか。

そんな生ぬるい言葉じゃ追いつかない。

 

これは、明確に“壊されている”感覚だ。

 

首を掴まれる。

冷たい指が喉元に食い込み、体重ごと持ち上げられた。

 

足が地面から離れる。

宙吊り。

喉が締まる。空気が止まる。

両手で掴んだ腕は、岩のように固かった。

力を込めても、まるでびくともしない。

 

視界が滲む。

足先から感覚が薄れていく。

脳が酸素を求めて、耳鳴りがピーッと高く鳴り続けた。

 

鉄腕が笑って言う。

 

「――暴れる力は、“自分より弱い奴”に向けるんじゃなくてな」

 

握力がさらに強くなる。

喉の奥が潰れそうになり、かすかな嗚咽も出なくなる。

 

「こういう時に使うんだよ。分かったか?」

 

優しい口調だった。その優しさが、悪夢だった。

 

リングの外で、金が動く音がする。

歓声が波のように上がる。

 

賭けは成立し、ショーは盛り上がり――

迅花は、“人間”じゃなくなっていく。

 

(……無理だ)

 

胸の奥で、乾いた声が響いた。

 

(勝てない……)

 

誇りとか。

意地とか。

復讐とか。

 

あの路地裏で拳を握った時、自分の背中を押してくれたような言葉が、砂になって指の間から零れ落ちていく感覚。

 

(怖い)

 

初めて、その言葉がはっきりと言語になった。

 

その瞬間――心のどこかで、“何か”がぴしりと音を立てた気がした。

 

音は遠い。けれど、確かに消えない。

 

壁に叩きつけられた衝撃で視界が揺れても、

吐き気と鉄の味に意識が持っていかれても――

 

歓声だけは、耳の奥でしぶとく鳴り続けていた。

 

「うおおお!!」

「もっとやれッ!」

「立たせて殴れ! まだ潰れる顔じゃねぇ!」

 

笑っている。

叫んでいる。

楽しんでいる。

 

自分じゃない“誰か”が、遠くの群衆の声を聞いているような感覚。

 

――違う。

 

(……私、だ)

 

彼らが見ているのは、殴られて、踏まれて、転がされる “私” だ。

 

ただの娯楽として。

ただの消耗品として。

ただの、壊れるおもちゃとして。

 

胸の内側が、ゆっくり冷えていく。

痛みよりも何倍も、深く冷たい恐怖が排水みたいに広がる。

 

鉄腕の足音が近づくたびに、歓声がひときわ跳ねる。

 

まるで――合図を待つ観客と、ショーを進行する司会者。

ここは舞台。

私は主役。

でも、“勝つための主役”じゃない。

 

「壊れるところが一番おもしれぇんだよなぁ」

 

鉄腕の声が響く。歓声がそれに応える。

ざわざわと波打ち、

こちら側へ押し寄せてくる圧力のような音。

 

耳を塞ぎたい。

でも腕が動かない。

心臓がある場所を、誰かの手で握られているみたいだ。

 

(やめて……)

 

口の中の血と一緒に、言葉にならない叫びが喉の奥で溺れて消える。

 

蹴りが入る。世界が転がる。

床のゴムマットと皮膚が擦れる熱さ。

リングの金網が背中を引っ掻く感触。

痛みより先に――

 

――“見られている”という感覚が突き刺さる。

 

観客の視線が肌を刺す。

笑い混じりの声が、皮膚にこびり付く。

 

“かわいそう”なんて一つもない。

“同情”なんてどこにもない。

 

あるのはただ、

 

「もっと壊れてほしい」

「もっと見たい」

「もっと、もっとだ」

 

という、飢えた期待だけ。

 

(……私、)

 

なんでここにいるんだろう。

 

どうして、こんな場所まで来てしまったんだろう。

 

走れば速いと言われた。

強いと褒められた。

特別だと持ち上げられた。

 

でも今、その全部が――

「高く売れる珍しい動物」と同じ値札にすり替わっている。

 

観客席から飛んでくる声が、耳に突き刺さる。

 

「マジで人間かよ」

「やっぱバケモンだな」

「でも所詮“見世物小屋の怪物”か」

 

怪物。

 

ついさっきまでなら、その言葉に苛立ったはずだ。

「ふざけんな」と噛みつく力くらいはあった。

 

今はただ、その言葉が冷たい現実みたいに胸に沈んだ。

 

鉄腕の影が、また覆いかぶさる。

歓声が高まる。期待が渦巻く。空気が震える。

 

(――やめて)

 

声にはならない。

 

女の子としての身体が震える。

戦うために鍛えた筋肉じゃ埋められない、“人間としての弱さ”がむき出しになっていく。

 

心が、自分の中で擦り切れていく音がする。

人の声が痛い。

人の期待が怖い。

人に見られることが、こんなにも苦しいなんて。

 

鉄腕は笑い続ける。観客も笑い続ける。

ここは地獄なんかじゃない。

――“娯楽施設”だ。

 

だからこそ、救いがない。

 

そして今、

その娯楽の中心で壊され続けているのが自分だと、はっきり理解した瞬間――

何かが、音もなく、静かに折れた。

 

 

 

ーーーーーーーーー

 

 

終わらない。

 

それが、何より怖かった。

 

拳が飛んでくる。

蹴りが落ちる。

骨に響く音が、何度も何度も、身体の内側から鳴る。

それが全部“自分の音”だと、嫌でも分かる。

 

