第1話:『第一印象が最悪な奴ほど、あとあと腐れ縁になったりするから困る』

「……んぅ……」


どこからともなく聞こえる、水滴の落ちる音。鼻を突く生ゴミの腐臭。背中の痛み。


俺は重い瞼をこすりながら、手探りで「抱き枕」を探した。あった。細くて、硬い。高級な布の感触がする。俺はその「枕」にしがみつき、あろうことか顔をうずめてスリスリした。


「……んー、すべすべ……いい匂い……」


「……貴様。いつまで余の足を汚物で濡らすつもりだ」


「……」


枕が喋った。しかも、さっき聞いたばかりのド低音で。 俺は恐る恐る目を開けた。


目の前にあったのは、一点の曇りもない高級革靴と、ピシッとプレスされた黒のスラックス。視線をゆっくり上げていくと――ゴミ山の上に優雅に仁王立ちし、路傍の石ころを見るような冷徹な眼差しで俺を見下ろす、男がいた。


30代後半ほどの、渋いイケメン。漆黒の高級スーツを着こなし、オールバックに撫で付けた黒髪は、一筋の乱れもない。鼻筋には知的な銀縁眼鏡がかかり、その奥の瞳は、感情の一切読めない氷のような冷たさを湛えていた。


「……」


「……」


「ぎゃああああああああ!!」


俺は悲鳴と共に、反射的にのけ反った。


「ザ、ザガン!?なんでアンタが……いや、そうだ! 俺、アンタに連れてこられたんだ!」


「目が覚めたか、トースター男。……チッ、貴様のヨダレでスラックスにシミができたではないか」


ザガンは神経質そうに指先でスーツを払った。周りはヘドロと生ゴミの山なのに、こいつだけ汚れ一つなく、まるで映画のスクリーンの向こう側から出てきたように浮いている。


「で、ここが……その『タルタロス』って場所か?」


俺は立ち上がり、周囲を見渡した。見渡す限りのゴミ、ゴミ、ゴミ。上を見上げれば、遥か彼方に岩盤の天井が見える。どうやら本当に地下世界らしい。


「そうだ。地獄の底よりまだ深い、階層都市『タルタロス』の最下層だ」


ザガンは眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、淡々と言った。


「あのまま天界にいれば、貴様はエクスフォルト……あの癇癪持ちの神に消されていたからな。感謝するがよい」


「感謝って……いきなりゴミ捨て場かよ!俺の不労所得ライフはどうなったんだよ!」


「騒ぐな。命があるだけマシだろう」


「……いや、待てよ」


俺はふと、冷静になった。


「別にここに住まなくてもよくね?こっそり地上に戻って、別の国とかで暮らせば……」


「ほう?」


「神様っつっても、世界中監視できるわけじゃないだろ?ほとぼりが冷めるまで隠れてれば……」


俺が甘い期待を口にすると、ザガンは「ハッ」と鼻で笑い、その希望を無慈悲に踏み砕いた。


「甘いな。貴様が殴ったあのエクスフォルトだが、奴は根に持つタイプでな。間違いなく、貴様の魂に『神罰指定』を発令しているはずだ」


「しん……ばつ……?」


「うむ。地上にいる限り、天使や聖騎士といった神の猟犬たちが、貴様を永遠に追い回す。捕まれば……永遠に続く説教と拷問のフルコースだ」


(説教と拷問!?冗談じゃねえぞ!死ぬよりキツイ!)


俺は顔面蒼白になった。 前世のバイト先の店長の説教ですら胃に穴が開きそうだったのに、それが天使による「神聖な説教(物理)」ときた。しかも永遠。地獄だ。いや、地獄の方がまだマシかもしれない。


「つ、つまり……俺はもう、地上では生きられないってことか?」


「左様。貴様に残された道は一つ。神の目が届かぬこの場所で、ドブネズミのように這いつくばって生きることだ」


「……ちくしょう!詰んでるじゃねえか!」


俺は虚空に向かって中指を立てた。トースターと心中し、神を殴り、行き着く先は地下スラム。俺の異世界転生、ハードモードすぎないか?


