第34話:存在の揺らぎ
数日が、過ぎた。
朝。目を開けた瞬間から、何かがおかしかった。天井が、遠い。自分がここにいるという実感が、薄い。
身体を起こす。腕が重い。まるで水の中にいるような感覚。
「レオン伍長」
ドアの向こうから、ミラの声がした。
「起きていますか」
答えようとした。声が、出にくい。喉が動いている。息も吐いている。でも、音になりにくい。
「……ああ」
やっと、掠れた声が出た。
ドアが開く。ミラが入ってきた。俺を見た瞬間、足を止める。
「レオン伍長……存在率を、測定させてください」
俺は、頷いた。数秒の沈黙。
「……68%」
ミラの声が、震えていた。
「数日前は73%でした。5%も……」
ミラは、少し考えるような顔をした。
「レオン伍長。存在率の低下パターンを分析しました」
「……分析?」
「マルコさんは、引退してから10年以上経っています。その間の低下は15%程度。ゆっくり下がったから、身体が適応できた」
ミラは、言葉を切った。
「でも、急激に下がると、存在そのものが不安定になります。適応する時間がないから」
俺を見た。
「レオン伍長は、半年で30%近く。身体が、ついていけていないんです」
半年。四月に忘却術師として正式に配属されてから、まだ半年も経っていない。なのに、存在率は、訓練終了後の97%から68%まで落ちている。
「特に、深層共鳴を使った直後から、低下速度がさらに上がっています」
深層共鳴。ライラの施術で、マエストロの想いを感じ取った、あの力。マルコは言っていた。深入りしすぎるな、と。
「深層共鳴が、引き金になっている可能性が高いです」
俺は、自分の手を見た。身体が、不安定だ。存在が、いつ崩れてもおかしくない感覚。
「レオン伍長」
ミラの目が、真剣だった。
「今日は、依頼を控えてください」
「……分かった」
断る理由は、なかった。
*
昼過ぎ。
依頼は控えたが、事務作業はしていた。じっとしているのも落ち着かない。執務室の机に向かい、報告書を整理する。ミラが、紅茶を淹れてくれた。
その時、ドアが開いた。
「レオン、いる?」
明るい声。茶色のウェーブがかかった髪。緑色の瞳。
アリアだった。
「ちょっと相談が——」
言いかけて、止まった。俺を見て、眉をひそめる。
「……また薄くなってない?」
「……気にするな」
「気にするわよ。今、いくつ?」
「68%だ」
アリアの顔色が、変わった。
「……半年で、そこまで」
しばらく、沈黙があった。
「ねえ」
アリアが、窓際に歩いていく。
「怖くないの? 消えること」
「……」
「私は怖い。だから加減してる。でも、あなたは——」
振り返った。緑色の瞳が、俺を見ている。
「全力で削って、全力で消えていく。見てて、怖いのよ」
その言葉に、俺は何も答えられなかった。
「怖くないわけじゃ——」
言いかけた瞬間。身体が、揺らいだ。
「——っ」
視界が、一瞬歪む。自分の輪郭が、ぼやけていく感覚。
「レオン……!」
アリアの声が、遠くに聞こえた。
が、数秒で、戻った。
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃないわよ……! 今、消えかけた……!」
アリアの顔が、蒼白だった。
「……本当に、無理しないで」
その声は、震えていた。
「相談は、また今度にする」
アリアは、足早に出て行った。ドアが閉まる。執務室に、静寂が戻った。
*
夕暮れ。
窓の外が、茜色に染まっていた。
「レオン伍長」
ミラが言った。
「帰りましょう」
「……ああ」
立ち上がる。足元が、少しふらついた。
*
帰り道。
西日が、街を染めている。人通りは、まばらだった。ミラが、隣を歩いている。
「レオン伍長」
心配そうな声。
「顔色が……」
「大丈夫だ」
そう言った瞬間——足が、止まった。
「……っ」
動かない。動けない。膝から、力が抜けていく。
「レオン伍長……?」
ミラの声が——遠い。すぐ隣にいるはずなのに、どこか遠くから聞こえる。
「ミラ……」
口を開く。声が、出ない。喉は動いている。息も吐いている。でも、音にならない。
俺の声が……届かない。
ミラの声は、かろうじて聞こえていた。
「レオン伍長……!」