そのたび、歓声が湧く。

 

「うおおお! 今の効いたろ!」

「まだ動く! いいねぇ、壊れ甲斐あるわ!」

 

止まらない。

誰も止めない。

 

――むしろ、“止まったら困る”という熱が、

場の空気そのものに染み付いている。

 

鉄腕は、“攻撃を間引かない”。

 

倒れたら、立たせる。

立ったら、また壊す。

 

その流れを、ひたすら繰り返す。

 

遊びじゃない。

ただの仕事でもない。

 

「見世物として最適化された暴力」だった。

 

ただ痛めつけるんじゃない。

ただ勝つためでもない。

 

“会場が一番盛り上がる速度”で、

“ちょうど喜ばれる形”で、

“ギリギリ壊さないように”壊していく。

 

その計算された残酷さが、機械より冷たく、

人間より醜く――迅花の精神を削り取る。

 

(なんで……?)

 

足に力が入らない。

腕が震える。

呼吸がうまくできない。

 

だけど、終わらせてはくれない。

 

鉄腕は、わざと殺さない。

 

壊す寸前で止める。

潰し切らないように調整する。

そして、また続ける。

 

「ほら、まだいけんだろ。

 “商品”が……もう使えねぇ顔すんなよ」

 

笑い声。

拍手。

歓声。

 

それらが、“肯定”として降り注ぐ。

 

「頑張れよ怪物ぉ!」

「そうだそうだ、もっと粘れ!」

「すぐ壊れたら金返せって言われるぞ!」

 

応援じゃない。

搾取する側が、搾取される側に投げつける“期待”だ。

 

それが一番、胸に刺さる。

 

(応援なんか、いらない……)

 

逃げたい。

でも、逃げる足はもう名前すら思い出せない。

助けを求めたい。

でも、この場の辞書に“助け”という単語は存在しない。

 

抗えば抗うほど、歓声は高まる。

弱れば弱るほど、笑いは増える。

 

どんな選択肢を取っても、

自分は “楽しませるための存在” に固定されている。

 

その枠から、一歩も出られない。

 

(やだ……)

 

心の奥で声が震える。

 

(……やだよ……)

 

それすら、誰にも届かない。

 

いや――届いていて、無視されている。

そこが一番、残酷だった。

 

鉄腕の拳が落ちる。

歓声が湧く。

心が削れる。

世界が続く。

 

それだけのことが、終わりなく続く。

ただそれだけの連続が、永遠に続くように感じられた。

 

終わりのない地獄ほど、人間を壊すものはない。

 

そして迅花は、今、その中心で――独りだった。

 

 

ーーーーー

 

 

痛みには慣れる――なんて、あれは嘘だ。

 

慣れない。

鈍るだけだ。

鈍っても、その先でちゃんと痛い。

 

殴られて、倒れて。

蹴られて、転がされて。

引き戻されて、立たされて、また殴られる。

 

何度も繰り返されすぎて、

今が何回目なのかも分からなくなる。

 

鉄腕の拳が、頬を「なぞるように」掠めた。

本気で殴れば砕けるのだろうに、わざと外した角度。

 

観客が笑った。

 

「ビビった? 今の避けたぞ」

「優しいなぁ鉄腕! まだ壊さねぇの!」

 

優しさ――なんて単語が、最悪の悪意に聞こえる。

 

鉄腕の手が、顎を指で軽く持ち上げる。

まるで、店先に並んだ品物の状態を確認するみたいに。

 

「おい、目ぇ開けろ。“壊れる顔”すんな。まだ終わんねぇよ」

 

視線が合う。

そこにあるのは怒りでも憎しみでもない。

――仕事だ。

退屈しないための、ただの作業。

 

(……ああ、これ、駄目だ)

 

その瞬間、ようやく理解する。

 

“勝てない”とか、“痛い”とか、“悔しい”とかじゃない。

 

ここでは、自分は「人間」である必要がない。

 

そう扱われていない。

そう見られていない。

 

最初は反発した。怒鳴り返したかった。

噛みついてやりたかった。

でも、意味がない。

 

罵倒しても笑われる。

抵抗しても喜ばれる。

何をやっても、結末は“娯楽”だ。

この場に流れている空気そのものが、そう告げている。

 

――お前はもう当事者じゃない。“観客のための存在”だ。

 

理解した瞬間、胸の裏側がすっと冷えた。

そこから、何かが抜け落ちる。

 

拳が肩に入る。

倒れる。

声が出ない。

 

「立て」と腕を引かれる。

機械みたいに、ただ立つ。

殴られる。

よろける。

また支えられる。

 

立たされる。

倒れさせてもらえない。

終わらせてもらえない。

 

(……やめて、ほしい)

 

喉まで上がった言葉は、声にならない。

叫べば良かったのかもしれない。

助けてって言えば良かったのかもしれない。

 

でも――言ったところで、笑われる未来が見えた。

 

それが、何よりの恐怖だった。

言葉を出す権利すら、奪われている。

 

観客席の誰かが、楽しそうに叫んだ。

 

「もっとやれぇ!!」

 

歓声が波になって押し寄せる。

 

その瞬間、胸の中心で、何かが“ぱきん”と音を立てた気がした。

 

――あ、もう無理だ。

 

心が、折れた。

 

涙は出ない。

叫びもしない。

ただ、目の奥で灯っていた光が、すとんと消える。

 

視界の中で、鉄腕が動く。

観客が笑う。

地面が近づく。遠ざかる。

 

