Ep4.苛烈な男


翌朝。杏華はたったひとり、広い会議室にいた。


朝の会議室はまだ少し冷えていて、カーテンの隙間から差す光が真っ直ぐにテーブルの中央を照らしている。

誰もいない空間で、杏華は朝一の会議の準備に取り掛かっていた。


月に一度、部長と全課の課長、チーフ、そしてアシスタントチーフが集う会議がある。

その準備は回ごとにローテーションで割り振られるが、今日は二課がその担当に当たっていた。


“二課が”とはいっても、実際に手を動かすのはたいていアシスタントチーフだ。

しかしひとりでも特段大変な作業ではない。


会議資料をひとり一部ずつ渡るようテーブルにセットし、ホワイトボードにその日のアジェンダを書く——


杏華は、この静かな準備の時間が好きだった。

雑念をすべて切り離してただ淡々と手を動かせるこの数分が、妙に落ち着くのだ。


「よし」


ホワイトボードに議題を書き終え、カチッとマーカーのキャップをはめる。

それを両手で握ったままくるりと振り返ると、ちょうど開いたドアの影から大きなシルエットが現れた。


——清水だ。


「おはよう」


軽くネクタイを整えながら、片方の手には資料の束を持っている。


今朝、杏華が出社した時には清水の姿はなかった。

ノートパソコンは開きっぱなしで出社している形跡はあるのに、朝礼にも姿を見せなかったので、顔を合わせるのは今が初めてだ。


杏華が小さく会釈すると、清水は変わらぬ静かな表情のまま歩み寄り、


「追加資料が出た」


そう言って、持っていた資料を掲げるようにして杏華へと見せた。


「では、それを含めて留め直せばよろしいですか?」


「ああ。俺も手伝う」


杏華がテーブルに置いていたホッチキスへ手を伸ばすと、それを奪うように清水の手が伸びてきた。

杏華は反射的に手を引き、首を横に振る。


「あ、いえ。チーフはお忙しいと思いますので、こういうことは私が」


「時間もあまりない。一緒にした方が効率がいい」


清水は一切引くつもりはない様子で、すでにテーブルにセットしていた資料を素早く回収し始める。


そのきびきびとした動きに、杏華は内心で口をへの字に曲げたが、会議開始まで残り時間がほとんどないのは事実だ。


仕方なく、清水が回収した資料の束を手に取る。

杏華がホッチキスの針を外し、清水が挟み直して留める——役割分担は自然に決まっていった。


紙の擦れる音と、ホッチキスが打たれる乾いた音だけが続く中、わずかな気まずさが空気に混じり始めたその時。


「…ところで、さっき“チーフ”と言ったか?」


不意に落ちたその声に、杏華は一瞬だけ手を止めた。


言ったっけ?と自問しつつも、彼がチーフであること自体は正しいので、疑問をそのまま返す。


「…チーフ、ですよね?」


質問の意図が分からず、少しだけ首を傾げながらそう答えた。


清水はそれにふっと鼻で笑い、手を動かしながら言った。


「名前を呼ぶのも煩わしくなったのか。昨日の飲み会でも、俺を露骨に避けていたな」


——避けたつもりはない。

清水の周りは、彼に擦り寄る女性社員たちで常に占領されていた。

そもそも杏華に、あの輪へ自ら飛び込む気などさらさらなかったし、たとえ席が空いていたとしても進んで座るはずがない。

ああいう場では気心知れた相手としか一緒になりたくない。


というか——。


「来なくていい、って仰ったのはそちらですよね?」


思わず手を止めて清水を見ると、彼は相変わらず淡々と資料を挟み込みながら、視線を紙に落としたまま答える。


「あれは空気を読んだんだ。あの場で俺と対面したところで、君は萎縮するだけだっただろう」


清水の言葉は図星だった。

——なんだ、ちゃんとわかってるじゃない。

そう胸の中でだけ呟いたが、上司に向かってそれを肯定するわけにもいかず、杏華は曖昧に笑って誤魔化した。


