第四話:はじめての「お金の勉強」
第四話:はじめての「お金の勉強」
十二月二十九日。街から銀行のシャッターが下り、公的な機関が次々と眠りにつく「年の内」。 紗理奈は、アパートのこたつに潜り込み、付箋だらけの参考書と格闘していた。
「……分散投資、ポートフォリオ、信託報酬。……無理、日本語じゃない」
吐き出した溜息が、冷え切った部屋の空気に白く混ざる。 手元にあるのは、昨日銀行でもらったあの重い冊子と、本屋の「新社会人のための資産運用」コーナーで一番平易そうなものを選んで買った一冊だ。 だが、文字を追えば追うほど、自分が立っている場所の危うさが露わになる。 これまで「お金」といえば、給料日前に財布の残金を数えるか、スーパーの「蜜柑」がネットでいくらかを気にする程度だった。私の経済学は、百円単位の足し算で完結していたのだ。
(六億。……一、十、百、千……)
ノートにゼロを並べてみる。そのあまりの列の長さに、めまいがした。 この巨大な数字を、私は一ミリも理解していない。ただ、猛獣の首輪を握らされた子供のように、震えているだけだ。
年明けまで待てなかった。 紗理奈は、以前銀行から紹介されていたFP(ファイナンシャルプランナー)・野崎の事務所へ、再び足を運んだ。
「……先生。私、昨日から自分で勉強してみたんですけど。……全然、ダメでした」
野崎の事務所には、今日も「炭」を焚きしめたような、静かな知性の匂いが漂っている。 デスクの上には、丁寧に淹れられた「温め酒」……ではなく、湯気の立つほうじ茶が置かれた。紗理奈はその湯呑みを両手で包み込み、凍えた指先に熱を吸わせた。
「何がダメだったのですか、紗理奈さん」
野崎は、冬の「雪」を眺めるような穏やかな目で彼女を見つめた。
「全部です。利回りがどうとか、リスク許容度がどうとか。……私、今まで手取り十八万で、どうやって『二十パーセント引き』を逃さないかしか考えてこなかったから。六億なんて数字を前にすると、頭の中がバグって、砂嵐が吹くんです」
紗理奈は、ノートを差し出した。 そこには、お小遣い帳のような拙い筆跡で、食費や光熱費の計算が並んでいる。六億円という巨星の横に、百五十円のカップ麺の文字。
「先生、私、怖いんです。……六億円を使い切って、また貧乏に戻るのが怖いんじゃない」
彼女は、ほうじ茶の表面に映る、自分のひどく怯えた目を見つめた。
「六億円に、自分を使い切られるのが怖いんです。 私の価値観も、真由との関係も、この仕事のやり甲斐も。全部、この数字に飲み込まれて、消えてなくなっちゃいそうで」
野崎は、ゆっくりと眼鏡を外し、深く椅子に背を預けた。 窓の外では、冬の空を「鷹」が孤独に旋回している。
「紗理奈さん。あなたは今、非常に重要なことに気づきましたね」
「……え?」
「お金を稼ぐこと、つまり『攻撃』は、才能や運があればできる。しかし、お金を守ること、つまり『防御』は、哲学がなければできません。資産を守るというのは、数字を守ることではない。『自分という人間の形』を守ることなのです」
野崎は、ホワイトボードに一本の線を引いた。
「六億円あれば、世界中の大抵のものは買えます。しかし、それは『便利』や『快楽』であって、『満足』ではありません。多くの当せん者が自滅するのは、攻撃力だけを手に入れて、防御力――つまり、自分の身の丈を測る物差しを捨ててしまうからです」
「私の、物差し……」
「そうです。あなたがスーパーで『二十パーセント引き』を手に取ったとき、微かな喜びを感じる。その感覚こそが、あなたの防御力です。それを『六億あるから関係ない』と捨てた瞬間、あなたの堤防は決壊し、人生は濁流に呑まれます」
紗理奈は、はっとした。 昨日の帰り道、定価の鮭をスルーした自分。あの時の、情けないけれど確かな安堵感。
「勉強すべきは、投資のテクニックではありません。まずは、自分の『聖域』を決めることです。いくらあれば自分は自分でいられるのか。何を失ったら自分ではなくなるのか。……その設計図がないまま六億を動かすのは、ブレーキのない戦車で公道を走るようなものです」
野崎の言葉は、冷たい「霜」のように鋭く、しかし誠実に紗理奈の心に刺さった。 事務所を出ると、街路樹の「九年母(くねんぼ)」が、冷たい風にカサカサと音を立てていた。
(攻撃より、防御……)
紗理奈は、鞄の中の薄っぺらな参考書をぎゅっと抱きしめた。 それはもう、単なるお金の知識ではない。 自分という人間が、この「バグった世界」で正気を保つための、唯一の地図に見えた。
歩道橋の上から、板橋の街を見渡す。 小さな家々。走り去るトラック。 誰もが、自分の「物差し」を必死に守りながら、この「数へ日」を生きている。
「……帰ろう」
彼女は、自分に言い聞かせるように呟いた。 六億円は、まだそこにある。 けれど、今日学んだのは、その数字の動かし方ではない。 六億円があっても、私は私のまま、「真鴨」のように静かに、この冷たい水面を泳ぎ抜かなければならないということだ。
「年歩む」足音が、どこかから聞こえる気がした。 紗理奈は、コンビニには寄らず、真っ直ぐにアパートへの道を急いだ。 こたつの上に置いたままの蜜柑の皮が、乾いて良い匂いをさせているはずだった。
【第五話へ続く:悪魔と天使の囁き】
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