第2章:忘却術師と仲間と世界と
第23話:新たな日常の始まり
【この話について】
本話には、大切な人を亡くした悲しみや自責の念についての描写が含まれます。
同様のご経験をお持ちの方は、ご自身の状態に合わせてお読みください。
もし今、つらい気持ちを抱えている方がいらっしゃいましたら、一人で抱え込まず、相談窓口にご連絡ください。
◆いのちの電話:0120-783-556
◆よりそいホットライン:0120-279-338
◆こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556
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朝だった。
昨日と同じ光が、窓から差し込んでいる。穏やかで、静かで、平和な光。
ベッドから起き上がった。何か夢を見た気がする。でも、思い出せない。誰かの声が聞こえた気がするけど、霧の向こうに消えてしまった。
洗面台に向かった。鏡を見る。
「……」
また、少しぼやけている。輪郭が、揺らいでいる。昨日より、ほんの少しだけ。
「……進んでるな」
独り言が、静かな部屋に落ちた。
*
「おはようございます、レオン伍長」
部屋を出ると、ミラが待っていた。
手には、トレイ。パンとスープ。
「ああ、おはよう」
「今日の朝食です」
「……わざわざ持ってきてくれたのか」
「はい」
ミラが、少し笑った。昨日から、笑顔が戻りつつある。まだぎこちないけど、前よりは自然だ。
「ありがとう」
「いえ」
二人で、部屋の中で朝食を取った。パンは温かい。スープも温かい。小さな幸せ。こういう時間が、大切なんだと思う。
「レオン伍長」
「ん?」
「カイ大佐から、連絡がありました」
「依頼か」
「はい。新しい依頼人がいるそうです」
俺は、パンを噛んだ。
「どんな依頼だ」
「詳しくは聞いていませんが……学生さんだそうです」
「学生」
「はい。十六歳の男の子だと」
若いな。十六歳で、忘却術が必要になるほどの傷を負っている。この世界は、平和になったはずなのに。それでも、人は傷つく。
「分かった。行こう」
「はい」
*
街に出た。
昼前の街は、人で賑わっている。買い物をする人、仕事に向かう人、散歩をする人。平和な光景。
俺とミラは、並んで歩いた。
「いい天気ですね」
「ああ」
「こういう日は、散歩したくなります」
「……そうだな」
ミラが、少し嬉しそうだ。昨日の夕方、『今日みたいな日がもっと続くといいですね』と言っていた。今日も、そんな日になればいい。
「あ、レオン伍長」
「ん?」
「あのパン屋さん、新しいパンを出したみたいです」
「……そうか」
「帰りに寄りませんか?」
「ああ、いいぞ」
ミラの笑顔が、少し広がった。
*
道を曲がった時だった。
前から、男が歩いてきた。中年の男。商人風の服装。俺たちの方に向かってくる。
道が狭い。すれ違うには、どちらかが避けなければならない。
俺は、少し横に寄った。
男は——
そのまま、歩いてきた。
「……」
ぶつかりそうになる。俺は、さらに横に避けた。
男は、俺の横を通り過ぎた。まるで、俺がいないかのように。視線すら、向けなかった。
「……」
分かっていた。これが、代償だ。存在が薄くなっていく。人々の認識から、消えていく。
「レオン伍長……」
ミラが、心配そうに俺を見た。
「大丈夫だ」
「でも……」
「慣れた」
嘘じゃない。もう何度も経験している。街を歩けば、誰も俺を見ない。話しかけても、気づかれない。まるで、透明人間になったみたいだ。
「慣れたけど……」
俺は、空を見上げた。
「……寂しいな」
言葉が、自然と出た。普段なら言わないようなことを。
ミラが、俺の隣に立った。
「私がいます」
静かな声だった。
「私には、見えています」
「レオン伍長は、ここにいます」
「だから……寂しくないでください」
俺は、ミラを見た。青い瞳が、まっすぐに俺を見ている。
「……ああ」
頷いた。
「ありがとう、ミラ」
ミラが、小さく微笑んだ。
*
依頼人の家に向かった。
住宅街の一角。小さな家が並んでいる。その中の一軒。
「ここですね」
「ああ」
玄関の前に立った。
ミラがドアをノックする。
「……はい」
少しして、ドアが開いた。
若い男の子が立っていた。十六歳。学生服を着ている。でも、目に光がない。髪は乱れ、顔色は悪い。明らかに、何日も外に出ていない様子だった。
