影を踏まない日々〜フォークホラー短編集
zakuro
影を踏まない日々
夕方の庭は、昼の名残りみたいな明るさが残っていた。
洗濯物はもう取り込まれていて、物干し竿だけが空に突き出ている。
風はない。草も鳴らない。
「ねえ、何が出てくるの?」
私が兄さんのそばに行こうとしたとき、縁側から声が飛んできた。
おじいちゃんだった。
湯のみを持ったまま、動かない。
「影を踏むな。今は影が伸びるのを待っているんだから」
兄さんは足を止めた。
私も止まった。
足元に、自分の影が落ちている。
昼より細く、長い。
庭の真ん中には、何もない。
昔は井戸があったらしいけど、今は埋められている。
土の色が少し違うだけだ。
兄さんは縁側の端に立ったまま、空を見ている。
私は兄さんの背中を見る。
背中の影が、地面に貼りついている。
「まだ?」
私が聞くと、兄さんは首を振る。
振り方は小さい。
家の中から、母の食器を置く音がする。
カチャ、という音。
それだけ。
影は、少しずつ動く。
気づかないくらいの速さ。
でも、確かに伸びている。
庭の外、道の向こうに赤い三角コーンが立っている。
昨日はなかった。
誰が置いたのかは分からない。
「出てきたら、どうするの?」
私は兄さんに聞く。
兄さんは、少し考える。
考えている時間だけ、影が伸びる。
「出てきたら、戻る」
それだけ言った。
縁側のおじいちゃんは、まだ湯のみを持っている。
中身は減っていない。
湯気も出ていない。
影の先が、埋められた場所に触れる。
触れたところで、影が少し濃くなる。
土は動かない。
音がした。
地面からじゃない。
空からでもない。
ちょうど、その間。
私は兄さんを見る。
兄さんは、影から目を離さない。
「踏むなよ」
おじいちゃんがもう一度言う。
声はさっきより低い。
理由は続かない。
影の中で、何かがずれる。
ずれるけど、形は分からない。
影は影のままだ。
私の影も伸びている。
兄さんの影に近づく。
少しだけ、重なる。
兄さんは一歩下がる。
私は残る。
影だけが、先に行く。
そのとき、母が障子を開ける。
夕飯の時間だと言う。
普通の声。
兄さんは振り返る。
影が離れる。
濃さが元に戻る。
「今日はやめだ」
兄さんが言う。
誰に向けた言葉かは分からない。
私たちは縁側に戻る。
影を踏まないように。
踏まない理由は、考えない。
庭の真ん中は、また何もない場所になる。
土の色も、同じになる。
夜、布団に入ってから、足の裏を見る。
何もついていない。
汚れもない。
外で、コーンが倒れる音がした。
起き上がる音はしない。
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