「どうだ人間。素晴らしい新居だろう?」


ザガンが呆れたように、周囲のゴミ山を指差した。


「あの遥か頭上『上層』には人工太陽があるが……まあ、貴様のようなゴミが流れ着くこの『最下層』からは、一生拝めんだろうよ」


(……マジかよ。スタート地点が社会の最底辺ってことかよ)


俺は舌打ちしながら、この地区で一番大きな建物――『地下都市労働組合ギルド』の扉を開けた。ザガンも、付き人のように俺の後ろをついてくる。


◇◇◇


まずは職だ。金がなけりゃパンも買えねえ。俺は一番列の短いカウンターに並んだ。担当は、気怠そうなエルフの受付嬢だった。


「はい、次の方。ご用件は」


「仕事を探しに。登録からお願いしたいんだが」


「…種族は?」



「人間、ですけど」



その瞬間、受付嬢の顔から全ての感情が消え、今世紀で一番深くて長いため息が響き渡った。


「…はぁああ。……では、基本的な適性について質問します。まず、夜目は効きますか?」


「いや、人並みに」


「種族固有の暗視能力は?」


「ねえよ!」



その時、突然、脳みそを直接揺さぶるような声が響いた。


『ククク…何もできないではないか。雑魚ゴブリン以下だな』



「……は!?」


俺は思わず、その場に固まって周囲を見渡した。だが、誰も俺を見ていない。受付嬢も「何だコイツ」という顔をしているだけだ。


『キョロキョロするな。不審者扱いされるぞ』


再び頭の中に響く声。俺はギルドの隅、柱の陰に立つ男を睨みつけた。 ザガンは腕を組み、口元に微かな嘲笑を浮かべているが、その唇は動いていない。


(……テレパシーかよ!便利だな悪魔!)



『フン、いちいち口に出して会話するなど面倒だからな。感謝しろ』


(プライバシーの侵害だろ!)


「……あの、大丈夫ですか?」


「あ、いえ! 続けてください!」


俺は頭の中でゲラゲラ笑う悪魔の声を必死に無視し、質問に答え続けた。


しかし、次々と繰り出される質問が、こちらのスペックの低さを嫌というほど突きつけてくる。全ての項目に「なし」と書き込んだ受付嬢は、哀れむような目で俺を見た。


「そうなりますと、ご紹介できるお仕事はこれ一件のみですね」


『急募:東3番地区・集積水路のヘドロ除去作業員。日給、銅貨3枚』


「……銅貨3枚?」


「はい。黒パンが3つ買えます」


『今の貴様の価値など、そんなものだということだ』


(悪魔に言われなくても分かってるわ!)


俺の「楽して稼ぎたい」というクズ魂が、激しく拒否反応を示した。


「ふざけんな!もっといい仕事はないのかよ!上層の仕事とか!」


「上層?ああ、あることはありますよ」


受付嬢は、俺を見て鼻で笑った。


「貴族の邸宅で働く奴隷とか、人体実験の被検体とかなら、すぐに紹介できますけど?」


「……」


俺は一瞬、言葉を失った。


「その『天井区』は、あなたのようなスラムのゴミが、まともに働ける場所じゃありません。潔く諦めてドブをさらうことです」


シッシッ、と犬を追い払うようなジェスチャー。


「っ……保留だ!もっとこう、割のいい仕事を見つけてくる!」


「はぁ。まあ、野垂れ死にしないように頑張ってください(棒読み)」


俺はギルドを飛び出した。真っ当な仕事がないなら、裏の仕事を探すまでだ。俺は吸い寄せられるように、裏通りの安酒場『無音』へと足を踏み入れた。


◇◇◇


店に入ると、異様な光景が広がっていた。店名の『無音』を体現するかのように、店内は静まり返っている。だが、その一角だけ、空気がピリピリと震えていた。


岩のようなドワーフの無口なマスターが、あるテーブルの前で仁王立ちしている。その額には青筋が浮かび、手には肉切り包丁が握られていた。その殺気の先には、テーブルで突っ伏して眠る、銀髪の美女。


『ほう。奴のような者がいるとは。元は「死者の国」の女王……リッチ不死者の類だな。たしか名は…リリス・ゴールドマンといったな。』


(元女王……?なんでそんな奴が?)