「……あの」
「忘却術師のレオンだ。依頼を受けて来た」
男の子が、俺を見た。いや——俺の方を見た。視線が定まらない。俺を見ているようで、見ていないような。
「……君が、忘却術師?」
「ああ」
「……なんか、ぼんやりしてるね」
男の子が、目を細めた。
「まるで……目を離すと、見失いそうな……」
俺は、黙った。そうか。この子にも、俺の存在は薄く感じるのか。
「……そうか」
それだけ言った。
ミラが、一歩前に出た。
「レオン伍長です。世界で唯一の、一級忘却術師です。あなたを、助けに来ました」
男の子が、ミラを見た。それから、また俺の方を見た。
「……俺は、アレックス」
「アレックスか」
「……入って」
アレックスが、ドアを開けた。
中は暗かった。カーテンが閉まっている。光を、拒絶しているみたいだった。
俺とミラは、家の中に入った。
*
リビングに通された。
アレックスが、ソファに座った。俺とミラは、向かいに座る。
沈黙が流れた。
アレックスは、俯いている。何かを言おうとして、言えないでいる。
俺は、待った。急かしても仕方がない。この子には、この子のペースがある。
「……」
アレックスが、顔を上げた。
「俺の……友達が、死んだんだ」
声が、震えていた。
「親友だった」
「……ずっと、一緒だった」
「でも……」
アレックスの目から、涙が溢れた。
「俺のせいで……死んだ」
俺は、黙って聞いていた。
「あいつは……ダンっていうんだ」
「小学校からの友達で……」
「いつも一緒で……」
アレックスの声が、震え始めた。
「でも、あの日……」
息が荒くなっている。
「あの日、俺は……気づかなかった……」
「ダンが……苦しんでたこと……」
「いつも通り……笑ってた……」
「『また明日』って……言ってた……」
アレックスの呼吸が、どんどん速くなる。
「でも……次の日……ダンは……」
ヒュッ、ヒュッ、と。息を吸おうとして、吸えない音。
「ダンは……屋上から……」
アレックスが、胸を押さえた。顔が青ざめている。目が見開かれ、何も見えていない。
過呼吸だ。
「アレックス」
俺は、立ち上がった。
「落ち着け。ゆっくり息を吐け」
アレックスは聞こえていない。パニック状態だ。このまま話を続けさせたら、壊れる。
「ミラ」
「はい」
ミラが、すぐに動いた。アレックスの隣に座り、背中をさする。
「大丈夫です。ゆっくり、息を吐いて」
「吸わなくていいです。吐くことだけ、考えて」
ミラの声は、静かで、優しかった。アレックスの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
*
「……はぁ……はぁ……」
数分後。アレックスは、ソファにぐったりと倒れ込んだ。涙と汗で、顔がぐしゃぐしゃだった。
「……ごめん……」
小さな声だった。
「いつも……こうなる……」
「話そうとすると……息が……」
俺は、アレックスを見た。
この子の傷は、深い。とても、深い。無理に話を聞き出したら、命の危険もある。
「……今日は、ここまでだ」
俺は、静かに言った。
「え……」
「明日、また来る」
「でも……」
「焦らなくていい」
俺は、アレックスを見た。
「お前のペースで話してくれ」
「俺は逃げない。何度でも来る」
「だから、今日は休め」
アレックスが、俺を見た。涙で濡れた目が、俺の方を向いている。
「……分かった」
小さな声だった。
「明日……待ってる」
俺は頷いた。
*
家を出た。
夕日が、街を染めている。オレンジ色の光。穏やかな光。
「レオン伍長」
「ん?」
「今日は、施術しなかったんですね」
「ああ」
俺は、歩きながら答えた。
「あの状態で続けたら、命に関わる」
「心が追いつかないまま、記憶に触れるのは危険だ」
「明日、落ち着いてから話を聞く」
ミラが、頷いた。
「……あの子、とても苦しそうでした」
「ああ」
「レオン伍長も……苦しそうでした」
俺は、少し黙った。
十六歳。友達を失った。自分のせいだと思っている。
俺にも、覚えがある。仲間を失った。自分のせいだと思った。今でも、思っている。
だから——
「あの子の気持ちは、分かる」
俺は、小さく呟いた。
「……少しだけ」
ミラが、俺を見た。何か言いたそうだったけど、何も言わなかった。
ただ、隣を歩いてくれた。
それだけで、十分だった。
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