世界はまだ続いているのに――

 

迅花だけが、世界から一歩、外に落ちた。

 

痛みなんて、もうどうでもいい。

勝ち負けも、どうでもいい。

 

悔しさすら、遠い。

 

ただひとつだけ、静かな思考が残る。

 

(……終わりたい)

 

それだけだった。

 

そして、

その願いすら、“誰のものでもない”場所に溶けていった。

 

鉄腕が拳を振りかぶる。

歓声が一段、低くなる。

会場全体が、息をひとつ呑む音を立てた。

 

ああ、終わるんだな――という空気が、

残酷な静けさを孕んでリングを満たす。

 

迅花はもう、自分の身体が誰のものなのかも分からなくなっていた。

 

痛みは、とっくに限界を越えて、逆に現実感を奪っている。

 

何も感じない。

 

怖がる心も、悔しがる心も燃え尽きて、

ただ――

「終わるなら、せめて早く」という祈りだけが残っていた。

 

拳が落ちる。

世界が閉じる。――はずだった。

 

金属がきしむような鈍い音が鳴り、空気が止まった。

 

鉄腕の拳は止まらなかった。ただ、進まなかった。

 

鉄腕の体が半歩、前のところで“殺される”。

観客が一瞬、同じタイミングで息を飲む。

 

「そこで止まれよ、鉄クズ」

 

 

――戦場に、鴉が舞い降りた。

 

 

理由は単純だった。鉄腕の右足首が、リングの床に固定されていた。

 

溶接跡のある古いフレームの隙間に、

細いワイヤーが巻き付いている。

 

そのワイヤーはリング下へ落ちていき――

鉄骨の影で、それを片膝で押さえ込んでいる小柄な男がいた。

 

拳を止めたんじゃない。

“体勢”ごと殺した。

 

観客がざわつく。

鉄腕が歯噛みする。

 

「……てめぇ」

 

男は名乗らない。

ただ、静かに鉄腕を見上げる。

 

照明に焼かれたリングの光の中、

そこだけが妙に“夜”の匂いをしていた。

 

ほんの少しだけ口角を歪める。

 

「殴るのは構わねえけどよ。

 “振りかぶってから殴る”は優しすぎるんだよ。戦場なら、その間に死ぬ」

 

右手のワイヤーをぐっと引く。

 

鉄腕のバランスが崩れる。

重い拳がわずかに軌道を逸らし、鈍く床を叩いた。

 

歓声が揺れる。悲鳴と笑いが入り混じり、空気の温度が変わる。

 

――そこで終わらない。

 

鉄腕は怪物だった。

足首を拘束されても、純粋な膂力で立て直す。

 

足元で、鉄骨が軋んだ。

巨体が、ワイヤーごと体重で引きちぎろうとする。

 

男はその様子を見て、肩をひとつ竦める。

 

「だろうな。力比べなら、勝負にならねぇ」

 

言いながら、その顔には“それでいい”という諦めではなく――

「想定の範囲内だ」という静かな確信が浮かんでいた。

 

次の瞬間。男は、迅花の側にいた。

 

――視界から消えたわけじゃない。

ただ、“視線が追いつくより早く動いた”。

 

ぐしゃぐしゃの顔で横たわる迅花の前にしゃがみ込む。

 

声は荒くなく、優しくもなく、ただ淡々としていた。

 

「動けるか」

 

迅花は答えられない。喉が音を作ることを忘れていた。

それでも男は続ける。

 

「動けなくてもいい。“まだ生きたい”なら、それだけで十分だ」

 

“まだ”――その言葉が胸に突き刺さる。

 

そんな贅沢、もう許されないと思っていた。

でも、その声だけは――身体の底まで届いた。

涙が、にじむ。

 

鉄腕が足の拘束を力で引きちぎる。

ワイヤーが弾け飛び、リング下で金属が跳ねる音がした。

観客が悲鳴と歓声を同時に上げる。

 

怒りに染まった怪物の視線が、男を射抜く。

 

「殺す」

 

男は立ち上がった。

 

真正面から鉄腕に相対する――わけがない。

 

一歩踏み出すと同時に、

左手を鉄腕の肘の“裏”へ滑り込ませ、右手で肩を押さえ込む。

 

「拳を止める」のではなく――

「殴るための関節の流れを殺す」。

 

拳は振り下ろされた。

だが、威力だけが“消されて”いた。

 

「なんだ今の──!?」

「チッ、茶番かよ!」

「いや、面白ぇだろ……まだ続くぞ」

「潰せ! 殺せ! もっと見せろ!」

 

血を見慣れた喉が震え、

恐怖と昂ぶりの境目で揺れる。

 

リングを囲む空気だけが、別の戦場になっていた。

 

――迅花は、その渦の中心で、男の後ろ姿だけを見ていた。

 

背筋。

肩。

呼吸のリズム。

自分の少し前で、その背中が一歩分だけ距離を取って立っている。

 

その一歩が、“この世界と死の境”に見えた。

 

(怖いのに……)

 

(怖いはずなのに……)

 

心が、勝手に縋ろうとする。

自分の意思じゃない。身体が先に動いている。

 

それが――悔しい。情けない。

 

でも。あの背中が、ただただ、頼もしかった。

 

拳を握る。震えている。それでも握る。

 

(私は──)

 

(私は、もう一回、立てるのか)

 

問いかけに、身体はまだ答えない。

 