ザガンの解説を聞いて、俺はマスターが包丁を振り下ろせずにいる「理由」を瞬時に理解した。


(なるほど……。こいつ、アンデッドか)


今のところは無臭だが、腐った死体アンデットの体液の匂いなどわかったもんじゃない。この狭い店内で、それを包丁でバラしてみろ。


体液が飛び散り、悪臭が染み付き、店は営業停止だ。ツケの回収どころの話じゃない。マスターはそれが分かっているから、怒り心頭なのに「殺すに殺せない」状態なんだ。


(……この状況、入り込める隙があるぞ。恩を売っておけば、こいつを『無限労働力』として使えるかもしれん)



俺はニヤリと笑い、マスターの殺気の中へと割って入った。


「やめときな、親父さん。そいつをここでバラしたら、店中が『死体の汁』まみれになるぜ?」


マスターが、ギロリと俺を睨む。俺は怯まず、テーブルのリリスを「汚物」のように指差した。


「そいつはアンデッドだ。斬れば店は終わりだ。……親父さんも、それが分かってるから困ってるんだろ?」


図星だったのか、マスターの眉がピクリと動く。俺は畳み掛けるように提案した。


「俺が、その『産業廃棄物』を外に運び出してやるよ」


俺は自分の親指で出口を差した。


「俺は汚い仕事は慣れてる。俺がこいつを店外へ引きずり出して、身包み剥いで、隠し金を持ってないか調べてきてやる」



そして、声を潜めてマスターにメリットを提示する。


「もし金が出てくりゃ、アンタに持ってくる。……もし金がなくても、アンタの店からは『厄介なゴミ』が消えて清々する。どっちに転んでも、アンタに損はねえだろ?」


マスターは腕組みをし、俺をじっと値踏みした。『小僧に持ち逃げされるリスク』と、『店内でアンデッドを解体するリスク』を天秤にかけているのだ。どう考えても、後者の方が店にとって致命的だ。


数秒の沈黙の後。マスターは、フン、と鼻を鳴らし、包丁を引いた。そして顎で出口をしゃくり、「二度と敷居を跨がせるな」というジェスチャーをした。


(……商談成立!)


俺はリリスの襟首を掴んで引きずり起こした。


「ほら行くぞ、粗大ゴミ!廃棄処分だ!」



そのままズルズルと店外へ連れ出す。路地裏まで来たところで、俺はリリスを放り出した。


「……あいたっ」


リリスがゆっくりと顔を上げる。その瞳には、ゾッとするほど美しい、怜悧な青い光が灯っていた。


「……誰だ、小僧。私に酒を奢ってくれるのか?」


「奢るかよ。俺は『ゴミ処理』を請け負っただけだ」


俺はリリスを見下ろし、冷徹に告げた。


「あのまま店にいたら、アンタは店主に殺されるか、俺に身包み剥がれるかだった。……だが、俺は気が変わった」


こいつの服を探ったところで、金なんて出てこないのは分かってる。ならば、別の利用価値を見出すしかない。


「おい、元女王。アンタ、頭は回るか?魔法は使えるか?」


「愚問だな。私はあらゆる知識を修めた天才だ」


「なら、その頭を使って金を作れ。俺と組んでな」


俺は、先ほどのマスターへの約束(金を回収する)を果たすためにも、そして自分の懐を温めるためにも、こいつを利用することに決めた。


「手っ取り早いシノギがある。……インプだ」


「ほう?」


リリスは俺の提案に興味深そうに答えた。そこから、クズ二人プラス悪魔の悪だくみが始まったのだった。



──────────────────────────────────────第一話をお読みいただきありがとうございます。


元・死霊の女王を「産業廃棄物」と呼んで回収する主人公。チート能力はありませんが、こういう「口先と度胸」だけで渡り歩くのが彼のスタイルです。


「このクズっぷりがいい!」と思っていただけたら、 ぜひブックマークや★評価で応援していただけると、執筆のモチベーションが爆上がりします!


次回予告: 「手っ取り早いシノギ」の正体は、街中を巻き込む大迷惑なテロでした

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