だが清水は話を終えるつもりがないらしい。


「だからといって、結局一言もなかったのは、つれないな」


まだ続けるのか——杏華はわずかに眉を寄せる。


「店を出た時くらい、何か一言あっても良かっただろう」


“つれない”と言われた時は、上司への礼儀についての話だと思っていた。


——だが、どうやら違ったらしい。


「それなのに君は。一課のアシスタントチーフの広瀬といったか…あの男と二人きりで抜けて行ったな」


“広瀬”の名が出た瞬間、これは仕事でも礼儀の話でもなく、別の温度だと悟る。

声に宿る棘が、ひどくわかりやすい。


「彼とはどういう関係なんだ?」


そのまっすぐな問いに、杏華は胸の奥がヒヤリと冷たくなるのを感じた。


拓海とどういう関係か——。


数少ない同期で、同じ年にアシスタントチーフに任命されて、今日まで共に切磋琢磨してきた。

昼休憩は一緒に過ごすし、サシで飲みに行くのも自然で。


——そして、身体を重ねる関係。


そんな関係になって二ヶ月ほどになる。

恋人ではない。


けれど周囲からは“付き合っている”と噂されているのも知っている。

聞かれれば否定はするが、噂が独り歩きして、二人の関係に勝手な名前をつけている人も多いだろう。


拓海は社内でいつも羨望の眼差しを向けられているのに、ああいう大勢の飲みの席で清水のように囲まれないのは——杏華がいつもそばにいるからだ、と自分でも分かっている。


拓海本人もそれをまったく気にしていない。

むしろ以前、「杏華といる方が楽だし、気を遣わなくていい」と笑って言われたことすらある。


杏華も、それは同じ気持ちだった。


それでもお互いに恋愛感情はない。

ただ、そういう気分の時に一緒に夜を過ごすだけの関係——


——そんなこと、


(言えるわけないでしょ…)


「ただの同期で、飲み仲間です」


簡単な言葉のはずなのに、口を開くまでに妙な間が空いてしまった。


「ふうん。飲み会の間もべったりだったから、付き合っているのかと思ったが」


——違うのか。と、最後は独り言のように零される。


“べったり” の言い方に、杏華は眉根を寄せた。

ただ同じ席にいただけだし、ベタベタするようなことなど何ひとつしていない。

それをそんなふうに言われるのは、まるでずっと見張られていたようでぞわりとする。


(……拓海の言う「見てた」って、まさか本当だったの?)


そう思った瞬間、背筋がひやりとした。

そもそも、どうしてこんな私生活に踏み込む質問をされなきゃならないのか。


(ああ、あれか。他の女性はみんな寄っていくのに、私だけ距離を取ってるから気に入らないとか、その類い?)


なんて傲慢で、面倒な人。

苛立ちと居心地の悪さが胸の奥で膨らみきった、その時——


「おはよーございまーす」


「おはようございます」


三課の課長とチーフが会議室へ入ってきたことで、杏華と清水の間に流れていた微妙な緊張感は、途切れるようにふっと薄れた。


そこから拓海を含め、各課のメンバーが次々と姿を見せる。

会話などしていなかったかのような雰囲気で席についた清水の隣に、杏華はどこか腑に落ちない思いで腰を下ろした。

最後に国立が上座に座った瞬間、時計の針が十時を指し、会議が始まった。


今年度初めての会議ではあるが、国立以外の全員は昨夜の飲み会に参加している。

そして杏華のように課が変わった者もいるものの、顔ぶれに大きな変化はない。

清水もすでに全員が把握しているため、新鮮さは皆無だった。


そのため、本来ならありそうな簡単な自己紹介や挨拶は省かれ、国立から今年度の訓示が述べられると、すぐに本題へ入った。


「大手アパレルのGELLATが統合プロモーションを希望していて、数社に声を掛けています。その中で、ウチにも正式に話がきました。もしこれを取れれば、年間売上の柱になりますが……」