観客は叫ぶ。

鉄腕は怒る。

男は、笑わない。

 

世界だけが、止まらない。

 

――戦場の中心で、

迅花の心だけが、必死で揺れていた。

 

泣きたくなんてなかった。

ここは、泣いていい場所じゃない。

泣く女は壊される。泣いたら“負け側”に落ちる。

檻の中は、そういう世界だと嫌というほど叩き込まれた。

 

分かっている。分かっているのに。

視界が滲む。喉の奥が、ずっと震えている。

声を出したら壊れる気がして、唇を噛みしめた。

 

血の味が広がる。それすら、現実につなぎ止めるために必死に掴んでいる。

 

(やだ……)

(終わったんじゃない……まだ……)

 

助かったはずなのに、安心なんてどこにもない。

鉄腕はまだ立っている。

リングはまだ檻のまま。

観客は怪物のまま喚いている。

逃げ場なんて、一つもない。

 

――それでも。

 

目の前の男の背中だけが、異物みたいに“静か”だった。

あの狂った空気の中で、ただ一つだけ“普通の呼吸”をしている背中。

 

あんな場所で、あんな空気の中で、ただの背中が“安全圏”みたいに見えるなんて、おかしい。ありえない。

 

でも。

 

胸の奥が勝手に縋る。

あの背中が一歩前にいるだけで、世界と自分のあいだに線が引かれる。

 

そこから先が“地獄”で、

ここが“戻ってきていい場所”なんだと。

 

身体が勝手に理解してしまう。

 

(ふざけんなよ……)

 

心が二つに裂ける。

怖い。

怖い。

怖い。

それでも、こんな場所で誰かに守られたくない。

守られたら、“弱い”と認めることになる。

努力してきた全部。

歯を食いしばってきた全部。

走り続けてやっと掴んだ“強さ”。

異能に振り回されて、現実が壊れても、それでも最後に残った誇り。

 

それすら、崩れそうになる。

 

(私は……)

 

(……何してんの)

 

手の震えが、止められない。

指先が冷たい。背中に嫌な汗が張り付いている。

頭の奥が、焼けるように熱い。

 

叫びたい。吐き出したい。

でも声にしたら、本当に壊れる気がして――喉が怖がって動かない。

 

視界の中で、男の背中が、わずかに揺れた。

踏み込みの予兆。戦う人間の、特有の重心の変化。

 

その瞬間。心臓が跳ねた。

怖いはずなのに、その分だけ安心もしてしまった。

 

(違う……そんな顔、したくないのに)

 

涙が落ちる寸前で止まる。

奥歯を噛み締める。喉が焼ける。

胸の一番奥で、まだ幼い部分が、必死に縋ろうとしていた。

 

助けてって言いたくなる。甘えたくなる。

 

最低だ。情けない。……なのに。

 

(今だけは──)

 

心の奥の声が、小さく、小さく、泣いた。

 

私はまだ、本当は、ひとりで戦えるほど完成してなんかいなかった。

強くなりきれなかった女の心が、檻の中で割れていく。

 

歓声は遠い。

悲鳴も遠い。

世界が揺れて、ただ一つだけ――“その背中”だけが、くっきり見えていた。

 

 

ーーーーー

 

 

檻の中の空気は、すでに血の味がしていた。

 

鉄と汗と、吐き出された息が溶け合い、重く喉に絡みつく。

踏み固められた床のゴムには、靴の跡と乾いて黒ずんだ血痕が幾重にも重なっている。

 

ここは祭壇だ。

“命を削り、金で祈る”連中にとっての。

 

歓声が波のように打ち寄せるたび、空気が揺れる。

その中心で、男がひとり笑っていた。

 

鉄腕。

 

無駄な肉は一片もないのに、質量だけは常識を逸脱している体躯。

握った拳は無骨で、骨がそのまま鉄塊になったみたいだ。

 

何百回もこのリングで誰かの人生を終わらせてきた男にしか持てない、

静かな確信が目の奥に宿っている。

 

「ガキかと思ったが……違ぇな」

 

低く笑う声は、場の熱狂とは無関係に冷えていた。

客に媚びない声。

ただ“戦い”だけを知っている声。

 

檻の向かい側。

九郎――と呼ばれるその男は、無表情だった。

 

派手さはない。背丈も特別高くない。

筋肉も“見せつけるタイプ”じゃない。

 

だが――立っているだけで分かる。

 

“戦うための身体だ”。

 

「お互いさまだろ。……ほら、客は血みたさに期待してる」

 

薄く笑って言う声に、余裕はない。

ただ、逃げない覚悟だけがある。

 

瞬間、鉄腕が踏み込んだ。

 

床が鳴った。

質量が、そのまま暴力に変わる音。

 

空気が裂ける。拳が風を引く。

本気で当たれば――内臓が潰れ、骨が砕ける。

 

九郎は受けない。

しかし「逃げる」でもない。

 

半歩だけ外す。

観客から見れば真っ向勝負にしか見えない、絶妙な位置取り。

 

“芯”だけをわずかにずらす。

それは、“殺さない戦い”を知る者の間合い。

 

鉄腕が鼻で笑う。

 

「あぁ……やっぱりだ。

“殺す殴り方”と“殺さない殴り方”を知ってる奴の動きだ」

 

「安心したよ。お前も、“客前の暴力”に慣れてる」

 

視線が交差した。

ふたりの間に、言葉のいらない理解が走る。

――同じ地獄を知っている目。

 

