第2話:トリガーポイントの攻防

ヴォルガ共和国、大統領官邸。  その廊下は、無機質な大理石とレーザーセンサーの光で構成された、死の迷路だった。


「歩容認証(ゲート・オーソリゼーション)、確認……エラー。対象の骨格パターン、照合不能」


 監視AIの無機質な声が響く。  俺はセンサーの死角で、体を奇妙にねじらせていた。  右肩甲骨を極限まで外転させ、骨盤を後傾。あえて「重度の猫背」と「O脚」を擬態することで、正規の兵士の歩行パターンから外れる。AIは俺を「人間に似た大型の齧歯類」あるいは「バグ」と誤認し、警報を鳴らさない。  すべての関節可動域(ROM)を支配できる者だけが使える、身体操作ハッキングだ。


「止まれ! 何者だ!」


 角を曲がった瞬間、パワードスーツを着込んだ警護兵と鉢合わせた。  銃口がこちらを向く。コンマ数秒の世界。  俺は床を蹴った。逃げるのではない。懐に入り込む。


「警告する、発砲許可を……ぐっ!?」


 俺の指先が、兵士の首筋――胸鎖乳突筋と斜角筋の隙間へと滑り込んだ。  強化外骨格は全身を覆っているが、可動部の隙間はある。特に首の回旋を妨げないためのこの一点。  迷走神経への正確な圧迫。  兵士は引き金を引くことなく、糸が切れた人形のように膝から崩れ落ちた。 「悪いな。副交感神経を優位にさせてもらった。朝まで熟睡できるぞ」  俺は崩れ落ちた兵士を丁寧に横たえると、最上階の寝室へと急いだ。


 分厚い防弾扉の前。  俺はスーツの男から渡された電子ロック解除キーを使うことなく、聴診器のように扉に耳を当てた。  聞こえる。中から漏れ出る、苦悶のうめき声と、不規則な床鳴り。  重い足音が、部屋の中を右往左往している。痛みに耐えかねて歩き回っている音だ。


 ――ガチャリ。  俺はピッキングツールで物理錠を回し、扉を開け放った。


 薄暗い寝室。  巨大なモニターの明かりだけが、その男を照らしていた。  イワン・ボルトフ。  彼はベッドの脇で、核ミサイルの発射コードが入力されたアタッシュケースに手をかけ、脂汗を流していた。


「誰だ……! 暗殺者か!?」


 ボルトフが振り返る。その動きは緩慢で、ロボットのようにぎこちない。  俺は両手を挙げてゆっくりと近づいた。


「いいえ。ただの整体師です」 「ふざけるな! 警備はどうした!」 「全員、リラックスさせておきました」


 俺はボルトフとの距離を詰める。  近くで見ると、その症状の酷さは想像を絶していた。  右肩が極端に上がり、首が左に傾いている。まるで目に見えない重りを背負っているかのようだ。  シャツの上からでも分かる、背中の隆起。


「見えますよ、大統領。あなたの背中に、世界の歪みが」


 俺は許可も取らず、彼の手からアタッシュケースをもぎ取り、放り投げた。 「貴様っ、それをよこせ! 西側の犬どもを焼き払ってやるんだ! この痛みが、奴らの呪いなんだ!」 「呪いじゃない。ただの生活習慣病だ」


 暴れるボルトフの腕を掴み、関節の理合を使ってベッドにうつ伏せに制圧する。 「離せ! 殺してやる! 触るな! 不潔だ!」 「少し黙っていろ」


 俺は彼のシャツを背中から引き裂いた。  露わになったその背中を見て、俺は息を呑んだ。    硬い。あまりにも硬すぎる。  脊柱起立筋がワイヤーロープのように張り詰め、肩甲骨は癒着して埋没している。  特に腰椎四番・五番周辺の筋肉は、黒ずんで見えるほどの鬱血を起こしていた。これが「トリガーポイント」――痛みの発信源であり、世界大戦の起爆スイッチだ。


「……こいつは骨が折れそうだ」


 俺は腰のポーチから特製のオイルボトルを取り出した。  ボルトフはベッドの上で、亀のように手足をバタつかせている。 「貴様の指など、我が鋼鉄の意志には通用せんぞ……!」 「鋼鉄だろうがコンクリートだろうが、俺の前では粘土と同じだ」


 俺は深呼吸をし、丹田に気を溜める。  ここから先は、ミリ単位のミスも許されない。  相手は核ボタンを持つ独裁者。施術の痛みに逆上すれば、その場で処刑もあり得る。  だが、引くわけにはいかない。


 俺は、熱を帯びたその背中に、ゆっくりと掌(てのひら)を置いた。  開戦のゴング代わりの、最初の一押し(ファースト・タッチ)だ。


(第2話 完)

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