おにぎりの白熊堂 ~ぬいぐるみが繋いだ縁~
黒本聖南
序章 出会いとぬいぐるみ
男の子は置いてかれた
ここで待っていてねと言われて、どれくらい経ったのか、齢七つの幼い男の子には分からない。
遊園地内のベンチに座り、静かに母を待つ。
足をブラブラ動かしてみた。幾人も通り過ぎていく親子連れをぼんやりと眺めた。空を往く飛行機を口を開けて見上げたりもした。
それでも孤独は埋まらない。
数時間前まで、小さなこの手は母と手を繋いでいたはずなのに。引っ張られるようにこの遊園地に連れて来られて、ご飯を食べて、適当なベンチに座らされた。そうして母の背中を見送ったはずだが、これは現実なのか。
遊園地なんて来たことがない。誰かの話の中に、あるいはテレビの中に存在するものという認識で、まさか自分がそんな場所に連れてこられるなんて夢にも思わなかった。
母は男の子をどこかに連れていってくれない。買い物にだって連れていかず、男の子は常に留守番をしろと言われてきた。
そんな母が、自分と一緒にどこかに出掛けてくれる。しかもその場所は、とても楽しいと聞く遊園地。嬉しくないわけがなかった。
まずは何から乗るんだろうと、とても、とても、とても、とても、とても、楽しみにしていたのに、現実には一人ベンチに座っている。
夢ではないか。とても悪い夢。
頬を叩いてみたが、夢から覚める気配はなく、強く叩き過ぎたのか痛かったので、涙が少し出てきてしまった。
ぽつりぽつりとコートに落ちていく涙。これは違う。頬が痛くて泣いているだけ、淋しくて泣いているわけじゃない。
そう思っても、遠ざかる母の背中を勝手に思い浮かべて、涙が止まらない。その内嗚咽も込み上げてくる。早く止めなくては。母が戻ってきたらうるさがる。また置いていかれるかもしれない。
止まれ、止まれ、止まれ、止まれ、止まれ。
「とまって……とまって、よお……」
「──どうしたの?」
ふいに、背中を撫でられて、すぐ傍から声を掛けられる。
驚いて肩を跳ねさせながら周囲を見ると、隣にいつの間にか誰か座っていて、男の子を見ていた。
男の子より少し年上と思われる、少年だった。
髪の長さは男の子と同じく肩くらいまであるが、焦げ茶色の髪の男の子と違って、真っ黒な髪をしていた。
何か特別な理由でもあるのか、少年は前髪をかなり伸ばして左目を隠しており、右目しか確認できない。その右目は心配そうに、男の子を見ていた。
「涙、止まらないね。大丈夫だよ、背中撫でてあげるから、落ち着いて、ね?」
「……おこら、ないの?」
「何で?」
心配そうだった少年の右目が、不思議そうなものに変わる。
男の子は上目遣いに少年を見ながら、ゆっくりと答えた。
「おかあさん、なくと、おこる」
「俺のおばあちゃんもみーちゃんも怒らないよ。泣きたい時は泣いていいんだよって、背中を撫でたり抱き締めてくれるよ」
「……」
「だから俺も、そうする」
ほら、泣いていいよ。
優しい声でそんなことを言われ、温かい手で背中を撫でられる。男の子は泣き止むどころか、余計に泣いてしまった。
泣いて怒られないなんてこと、短い人生で一度もなかった。
母はいつも怒っていた。めんどうくさい、早く泣き止んでと、頭を叩かれたこともある。それなのに少年は、むしろ泣いていいと言ってくれる。
「うっ……あっ……ああっ……」
「大丈夫、きっと大丈夫だよ」
温もりは消えない。優しさも消えない。
男の子は泣き続けた。その間、少年はずっと声を掛けて、背中を撫で続けてくれた。
やがて泣き疲れ、涙が出なくなると、少年は笑みを浮かべて、はいこれと、何かを男の子に渡してきた。
「可愛いでしょう? さっき輪投げでゲットしたんだ」
男の子の手には少し大きなサイズの、白熊のぬいぐるみ。
うつ伏せの状態でにっこりと笑う白熊。その笑顔を見ていると、自然と男の子も笑顔になった。
「俺のはね、あざらし」
少年はそう言って、脇にでも置いていたのか、今度はあざらしのぬいぐるみを見せてくる。そちらもうつ伏せの状態で、にっこりと笑っていた。
「『こんにちわ、白熊さん。ぼく、あざらしくん』」
そのように声を当ててくるのが面白くて、男の子は白熊のぬいぐるみをしっかり両手で持ち、少年とあざらしのぬいぐるみに向かって、一緒にお辞儀をした。
「『白熊さん、ぼくと友達になろうよ』」
「……ともだち?」
「『友達になったら、楽しいよ?』」
「……しろくまとあざらしって、ともだちになれるの?」
「『なれるよ。白熊とも、人間とも、あざらしは友達になれる』」
「……じゃあ、なろうかな」
男の子は片手をあざらしに向けて伸ばし、あざらしのヒレを、そっと摘まむ。
「よろしく、おねがいします」
「『よろしくね!』」
それからずっと、少年の連れが来るまで、男の子と少年はぬいぐるみで遊んでいた。
連れが来てからは、皆で迷子センターに行き、母を呼び出してもらうが、閉園時間になっても、母は来ない。
男の子は不安になり、ぎゅっと白熊のぬいぐるみを右手で抱えていた。左手は少年が握ってくれている。少年とその連れは、ずっと傍にいて、男の子が母と会えるのを願ってくれていた。
やがて、連絡先が書かれたものはないか、男の子の所持品を調べると、一通の手紙が見つかる。
男の子がそれを読むことはなかった。大人達はどこかに電話を掛け、そして迎えが来るからと男の子に言い、少年とその連れには帰るように言う。
少年はまだ一緒にいようとしてくれたが、連れに諭され、渋々受け入れることにしたようで、最後に男の子にこう言った。
「その白熊は君にあげるよ。たくさん可愛がってね」
「……おにいさん、ありがとう」
少年は男の子の頭を撫でて、連れと共に行ってしまった。
彼らがいなくなって、いくらか時間が経った頃、見知らぬ男が迷子センターにやってきた。
「君が、
「……はい」
男の子──丙吾が返事をすると、男は片膝をついて、彼を抱き締めてきた。
「はじめまして、君のお母さんの弟です」
「おとう、と?」
「辛かったね、もう大丈夫だよ」
「……?」
──その後、丙吾は母の弟である叔父の元に引き取られることになり、母とは、二度と会うことはなかった。
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