次の瞬間。拳が交差する。

刃みたいに速いわけじゃない。

鈍重なだけの重さでもない。

 

観客には“死闘”と見え、

当事者同士には“破壊を避けて組み立てた暴力”。

 

拳が頬を掠め、皮膚が裂けて血が滲む。

しかし骨は砕かない。

致命は与えない。

 

観客が叫ぶ。歓声が喉を焦がす。

 

それでも――殴り合いの中で、確かに“火”は灯っていた。

 

鉄腕の笑いが変わる。楽しんでいる笑い。

 

「お前、久しぶりだわ。

殺さねぇでやり合えて、しかも退屈じゃねぇ奴」

 

九郎は荒く息をつく。

 

「こっちの台詞だ。……痛ぇんだよ、普通に。

糞力がよ、普通に嫌になるくらい痛ぇ」

 

観客が笑う。

だが笑いの底には、異様な熱と期待が渦を巻いている。

 

鉄腕が一瞬、動きを止める。

――結末の合図。

 

「終わらせるか」

 

「ああ。終わらせよう」

 

踏み込み。

鉄腕の体重が拳に落ちていく。

 

これは“決めの一撃”。

本気で当てれば、殺す打撃。

 

九郎は逃げない。それが、礼儀だった。

 

――ただし、“芯”だけは外す。

 

肉がぶつかる鈍音。

客席が息を呑む。

 

九郎の身体が揺れる。“倒れそうに見える”。

 

その瞬間。九郎の拳が、わずかな隙間をこじ開け――

 

骨を砕かず、内臓を潰さず、“膝だけを落とす一点”を穿つ。

 

鉄腕の膝が沈む。

巨体が崩れた。

静寂が、世界を支配する。

 

次いで――爆発的な歓声。

 

鉄腕は仰向けに倒れたまま、天井を見上げて笑った。

 

「…………上等だ。

ショー守って、この落とし方なら……文句ねぇよ」

 

九郎は、血の味を舌で確かめながら短く吐息を漏らす。

 

「……あんたが“プロ”で助かった。俺も……“プロ”でいられた」

 

歓声が嵐みたいに降り注ぐ。

 

 

ーーーーー

 

 

迅花は、自分が息を止めていたことに遅れて気づいた。

 

胸が苦しい。

震える指を、自分で握り締める。

 

(殴り合い……じゃない……)

 

(ただ力をぶつけ合ってるんじゃない……)

 

あれは――覚悟と計算で組み立てられた“戦い”だ。

 

胸が熱い。怖いのに、目が離せない。

 

(どうして……)

 

(どうして、こんな背中に、こんな戦い方に……

 こんなにも、惹かれるんだろ……)

 

喉の奥が焼ける。涙が、今度は悔しさより別の熱でにじむ。

 

リングの中央で、九郎が呼吸を整え、ただ立っていた。

誰よりも傷だらけなのに、誰よりも静かに“勝者”の顔をしている。

 

震えが、止まらなかった。

 

 

歓声が落ち着くより早く、観客席の上段――

鉄柵の影。缶ビールと煙草の煙が溜まる“運営席”に、別種の沈黙が落ちていた。

 

まず動いたのは帳簿係だ。

試合結果の札が静かに裏返される。

数字が動く。

赤と黒のバランスが狂い、金額の桁が跳ねるたび、数人の喉がひきつった。

 

「……嘘だろ。鉄腕が“沈んだ”で確定かよ」

 

無駄に着飾った、スター気取りの裏社会の客が机を叩く。

だが運営側は怒鳴らない。

怒鳴る暇があるなら――損失と反動を計算する方が重要だ。

 

ペンを走らせる手が止まらない。

 

「賭け率、“鉄腕勝利”に全振り同然。負け側の金は回収済み。

……問題は“勝ち側への払い出し額”が上限超え」

 

「上限突破ってどれくらいだ」

 

「“店が吹っ飛ぶ”レベル」

 

短い、乾いた息がそこかしこに散る。

 

賭けは成立した。

裏の賭場は信用で成り立つ。

ここで踏み倒せば、この興行は終わる。

だが――払えば、財政が飛ぶ。

 

つまり主催は、“どちらにしても死ぬ”盤面に立たされた。

 

運営責任者は黙ったまま煙草をくわえ、火を点ける。

ゆっくり吸い込み、吐き出す。

煙の向こうに――リングで息を整えている黒髪の男の姿が揺れて見えた。

 

「……“事故”として潰すか?」

 

誰かが低く言った。

 

その瞬間、責任者の横に立つ警護役が、目だけで周囲を走らせる。

 

「無理だ。

“鉄腕の負けを演出するための八百長”じゃない。

“プロ同士の同意の上で成立した勝負”になってる。

客も――“いいもん見た”顔してやがる」

 

最悪だった。

 

誰も “茶番だ”と罵れない勝敗。

誰も “裏切りだ”と叫べない構図。

だから――覆せない。

 

責任者が舌打ちをひとつ。

 

「……クソ。“店は客を裏切らない”が原則だ。

払い出しは――やる。やるが、“今日で終わり”だ。この会場は畳む。鉄腕の名前も一旦、凍結」

 

机の上のマイクが、無言で手に取られる。

 

試合が終わって、数十秒。

観客がまだ余韻に酔い、金を握りしめている時間。

 

スピーカーが鳴る。荒い男の声が場内を揺らした。

 

