第2話

 以前、彼が今日みたいに「オムレツが食べたい」と言ったことがあった。朝は忙しいし、手の込んだものを作る暇はない。だから、


「簡単にできるから、かず君もやってみようよ。卵料理なら、包丁を使わなくてもできるし」


 と、軽い調子で言ったのだ。彼は、料理ができなかった。「包丁が怖い」というのが、その理由だった。まあ、別に自炊でなければいけないということはない。スーパーの惣菜だって十分美味しいし、物価が高騰している今、自炊が節約になるということもないだろう。


 けれど、習得して損になるスキルはないし。卵を割って、調味料と混ぜて焼くだけなら包丁も使わないし、自分で作れるだろうし、自分の食べたいものは自分で作ればいい。そう思ったのだけど。


「何で俺がそんなことしないといけないの? 俺、忙しいし、時間ないんだよ? そういうのは、朱里ちゃんの仕事だよね?」


 ものすごく不機嫌そうな顔をされた。

 わたしの心は、恐怖に凍った。こんなことを言う人だっただろうか。目の前の彼が、知らない人のように見えた。


「……ごめんなさい」


 すると一樹は、私の肩に手を回し、頬を寄せる。


「俺は料理できないから、朱里ちゃんの美味しい手料理が食べたいだけなんだよ。ね?」

「……うん。そうだよね」


 一樹が求めるわたしは、彼に意見したりしない。


 わたしは卵をイメージする。その中に、自分の気持ちを押し込める。こんな気持ちを抱くわたしが間違っているのだ。だから、卵の中にしまって、生まれる前の混沌に戻してしまおう。




 仕事を終えて、帰りの電車に乗る。少し残業してしまったけれど、一樹の帰る時間よりは早いはずだ。晩ご飯は何にしよう、冷蔵庫には何が残っていたっけ。考えながらぼんやりスマホをいじっていると、あっという間に家の最寄り駅に着いてしまった。


 近くのスーパーの自動ドアをくぐり、買い物かごを手に取る。食パンと牛乳と、白菜が安いから、今日は鍋でいいかな。


 そう思って白菜を手に取ると、「また鍋?」と頭の中で彼が言った。このところ鍋ばかり作っていた気がする。一から出汁を取ったりはしない。鍋スープの素を使う。味のバリエーションも色々あるから、便利だ。それを溶かして、肉と野菜を放り込むだけだから、他の料理より楽なのだ。野菜もたくさん食べられるし。


 でも、「また?」と言われるだろうか。だけど、疲れた。そうだ、卵もそろそろなくなるから、買わないと。卵のパックもかごに入れて、レジに向かった。

 バッグも買ったものも重い。早く帰りたい。


 ――いや、帰りたくない。


 そう思った途端、足が止まった。傍らの電柱にうっかりエコバッグをぶつけてしまい、ぐしゃりとくぐもった音がした。

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