第2話:虚空の証明

 王城への道のりは、まさに針のむしろだった。

 グランツ公爵家の紋章が輝く豪華な馬車。その中で、俺は王国最強の魔導師と名高いリゼロッテにぴったりと身体を密着させられている。


 広い馬車内には他にも座るスペースはいくらでもある。

 それなのに、彼女は「師匠の体温を感じていないと、五年の空白が埋まりません」などと意味不明な供述を繰り返しながら、俺の腕を自身の豊満な胸元に抱き込んで離さない。


「リゼロッテ、いい加減に離してくれないか。服がシワになる」


「いいえ、離しません。むしろ、このまま師匠と一つに溶け合ってしまいたいくらいです。……ああ、師匠の匂い。下町の埃と、微かな魔力の残り香。これこそが私の求めていた救いですわ」


 碧眼をうっとりと細め、俺の肩に頭を預けるリゼロッテ。

 外から見れば、美しき公爵令嬢が最愛の恋人と睦み合っている微笑ましい光景だろう。


 実態は、限界までこじらせた教え子による強制連行である。


 やがて馬車が止まり、俺たちは王城の一角にある「第一魔導工房」へと案内された。

 ここは王国の軍事・生活を支える精霊器――アーティファクトが開発される、言わば国家の心臓部だ。

 一歩足を踏み入れれば、焼けた鉄の匂いと、高密度の魔力が火花を散らす独特の熱気が肌を刺す。


「リゼロッテ様、お待ちしておりました。……して、そちらの小僧が例の?」


 工房の奥から現れたのは、地面に根を張った大岩のような男だった。

 筋骨隆々の身体に、手入れの行き届いた立派な髭。

 ドワーフの族長であり、この工房を取り仕切る棟梁、ガンテツだ。

 彼の鋭い眼光が、俺の左胸――無色透明の『虚無』の紋章に注がれる。


「……ふん。冗談だと思っておったが、マジで『空っぽ』じゃねえか。リゼロッテ様、いくらあんたの頼みでも、そんな無能をこの工房の敷居を跨がせるわけにはいかねえ。ここは職人の聖域だ。魔力を持たねえゴミを置いておくスペースはねえんだよ」


 ガンテツの言葉に、工房内の職人たちが一斉に冷ややかな視線を送ってくる。

 鼻で笑う者、あからさまに軽蔑の表情を浮かべる者。

 彼らにとって、精霊紋の色こそが絶対の価値基準なのだ。

 だが、その冷気よりも遥かに鋭い殺気が、俺の隣から放たれた。


「ガンテツ。その言葉、聞き捨てなりませんわね。……私の師匠をゴミと呼びましたか? 今すぐその腐った舌を凍らせて、砕いて差し上げましょうか?」


 リゼロッテの周囲に、無数の氷の槍が展開される。

 本気だ。彼女は俺を侮辱する者に対して、一切の容赦をしない。

 俺は慌てて彼女の肩を叩き、魔力を鎮めるよう制止した。


「待て待て、リゼロッテ。喧嘩をしに来たわけじゃない。……棟梁、あんたの言い分はもっともだ。魔導師としての価値が属性の出力で決まるなら、俺は間違いなく最底辺だろう」