「――試合成立だ。鉄腕、敗北確定。配当は規定通り払い出す。

列を乱すな、“今日の金は今日のうちに払う”。」

 

一拍置いて、低く続ける。

 

「それと――本日をもって、このリングの興行は一時停止だ。

……今日は、特別な日だった。帰るまでが祭りだ。暴れんな」

 

ざわめきが発生する。

怒鳴るやつもいる。

笑いながら金を受け取りに走るやつもいる。

その場に膝をつくやつもいる。

 

だが――暴動にはならない。

 

なぜなら、“全員、勝負を見届けた”からだ。

 

リングで九郎と鉄腕が交わした「プロの暴力」を。

 

 

ーーーーーーーー

 

 

鉄腕はスタッフに肩を貸されながら、それでも笑っていた。

 

「……悪くねぇ負けだろ」

 

運営責任者は無言で頷く。

 

「金は吹っ飛んだ。だが――興行としての“格”は守れた」

 

それが、唯一の救い。

 

そして――“黒髪の小柄な男”の噂が、

この夜を境に、裏の世界に深く刻まれる。

 

“勝ち逃げの象徴”として。“賭場を止めた男”として。

 

 

ーーーーーーー

 

 

照明の落ちた檻のリングは、

ついさっきまで“人が壊される見世物”をやっていたとは思えないほど、ただ静かだった。

 

壊れかけたスピーカーが、まだ小さく火花を散らしている。

床には酒瓶、紙幣、血、吐瀉物、踏み潰された靴が散乱していた。

 

強化灯の半分は落ち、もう半分は断続的に点滅している。

明るくなったり暗くなったりする世界の中で、現実と悪夢の境界が曖昧になる。

 

その薄闇の中――

背中に担がれていた少女が、ふっと息を吐いた。

 

鷹宮 迅花。

 

涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、

意識だけが、現実にゆっくり戻ってくる。

 

背中は熱い。硬い。

荒い息遣いが肩越しに落ちてくる。

 

彼女を担いで走るのは――

あの闇の檻に、突然割り込んできた黒い男。

 

男は止まらない。

迷わない。

怒鳴らない。

震えない。

 

ただ、戦場のことだけを知る身体のまま動き続けていた。

 

通路の奥。観客の悲鳴が遠ざかっていく。

護衛たちの足音が近づき、遠ざかり、また別方向から響く。

 

男は肩で笑った。

 

「……派手にやりやがるな」

 

軽い調子。

声は落ち着いているのに、その呼吸は明らかに限界に近い。

 

迅花の唇がわずかに動く。

声にならない音が喉で擦れ、痛みに震える身体が微かに抗議する。

 

――痛い。

――怖い。

――死にたくない。

 

その全てが、言葉になる前に胸の中で絡まり合う。

 

男はそれを見なくても分かっているように、低く言う。

 

「大丈夫だ。お前は“もう見世物じゃない”」

 

その一言だけが、現実感を持って胸に落ちた。

 

自分は、確かに――さっきまで“商品”だった。

値踏みされ、消費され、壊される運命だった。

 

それが今、背負われている。

その単純な事実が、どうしようもなく胸を締めつけた。

 

息が苦しいのに、涙は止まらない。

 

自分でも整理できない感情が溢れてくる。

悔しさだけでもなく、痛みだけでもない。

 

完全に折れた心が、今さらみっともなく、必死に必死に“繋ぎ止められている”。

 

階段を駆け降り、裏口へ。

 

外の空気は夜の冷たさを帯びていた。

 

冷たい風が肌を撫で、肺の奥に刺さるように入り込む。

迅花は短く息を呑む。

 

――生きてる匂いだ。

 

男は建物の影に身を寄せると、静かに迅花を下ろした。

 

まだ立てない。膝が震える。

床に手をつき、息だけが荒い。

 

世界がゆっくり揺れる。

耳鳴りはまだ消えない。

 

男はポケットから煙草の箱を取り出しかけ――

すぐに指を止めて、苦笑して仕舞った。

 

「……今はやめとくか。匂いでバレやすくなる」

 

そして、迅花を見下ろす。

 

声を荒げない。優しくもしない。

ただ、“現実”だけを確認するような目。

 

「――立てるか」

 

迅花は首を横に振った。

悔しいのに、掠れた息しか出ない。

 

男は何も責めない。

ただ一言、置く。

 

「立てなくていい。今日はそれでいい」

 

その言葉が胸に突き刺さって――

崩れるように、涙が落ちた。

 

耐えていた感情も、感覚も、全部溶けていくように。

震える肩を自分で抱きしめながら、

必死に声にならない呼吸を整えようとする彼女を見て――

 

男は少しだけ目を細めた。

 

遠くから怒号。複数の足音。追撃の気配。

状況は、まだ終わっていない。

 

男はジャケットを脱ぎ、迅花の肩に掛ける。

 

「ここからは俺の仕事だ。

 お前は――“生き残った”ことだけ覚えとけ」

 

それだけ言って、背を向ける。

黒い影が、再び夜へ溶けた。

 

迅花は、小さな声で、名前も知らない背中を見つめる。

 

「……待って……」

 

声は掠れて、届かない。

伸ばしかけた手が、空中で止まる。

 

――置いて行かれたわけじゃない。

 

――守られて、残された。

 

その違いが、胸のどこかで痛くて。

それでも、少しだけ、温かかった。

 

涙を拭いもせず、迅花は拳を握り締めた。

 

