ルナタリア彷徨譚
Rilla.
序章
忙しい人の為のプロローグ
■2026/1/1 UP
プロローグが長くなってしまったので短縮版を作成いたしました。
(プロローグを読まずに第一話に行っていただいても問題ないです。)
こちらを読んだ後は次話を飛ばし、第一話へお進みください。
もし本編を気に入っていただけましたら、後ほど通常版のプロローグもご覧いただけますと幸いです。
------------------------------
「あの」
少女の指先が男の袖に触れた瞬間、意識は濁流へと沈んだ。
数十年の執着、エルナという名の女性への届かぬ思慕、霧が深く垂れ懸った湖――。
出会ったばかりの老船頭の人生が、少女の心に流れ込んでくる。
「……っ!!」
勢いよく体を起こした拍子に、体に掛けられていた麻布がずり落ちた。
視界に入るのは、薄い布張りの天井。草の香りに混じった土の匂い。
さっきまで船に乗っていたはずなのに、今は天幕の中にいた。
「……探さないと」
無意識にこぼれた言葉。
何を?
わからない。
最初に目覚めたとき、洋館にいた。記憶も、名前も、ここがどこかもわからない。
ただ、この大きなリュックサックと、触れたものに宿る「記憶」を見ることのできる不思議な力だけが、少女の真っ白な記憶を私を塗り、彩っていく。
天幕の外へ出ると、あの老船頭がこちらへ歩み寄ってくる。
彼は無言のまま、ずっしりと重い革袋を少女に差し出した。中には、淡い光を宿した魔法石がたっぷりと詰まっている。
少女は男の虚ろな顔を見つめた。
「あの……エルナさんは」
少女がその名を呼んだ瞬間、男の肩が激しく震えた。
「彼女は、あなたがいつまでも岸辺に立ち尽くしていることを、望んでなどいませんでしたよ」
数十年、あるいはもっと長い間。誰も呼ぶことのなかったその名を、少女は口にした。
少女は彼に背を向けて、待機していた馬車の元へ向かう。
馬車へ乗り込む直前、背後で男が何かを堪えるような、震える吐息が聞こえた気がした。
馬車が動き出す。心地よい振動に身を任せながら、少女は穏やかな眠りについた。
*
ガタン、と大きな衝撃とともに馬車が停車した。
少女が重い扉を開けて外へ出ると、彫像のように動かなかった御者が、ゆっくりとこちらへ向き直った。
その姿には生気が感じられず、人間というよりは、夜の闇が形を成しているかのようだった。
御者は無言のまま、革紐のついた古びた金属製のネックレスを掲げると、少女の首へとそれをかけた。
表面には細かな紋様が刻まれ、中央には小さな魔法石が埋め込まれている。これが何を意味するものなのか、少女にはわからなかった。
御者は再び前を向き、少女が礼を言う間もなく闇の中へと馬車を走らせ消えていった。
一人残された少女は、村の入り口にある宿屋の門を潜った。
「ガキの泊まる場所なんてねえよ。他を当たりな」
カウンターに肘をつき、脂ぎった顔で少女を値踏みする中年男。
少女は何も言わず、船頭から受け取った革袋から、魔法石を一つ取り出し、秤の皿へと置いた。
ガクン、と秤が下がる。
「……これは、失礼いたしました!すぐに最上級のお部屋をご用意いたします」
主人の案内で部屋に入りベッドへ腰かけた少女は、胸元に鈍く光るネックレスへ触れる。
また、少女の意識は深くへと沈んでいった。
*
ドアが開く気配がした。宿屋の主人だった。
侵入者は、眠っている少女の腰元の袋へ手を伸ばす。
あの量の魔法石は、この小さな村の宿屋では一生お目にかかれないもの。
欲に目が眩んだ者に力を使うことは、不思議なほど罪悪感が薄かった。
私は、男に命ずる。
――手を出すな。そして、誰にも口外してはならない。
主人は吸い寄せられるように窓際へと歩み寄った。
小太りの身体を窓枠へ押し込み、
――――彼は躊躇なく外の闇へと身を投げた。
彼女は一息つく。
その後、少女は一度覚醒したが、すぐにパタリとベッドへ倒れこみ眠ってしまった。
翌朝。
村の騒ぎのすぐ傍らを、少女は不思議そうな顔をしながら通り過ぎ、森へと入っていった。
*
どのくらい歩いていただろうか?
空の様子が急変し土砂降りが降り注ぐ。
雨を避ける場所を探し彷徨っていると、木々の隙間にポツリと佇む小さな小屋を見つけた。
入り口の扉には「close」の看板が掲げられていたが、少女はその戸を叩いた。
中から若い女性が顔を覗かせ、少女のずぶ濡れの姿と外の悪天候に驚き、慌てた様子で少女を招き入れた。
案内された店内は、片付けの最中だったようで、テーブルの上には空のマグカップやダスターが置かれたままになっていた。
ふと、濡れた扉に触れた指先から見知らぬ人々の断片的な記憶が流れ込み、少女は慌てて手を引いた。
「これで拭いてください」
差し出されたタオルの柔らかな感触。
晴天の下で風に揺れる洗濯物――少女がそのイメージを強く膨らませた、次の瞬間、少女の服も足元のマットも周りの湿気さえも乾ききっていた。
「……とても、魔力がお強いんですね」
女性の感嘆に、少女は自覚がないように首を傾げる。女性はそれ以上踏み込まず、温かい飲み物をと少女をカウンターへ促した。
そこにはカフェに似つかわしくない、美しい細工の施されたオレンジ色のショットグラスとウォッカの瓶があった。
「毎日の楽しみなんです。よければ一杯どうです?」
差し出された透明なグラス。好意を無碍にできず、少女はそれを受け取った。
乾杯の音が響き、一気に流し込んだ液体が熱く喉を焼く。少女の視界を占めたのは、女性が持つあの細工入りのグラスだった。
「素敵なグラスですね。……触っても良いですか?」
「ええ、構いませんよ」
指先がその淵に触れた途端、少女の意識はぱたりと途絶えた。
*
浮遊する意識に、膨大な記憶の濁流が雪崩れ込む。
彼女のものだけではない。彼女の記憶から枝分かれした、見知らぬ大勢の感情。
孤独、別れ、憤り。
温かな幸せさえも、それを上回る苦しさに打ち消されていく。
普通の人間が一生かかっても抱えきれない「想い」の量に、眩暈がした。
なぜ、このグラスにはこれほどの情念が宿っているのか。
混沌の中で揺さぶられていた、その時。
目の前に、ひときわ大きく口を開けた黒い穴が目の前に現れ、少女の意識は逃れる術もなく、その底知れぬ闇へと引き摺り込まれていく。抗う間もなく景色が崩れ去る。
これは、あの女性の。
――とても優しく、悲しい記憶だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます