額縁の中の手

朝、居間の時計は七時を指していた。

秒針だけが動いている。

分針は昨日から同じ位置にある。


朝食の前に、壁を見る。

額縁が一つ、少し傾いている。

直した記憶はない。


額縁の中は、風景画だったはずだ。

川と橋と、低い山。

今日は、奥行きがあるように見える。


私は近づき、立ち止まる。

床の板が一枚だけ沈む。

沈んだまま戻らない。


私は恐る恐る、額縁の内側に手を入れてみた。

空気は驚くほど冷たく、指先がピリピリとする。

絵の表面には触れない。


さらに奥へ手を伸ばす。

額縁の奥は暗い。

奥行きは測れない。


指先が何かに触れる。

硬くて滑らか。

生き物の肌のような温かさがある。


私は手を止める。

握らない。

離さない。


「触ってはいけないと言っただろう」

背後で声がした。


私は振り向けない。


声の主は近づかない。

距離は変わらない。

名前は呼ばれない。


私は手をゆっくり引き抜いた。

冷たさはすぐに消える。

指先に跡は残らない。

後ろを振り向いても、何もいなかった。


額縁を見る。

風景は元に戻っている。

奥行きは見えない。


時計を見る。

分針が一つ進んでいる。

理由は確かめない。


壁から離れる。

額縁は傾いたまま。

直す順番は、今日は来ない。

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