怖い。

悔しい。

情けない。

でも――

 

“まだ終わりじゃない”とだけは、はっきり分かってしまった。

 

夜風が吹き抜ける。

檻はもうない。

観客もいない。

金も賭けられていない。

 

残っているのは――“生き残った”という事実だけ。

 

迅花は、その重さに震えながら――ただ、必死に息をしていた。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。

 

安全と言われる場所に運ばれ、

応急処置をされ、水を飲まされ、

医者なのか裏の技術者なのか分からない誰かに身体を触られ、

「骨は折れてない」と言われた。

 

――みんな、優しい。

――でも、全部“他人”の手触り。

 

ベッドに横たわり、薄い天井の明かりを見つめていても、

心だけは檻の中に置き去りのままだった。

 

耳がまだ鳴っている。

観客の歓声と罵声が、頭の中から離れない。

鉄腕の拳が迫るイメージが、何度でも勝手に蘇る。

 

拳じゃなくてもいい。

声でも、足音でも、影でもいい。

“何か”が近づいてくるたび、身体が先に怯える。

理性より先に、本能が悲鳴をあげる。

 

――強かったはずだった。

誰より速くて、誰より丈夫だった。

 

その自負が、今は布一枚の下で縮こまっている。

 

その時だった。

 

コン、コン――。

 

静かなノック。

 

返事ができない。喉が動かない。

呼吸だけがどんどん早くなる。

 

扉がゆっくり開き、影が差す。

背の高い男ではない。派手でもない。

威圧感すらない。

 

なのに、“見覚えのある”背中だった。

 

迅花の胸が、条件反射のように跳ねる。

 

男は無造作に椅子を引き、ベッドの横に腰を下ろす。

救出の時のような尖った顔でもなく、

リングで殴り合った時のような殺気もない。

ただ、少しだけ疲れた“大人の顔”をしていた。

 

「医者が言うには、骨は無事。筋肉と内臓にダメージはあるが……まぁ、死ぬ怪我じゃねぇ。良かったな」

 

軽い調子。

だけど、軽薄じゃない。

 

聞き慣れない声なのに、耳が――安心していた。

 

返事をしようとした瞬間、喉が震えた。

 

声にならない。

息と一緒に、掠れた音だけが漏れる。

 

悔しい。

情けない。

惨めだ。

 

迅花は、顔を背ける。

泣きたくない。でも、もう泣き止めない。

 

「……怖かったか?」

 

ただ、それだけの問い。

 

優しい声でもない。慰めでもない。

逃げ道を与えない。でも、追い込むわけでもない。

ただ事実を確認するための声。

 

迅花は、震える唇を噛んで――こくりと頷いた。

堰を切ったみたいに、涙が静かに溢れる。

喉から漏れるのは、悲鳴じゃない。

嗚咽と言うには弱すぎる、小さな、小さな音。

 

――泣くことを、ようやく自分に許した音。

 

男はため息をひとつ。

 

「当たり前だ。あんなもん、怖くて当然だ。

 “怖くねぇ奴”は、だいたいもう人間やめてる」

 

その言葉が、胸の真ん中に落ちて、じんわり広がる。

 

“怖がった自分”を責めなくていいと、初めて言われた気がした。

 

布団の下で握っていた拳が、ほんの少しだけ力を失う。

 

男は続ける。

 

「お前は負けた。折れた。

 ――でも、生き残った」

 

視線を逸らさず、静かに言葉を重ねる。

 

「それは強さだ。

 立ってる奴より、折れてもまだ生きてる奴の方が、よっぽど強ぇ」

 

きれいな言葉じゃない。

正義の台詞でも、綺麗事でもない。

 

ただ、“生き残り”を見てきた人間の実感。

 

胸が、熱くなる。

苦しくて、痛くて、でも確かに温かい。

 

気づく。

 

――この人は、自分を可哀想だから助けたんじゃない。

――金になるからでもない。

――ヒーローぶりたいからでもない。

 

ただ、「助ける」と決めたから助けた。

 

そこに打算も、善人ぶりも、優等生の正義もない。

“戦場の人間の優しさ”だ。

 

涙の隙間から、迅花はやっと男の顔をまっすぐ見る。

 

普通の顔。

小柄な身体。

派手さはない。

英雄には見えない。

 

なのに――どうして、こんなに安心するんだろう。

 

男は立ち上がる。

 

「今日は休め。

 “怖い”のは、しばらく治らん。

 治らなくても、生きてりゃどうにでもなる」

 

扉に手をかける。

 

その背中が、ゆっくり遠ざかろうとした瞬間――

 

「……っ、まって……」

 

掠れた声が、無意識に零れた。

自分でも驚くほど弱い声。

 

男が振り返る。

視線が合った瞬間、胸が熱く跳ねる。

 

言葉が出ない。

それでも――

 

その背中を、失いたくないと、はっきり思った。

 

理由は分からない。

命の恩人だから、と言うには違う。

ただの感謝だけなら、こんなに心臓は暴れない。

 

“あの檻の中で、世界が壊れた瞬間”。

最後に残ってくれた“現実”が、この男だった。

 

男は少しだけ笑う。

 

「……大丈夫だ。

 お前を商品に戻す奴は、俺が全部ぶっ壊す」

 

その言葉が――胸の奥深くまで、鋼の杭みたいに刺さる。

 

迅花は、ぎゅっと胸元の布団を握った。

 

怖いままだ。不安も消えない。

震えも止まらない。

 

