風呼びのフルテ

小林一咲

第1話

 これは四半世紀ばかりも前のことである。


 私が十五になる春の或る日、父はまるで今しがた思い立ったかのように、ふと「ヨーロッパへ行こう」と言い出した。別にこれという理由も見当たらぬ様子で、私も母も多少引き止めてみたが、父は耳を貸さず、「手続きがあるから」とばかりに、すぐさま家を出てしまった。昔から世話の焼けない、どこか将軍めいた気質の父ではあったが、この時の唐突さには、ただ呆然とするほかなかった。


 それから日を定め、我が家は夏の終わりを期してヨーロッパへ立つことになった。初めのうちは、どうにも気乗りせぬ思いであった。母は北国育ちゆえ、「あちらは幾分涼しいでしょうに」と、だいぶ前向きな気持を口にしていたが、私の胸中は依然として重く澱んでいた。


 やがてその日が来て、私たち三人は空を渡った。飛行機に乗り込んだばかりは、映画だの何だのと騒ぎ立てていたが、父も数時間も経つと静かになった。母は葡萄酒を前にしてしばらく面白がっていたものの、それも束の間、たちまち気分が悪くなったとて、厠にこもってしまった。私は別に為すこともなく、ただじっと時が過ぎるのを待つばかりであった。


 何時間か経って、機内アナウンスが流れた。もう間もなく着くという。するとそれまで何事もなかったかのように、一同急に興奮し始めた。先に両親が降り、私はそのあとにつづいた。ひとまずホテルへ向かい、受付を済ませる。普段は無口な父でさえ、まるで幼い子どものように浮き立っていた。


 私と父とは、どうにも肌が合わぬ間柄であった。だから向こうでの会話の大半は、大学時代に留学の経験もある母に任せきりにしていた。本格的な見物は翌日に譲り、この日はホテルの周囲を歩くだけにとどめた。


 それにしても、不思議なもので、異国の空気は私の憂鬱をいくらかずつ溶かしていくようであった。初めての海外という事実に、心はかなり高ぶっていた。

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