ミラが、俺の腕を掴んだ。その感触が——薄い。触れられている。でも、膜を一枚隔てているような。
音が、消えていく。街の喧騒が、遠のいていく。風の音も、鳥の声も、人の話し声も。何も、聞こえない。
色が、失われていく。茜色の空が、灰色に霞んでいく。
世界が、遠ざかっていく。
ミラの顔が、見えなくなっていく。銀色の髪。青い瞳。その輪郭が、霞んでいく。
「——」
ミラの口が、動いている。何か叫んでいる。聞こえない。見えなくなる。ミラが——見えなくなる。その瞬間。
(嫌だ)
心の奥で、何かが叫んだ。消えることが怖いんじゃない。ミラに会えなくなることが、怖い。
(嫌だ——)
初めて、その感情を認めた。怖い。ミラを失うのが、怖い。
*
ミラは、必死だった。レオンが、消えていく。目の前で、遠ざかっていく。
「レオン伍長……!」
叫んだ。届かない。どうすればいい。何をすればいい。アンドロイドの私に、何ができる。分からない。何も——できない。
でも、離したくない。手を、握った。消えそうな手を。離れていきそうな手を。それでも、握った。
「消えないで……」
声が、震えた。
「消えないでください……」
涙が、溢れた。
「お願い……です……」
*
暗闘の中。温もりが、あった。誰かが、手を握っている。温かくて、必死で、震えている手。
(ミラ……)
その瞬間、何かが流れ込んできた。ミラの手から、俺の中へ。温かくて、確かで、優しい繋がり。音が、戻ってきた。最初は遠く。次第に近く。
「——伍長……」
ミラの声。
「レオン……伍長……」
聞こえる。確かに、聞こえる。色が、戻ってきた。茜色の空。灰色の石畳。そして、銀色の髪。涙に濡れた、青い瞳。
「ミラ……」
声が、出た。掠れていたけど、確かに、声が出た。
「レオン伍長……!」
ミラの顔が、歪んだ。泣いている。
「良かった……良かった……」
俺は、自分の手を見た。輪郭は、はっきりしている。
「……存在率」
「71%……回復してます……」
68%から、71%に。何が起きたのか、分からない。でも、一つだけ確かなことがある。
「ミラ」
「……はい」
「お前が、繋ぎ止めてくれたんだな」
ミラは、何も言わなかった。ただ、涙を流していた。俺は、ミラの手を握り返した。
「ありがとう」
「レオン伍長……」
「お前がいなかったら、俺は消えていた」
確信があった。あの暗闘の中で、俺を繋ぎ止めたのは、ミラの手だった。
「だから、ありがとう」
ミラは、首を横に振った。
「私……何も……」
「いや。お前がいてくれて助かった」
ミラは、もう何も言えなかった。ただ、俺の手を——握り続けていた。
*
夕日が、沈んでいく。近くのベンチに座った。しばらく、無言だった。
「レオン伍長……」
ミラの声が、小さく震えていた。
「深層共鳴は……もう、使わないでください」
「……」
「お願いです」
ミラが、俺を見た。その目には、まだ涙の跡が残っていた。
「あんな思い、もうしたくありません」
俺は、答えられなかった。使わないとは、言えない。苦しんでいる人がいて、深層共鳴でしか救えないなら、俺は、使ってしまうだろう。でも、ミラの気持ちも——分かる。
「……できる限り、控える」
それが、俺に言える精一杯だった。ミラは、少し黙った。
「……分かりました」
納得したわけではない。その声で分かった。でも、それ以上は言わなかった。
「これから先も、こういうことが、あるかもしれない」
俺は、正直に言った。
「俺の存在率は、まだ下がる。でも、俺は止まれない」
ミラは、黙っていた。
「分かっています」
静かな声だった。
「レオン伍長が、そういう人だということは」
「……」
「だから——」
ミラが、俺の手を、もう一度握った。
「私が、支えます」
「ミラ……」
「何度でも、繋ぎ止めます。だから——」
ミラの目が、真っ直ぐ俺を見た。
「消えないでください」
その言葉が、胸に響いた。
「……ああ。約束する」
ミラは、小さく笑った。涙を流しながら。
「……はい」
俺たちは、立ち上がった。手は繋いだままだった。空が、紫色に変わっていく。星が、一つ瞬き始めた。
「帰ろう、ミラ」
「はい」
この手を、離さずにいよう。
そう、思った。
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