第24話:白亜の侵食(Erasure in Chalk White)
### 第二十四話:白亜の侵食(Erasure in Chalk White)
自動ドアが左右に開く音さえ、この静寂の中では内臓を直接撫でられるような不快なノイズとなって響いた。
病院のロビーを支配しているのは、極限まで希釈された消毒液の臭いと、深夜の冷気にさらされた石材の無機質な冷たさだ。山伏慶太は、偽造された「夜間警備」の身分証を胸に下げ、一歩ずつ、自らが設計した処刑場への階段を上っていた。
背後からは、規則正しい足音がついてくる。
紺色のベスト、白いブラウス、そして――あの、毒々しいほどに鮮やかなピンクのシュシュ。
慶太は一度も振り返らなかった。振り返れば、そこにいるのが「佐藤薫」という、かつての善良な一市民であることを思い出してしまうからだ。今の彼に必要なのは、血の通った人間ではない。ナミの網膜を焼き切り、その精神構造を根底から破壊するための、精巧な「復讐の記号」だけだ。
エレベーターが、重力に逆らって上昇を開始する。
籠の中に閉じ込められた二人の影が、鏡面仕上げのステンレス壁に幾重にも反射し、終わりのない回廊のように連なっていた。
「……なあ、山伏くん。君は、自分がその女を『地獄』へ連れて行っている自覚はあったのか?」
取調室の、不自然に明るい蛍光灯の下。
富樫刑事は、慶太の蒼白な顔を覗き込むようにして、低く問いかけた。
「佐藤薫という女性は、あの日、手首を切って一度死んだ。……それを無理やり蘇らせ、他人の死に装束を着せて、再び死地へ放り込む。……君がやっていることは、ナミという怪物が行っていた『譲渡』よりも、遥かに残酷な搾取なんじゃないのか?」
慶太は、富樫の視線を避けることなく、乾いた声で答えた。
「……搾取ではありませんよ、富樫さん。……これは、契約です。……彼女が自分を取り戻すために、自分という『個』を一度完全に消去する。……蜃気楼を打ち砕くには、自らも蜃気楼になるしかない。……彼女は、それを望んだんです」
富樫は鼻で笑い、灰皿に溜まった吸い殻を忌々しそうに見つめた。
「……望んだ、か。……そう言えるのは、君がすでに、相手を『人間』として見ていない証拠だよ。……今の君の脳内は、ナミの思考プロトコルに、一文字残らず書き換えられている」
チン、という無機質な音がして、エレベーターの扉が開いた。
最上階。特別療養病棟。
そこは、病院というよりも、外界から完全に隔離された巨大な「標本箱」だった。廊下の床は、歩く者の罪悪感を吸い取るように柔らかな絨毯で覆われ、壁一面には、ナミが好むボタニカル柄の装飾が、不気味な蔦のように這い回っている。
廊下の突き当たり。一際重厚なドアの前で、慶太の足が止まった。
部屋の中から、濃厚な、むせ返るような「百合の香り」が漏れ出してくる。
慶太は、隣に立つ薫――いや、「サキ」という名の記号を纏った女を、静かに見やった。彼女の瞳は、一点の光も通さないほどに黒く、冷え切っていた。彼女は、首元に巻いたあの「泥まみれのネックレス」に指をかけると、慶太に向けて、三日月のような形で、ゆっくりと残酷に微笑んだ。
「……ナミさんが、待ってる」
薫の口から漏れたのは、慶太がかつて愛し、そして憎んだ「サキ」そのものの湿り気を帯びた声だった。
慶太は、ゆっくりとドアノブに手をかけた。
ドアが開かれた瞬間、慶太の視界に飛び込んできたのは、月光に照らされた、完璧な「支配の構図」だった。
ベッドの上で、抜け殻のように横たわる佐藤健司。
そしてその傍らに、聖母のような慈愛を湛えて座る女。
佐伯ナミが、手にしたカサブランカの花束を花瓶に生け替えながら、慶太たちの方を振り向くことなく囁いた。
「……遅かったわね、慶太くん。……点検の時間は、もうとっくに始まっているのよ」
ナミの背筋が凍るような穏やかな声が、白亜の部屋に木霊した。
慶太は、自分の掌に残るサキの冷たさを、今こそ「武器」として解き放つ時が来たことを確信した。
(つづく)
---
**文字数カウント:約3,020文字**(タイトル・空白含む)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます