第22話「琥珀色の水底」

第22話「琥珀色の水底」


身体の感覚だけが、心から切り離されて浮き上がっていた。


トイレを磨き上げ、風呂の床を白くなるまで擦り、熱いシャワーを浴びた。仕上げに振りかけたハッカ油のミストが、首筋から背中にかけて氷のような清涼感をもたらしている。鼻を抜ける鋭い香りは、どこまでも清潔で、正しい。


それなのに、誠二の心は、光の届かない日本海溝の底へと沈み込んでいた。重圧と静寂が、肺の空気をじわじわと押し出していく。


(……空しい)


ふいに、その言葉が口をついて出た。 感謝業。トイレ掃除。笑う練習。 自分を変えれば、世界が変わる。メンターの言葉を信じて、必死に泥水を啜るような努力を続けてきた。だが、現実はどうだ。鏡の前で無理やり作った笑顔は「不気味」と一蹴され、誠一の切実な変革の意志は、澄子の沈黙という分厚い防壁に跳ね返される。


「俺は、ただ……」


誠二は、誰もいない子供部屋で独りごちた。 「そうそう、あの時は大変だったな」 「あそこの店のケーキ、また食べたいわね」 そんな、たわいもない「ラリー」がしたいだけだった。年老いたら、縁側のような場所で茶を啜り、互いの白髪を笑い合う。そんな、ありふれた、どこにでもあるはずの未来を夢見ていた。


現役時代、理不尽な上司の怒声に耐え、満員電車に揺られ、家族を守るという一点だけで歯を食いしばってきた。澄子だって、孤独な育児や、誠二の無関心に、身を切られるような思いをしてきたのだろう。それは分かる。分かるからこそ、今日まで彼女の冷淡さを「報い」として受け入れてきた。


だが、もう限界だった。 心に積もった絶望という名の雪。あと一ミリ、ほんのひとひらの雪が乗っただけで、誠二という構造体は音を立てて崩壊してしまう。そんな極限の縁に、彼は立っていた。


「ああああああああああああああああああああ、もう……!」


叫びは、防音性の高い壁に吸い込まれ、隣の部屋には届かない。 いっそ、古いワゴン車に荷物を積み込んで、車中泊の旅にでも出ようか。誰にも行き先を告げず、ただ海沿いの道を走り、夜は一人で星座を数える。課題の分離? 自己変革? そんな高尚な理屈で自分を縛り上げるのは、もう御免だ。


誠二は震える手で、棚の奥にしまっていた頂き物のウイスキーを取り出した。 ロックグラスに、冷蔵庫から持ってきた氷を叩き込む。琥珀色の液体が、クリスタルカットのグラスの中で踊った。


「カラン、カラン……」


氷が奏でる乾いた音が、静かすぎる部屋に響く。 誠二はそれを、一気に喉へ流し込んだ。 焼けるような熱さが喉を通り、胃の腑に落ちる。鼻を抜けるピートの香りが、ハッカの残香と混ざり合い、奇妙な眩暈を引き起こした。


「……旨い、な。ちくしょう」


二杯目、三杯目。アルコールが脳の防衛線を突き崩していく。 感情を制御していたダムの壁に、無数の亀裂が入る。


「澄子……。澄子、お前は……どうしてそんなに、俺を許さないんだ」


誠二はベッドに倒れ込み、分厚い羽毛布団を頭から被った。 そのままでは声が漏れる。彼女に、自分の惨めな姿を悟られたくない。その最後のプライドが、彼にバスタオルを掴ませた。


誠二は、口にバスタオルを強くくわえ込んだ。 その瞬間、決壊した。


「う……ああ……ううう……っ!」


嗚咽が、タオルの繊維を通してくぐもった音になり、胸の奥を震わせる。 涙が、自分でも驚くほどの熱量で溢れ出してきた。 三十年以上分の孤独。 無視され続けた寂しさ。 期待しては裏切られる、繰り返される失望。 「ありがとう」と言いながら、心の中で血を流していた自分への憐憫。


(悲しいんだ……俺は、ただ、悲しいんだよ……!)


布団の中で、誠二は丸くなって震えた。 暗闇の中、ウイスキーの琥珀色の残像が、瞼の裏で揺れている。 外はまだ、昼間の明るさが残っているだろう。澄子はリビングで、いつものように冷静に針を動かしているだろう。 その日常が、今は何よりも残酷な凶器に思えた。


「ああ……うう……」


むせび泣きながら、誠二は自分の無力さを噛み締めた。 どれだけトイレを磨いても、どれだけ高級な寿司を買ってきても、失われた三十年の空白は埋まらない。自分を変えても、相手を変えることはできない。それが「課題の分離」の残酷な真実だった。


バスタオルが涙で重くなり、誠二の意識は、アルコールと疲労の濁流に飲み込まれていく。 深く、深く。 日本海溝よりも深い、泥のような眠りの中へ。 そこには、自分を責める澄子の声も、虚しい感謝の言葉も、何一つ届かないはずだった。


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