 俺は一歩前へ出て、作業台の上に転がっていた、加工前の硬質な精霊石を手に取った。

 それはダイヤモンドに匹敵する硬度を持ち、熟練の職人が数日がかりで魔力を注ぎ込み、ようやく形を整えられる代物だ。


「だが、彫刻を作るのに、必ずしも槌とノミが必要とは限らない。……そうだろう?」


 俺は前世で学んだ工学的な概念を脳内に展開する。

 対象物の三次元的な座標データをスキャン。

 不要な部分を「削る」のではなく、そこにある「空間」そのものを定義ごと消去する。

 切削加工における誤差をゼロにする、究極のマイナス工法だ。


「第一位階、開放――『虚無――ヴォイド』」


 俺の手のひらから、無色の波動が精霊石を包み込む。

 魔力の輝きも、派手なエフェクトもない。

 ただ、シュン、という空気が抜けるような音が一度だけ響いた。


「……あ?」


 ガンテツが声を漏らす。

 次の瞬間、作業台の上にあった無骨な岩石は、一点の曇りもない「完璧な球体」へと変貌していた。


 それは、磨き上げられた鏡など比較にならないほど滑らかな表面を持っていた。

 光の反射が歪み一つなく、あまりの平滑さに、まるでそこだけ世界が切り取られたような違和感さえ覚える。

 原子レベルでの凹凸すら排除した、数学的な概念としての「球」。


「な……なんだ、こりゃあ……。ノミの跡どころか、研磨の痕跡すらねえ。どうやって……一瞬でこんな……」


 ガンテツが震える手で球体に触れようとし、その指先が表面で滑った。

 摩擦係数が極限まで抑えられたその物体は、重力を無視して転がっていく。

 俺はそれを虚無の力で空中に固定し、さらに言葉を重ねた。


「空間から、不要な定義を間引いただけだ。俺の紋章は何も生み出さないが、そこにある余計なものを『無』に帰すことにかけては、どんな属性よりも優れている」


 沈黙が工房を支配した。

 職人たちの冷ややかな視線は、今や驚愕と、得体の知れない恐怖へと変わっている。

 彼らが一生をかけて追求する「加工」という概念を、俺は一瞬で、全く別の理屈で飛び越えてしまったのだから。


「それだけではありませんわ、ガンテツ」


 リゼロッテが、誇らしげに胸を張って割り込んできた。

 まるで自分の功績であるかのように、彼女の頬は高揚で赤らんでいる。


「師匠の真骨頂はここからです。……師匠、是非あの子を見せてあげてください。私が嫉妬してしまいそうになるほど、精緻で愛らしいあの子を」


 リゼロッテの「嫉妬」という不穏な言葉をスルーし、俺は第二位階の魔力を練り上げる。

 虚無という空っぽの器に、俺の意志で形を与える。


「第二位階、開放――『形――フォルム』」


 作業台の上の空間が歪み、漆黒の霧が集まっていく。

 やがて霧は凝縮され、一頭の小さな黒猫のような形を成した。

 一見すれば可愛らしい使い魔だが、その実態は「存在しない物質」で構成された、虚無の擬似生命体だ。


「『虚空人形ヴォイド・ドール』だ。こいつは俺の思考と同期して、どんな複雑な作業も自律して行う。……おい、やってみせろ」


 俺が命じると、黒猫――ヴォイド・ドールは、棚に置いてあったバラバラの精霊器のパーツへと飛びついた。


 数十の歯車、微細なバネ、複雑に絡み合った魔導回路。

 それらを、目にも止まらぬ速さで組み上げていく。

 ただ組み立てるのではない。

 パーツ同士のわずかな歪みを、その身体から発する虚無の波動で補正し、理論上の最適解へと導きながら結合させていくのだ。


 わずか三十秒。

 そこには、王城の技術を注ぎ込んでも一日はかかるはずの、最新型の魔導時計が完璧な動作で時を刻んでいた。


「……バケモンだ」


 ガンテツが、がっくりと膝をついた。

 その瞳には、もはや侮蔑の色など欠片も残っていない。

 あるのは、自分たちが積み上げてきた技術の壁を、軽々と無視して歩む者への純粋な畏敬だった。


「俺の負けだ。認めざるを得ねえ。……小僧、いや、アレン殿。あんたの『空っぽ』は、無限が詰まった宝箱だったってわけか」


「わかればよろしいのです。これこそが、私の見込んだ世界で唯一の『師匠』の力。これでもまだ、掃き溜めの便利屋だと仰いますか?」


 リゼロッテが勝ち誇ったように俺の腕に抱きつく。

 その力は先ほどよりも強く、俺の二の腕には彼女の心臓の鼓動がダイレクトに伝わってくる。

 彼女の独占欲が、熱を持って肌を焼くようだ。


「リゼロッテ、もういいだろう。……棟梁、俺の目的は権威を示すことじゃない。ただ、あんたたちの持つ設備や素材に興味があるだけだ。この『虚無』の力を、もっと有効な形に応用したいんだよ」


 俺の言葉に、ガンテツは顔を上げ、ニヤリと豪快な笑みを浮かべた。


「いいぜ。この工房にあるもんは、全部あんたの好きに使ってくれ。その代わり、あんたのそのイカれた技術、俺にも間近で見せてくれよ。……おい、野郎ども! 手を止めんな! 今日からここには、神様も真っ青の賢者が居座ることになったぞ!」


 工房内に、歓喜に近い怒号が響き渡る。

 職人たちの熱気に包まれ、俺はようやく自分の居場所を見つけたような、奇妙な高揚感を感じていた。

 前世の知識と、今世の異端。その融合が、この世界の常識を塗り替えていく感覚。悪くない。


 だが、そんな良好な空気は、一人の男の乱入によって瞬時に氷結した。


「――騒々しいな。卑しい平民とドワーフが、王城の聖域で何を騒いでいる」


 背後から響いたのは、傲慢さを隠そうともしない、冷徹な声だった。

 振り返れば、そこには白銀の甲冑を纏い、腰に長剣を携えた男が立っている。

 整った顔立ちには、選民思想という名の歪んだプライドが張り付いていた。


 エリート騎士団「聖陽騎士団」の副団長、ゼグス。

 俺の運命を再び狂わせる、一つ目の障害が姿を現した。


「……リゼロッテ様。貴女ほどの御方が、なぜこのようなドブネズミと睦み合っておられるのですか? その紋章……ふん、無色の欠陥品ではありませんか。不潔だ。今すぐ、私の手で排除して差し上げましょう」


 ゼグスが剣の柄に手をかける。

 その瞬間、工房の温度がマイナス数十度まで一気に急降下した。


「……ゼグス。貴方、今すぐ死にたいのですか?」


 リゼロッテの瞳から光が消え、完全な「殺意」の色に染まる。

 俺の平和な研究生活は、どうやら一日目にして幕を閉じたらしい。

 俺は溜息をつきながら、自身の左胸に宿る『虚無』の感覚を確かめた。



――あとがき

カクヨムコンテスト11にエントリーしております。

フォロー、期待を込めての★★★評価を是非お願いします。


今日は5話まで投稿します!

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