でも。

 

――この背中についていけばいい。

 

そんな、子供みたいで、それでも確かな感情が芽生えた。

 

涙の向こうで、世界がほんの少しだけ色を取り戻す。

 

迅花は静かに目を閉じた。

 

眠りに落ちる直前、

心の一番奥で呟く。

 

“……もう少しだけ、生きてみたい”

 

それは祈りではない。

約束でもない。

 

ただ――男という“現実の背中”を信じた少女の、最初の選択だった。

 

 

退院して、数日。

 

体の痛みは、もうほとんど引いていた。

 

ただ――心の奥だけは、まだ静かに揺れ続けている。

 

夜になると、ふと息が浅くなる。

街の雑踏の笑い声が、あの歓声と重なる。

コンビニのガラスに映る自分の顔が、別人みたいに見える。

 

それでも、“何もしないまま”でいるのは嫌だった。

 

怖さは残っている。

手はまだ時々震える。

夜道の影を見ると、心臓が先に跳ねる。

 

――でも。

 

あの男に救われた夜、

ベッドの上で初めて声をあげて泣いたあの瞬間に思った。

 

「もう一回だけ、自分で選びたい」と。

 

依存でも、しがみつきでもない。

“守ってもらう立場”から抜け出したわけでもない。

 

ただ――このまま何もしない“被害者”として固定されるのが嫌だった。

 

だから、“探しに行く”。

理由は、それだけだった。

 

 

──夜。

 

繁華街から一本外れた裏通り。

酔客も消え、店の看板の灯りもまばら。

アスファルトは夜気を吸って、冷たく沈んでいる。

 

迅花は、パーカーのフードを深く被りながら歩く。

 

裏の匂いがする方へ。

一度、自分が堕ちかけた世界の方へ。

 

自分の足で、踏み込んでいく。

 

足取りは迷いなく――それでも、一歩ごとに心臓が跳ねる。

 

胸の奥で、何度も何度も言い聞かせる。

 

“あの人はヒーローじゃない”。

“救い主でもない”。

 

“ただ――あの人の隣にいたい”。

 

それが、今の自分の本音だった。

 

裏社会の噂は、思ったより簡単に拾えた。

 

鉄腕の試合が潰れた。

会場が滅茶苦茶になった。

黒い小柄な男がいた。

「レイヴン」だ。

戦闘屋だ。

 

そうして辿り着いたのが――

場末の建物の地下にある、裏の人間たちがたむろするBar。

 

薄暗い照明。

酒と煙草と、古い木のカウンターの匂い。

 

カウンターでは、殺し屋みたいな男が無言でグラスを揺らしている。

奥のテーブル席では、スーツ姿の男たちが低い声で話している。

誰もが、“普通ではない目”をしていた。

 

その中に――

 

いた。

 

背を丸めてカウンターに座る、地味で、普通で、

だけど“異様に現実感のある”背中。

 

黒いジャケット。

無造作な姿勢。

グラスの縁を指先で弄びながら、世界を冷静に横目で測っている気配。

 

あの夜、檻の中で見た背中。

 

胸が痛いくらい跳ねる。

でも、走らない。叫ばない。

 

静かに歩み寄る。

 

椅子の背に指が触れる直前で、言葉が喉に詰まる。

 

何て言えばいい?

助けてくれてありがとう?

迷惑かけてごめんなさい?

情けなかった?

怖かった?

悔しかった?

 

言葉はいくらでも浮かぶのに、一言も出てこない。

 

ただ――その背中を見ただけで、胸の奥に“体温”が戻る。

 

視線に気づいたのか、男がゆっくり振り返った。

驚いた顔はしない。

心底呆れた顔もしない。

 

ただ、少しだけ眉を上げて。

あの軽い声で言った。

 

「……お前、普通の女子高生が来る場所じゃねぇんだけどな」

 

その瞬間――胸の奥で、なにかがほどけた。

 

安堵でも、救済でもない。

 

“日常に戻された”ような、妙な感覚。

 

泣き顔でも、怯え顔でもない。

迅花は、少しだけ笑った。

 

「普通じゃないって、あなたが一番知ってるでしょう」

 

それは、完全に壊れた少女の声じゃない。

 

“まだ立ちたい”少女の声だった。

 

男は短く息を吐き、グラスをカウンターに戻す。

軽口みたいに言う。

 

「……来たってことは、まだ壊れてねぇな」

 

迅花は、一歩、近づく。

 

「壊れたくないんです。

 だから……あなたの近くにいたい」

 

直情的な恋愛の告白じゃない。

依存でもない。

 

“恐怖に折れたままではいたくない”。

そのために、彼の背中を選んだ。

 

男は少しだけ目を細め――静かに笑った。

 

「……いい目になったじゃねぇか」

 

それで、十分だった。

 

迅花は、カウンターの横の席に腰を下ろす。

 

まだ震えは残っている。

恐怖も、完全には消えない。

世界は相変わらず優しくない。

 

でも――今は、この背中の隣にいればいい。

 

戦場の鴉の横で、

いつか自分の足で立つために。

 

少女の感情は、依存から“選択”へと、静かに変わっていた。

それが恋の始まりかどうかなんて、この時はまだ分からない。

 

ただ一つ、確かなのは――

“この男の隣で生きたい”という感情が、確かに芽生えたということだけだ。

 

 

 

 

鷹宮 迅花  女子高生 / 鴉の嘴

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