いかがですか? と、国立が全員の顔を一巡させながら尋ねる。

この“いかがですか?”は当然、やるかやらないかではない。

どの課が受け持てるかを問うている。


国立に「受けません」という選択肢などないことは、既存メンバーなら誰でも分かっている。

だからこそ、その問いに課長たちは互いにわずかに目配せをし、揃って気まずそうな顔をした。


「……正直、うちは既存案件の撮影が連続してて、動けませんね……」

「こちらもキャンペーンが三本並行中です。新規は厳しいですね……」


一課長が遠慮がちに口火を切ると、それに続くように三課長も苦笑した。

国立は静かに二度頷くと、その視線をまだ口を開いていない鳴海へと向けた。


鳴海は少し考えるように「うーん」と目を伏せたが、


「二課も新年度の立ち上がりでキャパはギリギリです……」


渋々といった様子で断りの意を示した。


各課の意見が出揃ったところで、国立は「まぁ、そうですよね」と息を吐き、正していた姿勢を少し緩めて椅子の背にもたれた。


この会社は、国内でも中堅ながら実力のある広告代理店で、各課が独立したプロジェクトを抱え、横並びのスタイルで仕事を回している。

どの課も余裕のあるシーズンは少なく、とりわけ新年度の立ち上がりは、全員が既存案件に追われている——そんな状況が、今の沈黙の理由だった。


誰も何も言わず、重い空気が会議室に満ちていく中、杏華の隣で「スッ」と微かに息を吸う音がした。


「——それなら、二課でやります」


その声に、一斉に視線が向く。

視線の先には、清水がいた。

杏華も思わず隣を見上げ、シャープなフェイスラインを捉える。


「えーっと、清水くん……さっきの話、聞いてたよね?」


鳴海が上擦った声でそう問うが、清水は迷いひとつない表情で口を開いた。


「それなら 私と安積で 十分かと」


(……はっ?!)


杏華は一瞬、聞き間違えたのかと思った。

だが、さっきまで清水に向けられていた視線が一斉にこちらへ刺さり、現実を思い知らされる。


「……安積は……それで……大丈夫、なの?」


清水を挟んで隣にいる鳴海が、杏華の方へ顔を傾け、気遣うように覗き込んでくる。

まだ杏華に“断る余地”を残してくれている声だった。


本当に無理なら「ノー」と言える——そんな風通しの良さが、この職場には確かにある。

けれど。


そっと清水へ視線を戻すと、彼の目は、何も言わずとも告げていた。

“君にノーと言う選択肢はないだろう” と。


そのまま前方へ視線を投げれば、国立がどこか面白そうな目でこちらを見つめ、テーブルの上で指を組んだままほんのわずかに前のめりになっている。


……風通しの良い職場?

——いや、誰がこの空気の中で「無理です」なんて言えるのか。


杏華は生唾をのみ、静かに息を吸ってから、


「……はい。問題ありません」


そう答えた。


その瞬間、会議室の張り詰めていた空気がふっと緩む。

あのままでは国立が無理にでも仕事を割り振るところを、清水と杏華の一言で、一課も三課もこの企画から完全に外れられるのだ。


仕事が増えなかった安堵と、どこか他人任せな空気。

その両方が杏華の皮膚に突き刺さってくる。


「では、決定ですね」


まるで最初からこの流れを読んでいたかのように、国立が爽やかに告げる。


「それでは次の議題は——」という声が耳の遠くで響く中、杏華は窓の方へ視線を投げてため息を落とした。


ちょうどその手前で静かに座っていた拓海と目が合う。

杏華がうっすら目を細めて抗議の光を送ると、拓海の口がゆっくり動いた。


《ど、ん、ま、い》


口パクでそう言っているらしい。

——まったくの他人事だ、この薄情者。


杏華は右隣の男に聞こえるよう、わざと大きくため息をついてみせた。



°・*:.。.



「——で、なんで引き受けたんだよ」


昼休み。

唐揚げ丼をかき込みながら拓海が呆れたように言うと、杏華は箸を止めてため息まじりに返した。


「…あの雰囲気で、拓海だったら断れたと思う?」


「まぁ……無理だな」


「でしょ」


拓海は肩をすくめ、茶色い瞳を細める。


「でもさ、本当に大丈夫か? あの規模の企画を清水さんと二人でやるって、ガチで二人三脚になるぞ。嫌いだの苦手だの言ってらんねぇよ?」


杏華もそれは大前提わかっていた。


けれど、この機会を“うまく利用してやる”と考えていた彼女は「それは――」と言いかけたまま、どこか自信なく口をつぐむ。

とはいえ、今さら“やっぱりやめる”なんて言える状況ではない。


「それは…仕事として割り切るよ。それに、これを上手くやり遂げれば、チーフ昇格は間違いないと思うの」


「なるほどね。だからこの鬼案件を自分から背負いにいったわけだ。杏華の昇進魂はほんと尊敬するわ。俺も見習いてぇ」


全く尊敬していなさそうな軽口に、杏華はムッと唇を尖らせたが、すぐに思い出したように眉を上げた。


「…そういえば会議の前、清水さんに『広瀬とどういう関係なのか』って聞かれた」


「…は? マジで? で、なんて答えたの?」


「ん。ただの同期で、飲み仲間ですって言っといた」


「おいおい、なんか冷たくね?」


「誰が正直に言うのよ。本当のことなんて」


「“本当のこと”ねぇ」


「……悪趣味」


顔を傾けながら目を細める拓海に、杏華はふうっと呆れ半分に息を吐く。


「はいはい。…にしてもさ、これからしばらくは飲みに行けなくなるんじゃん?」


「え、それは困るんだけど。拓海との愚痴り会しないと絶対持たない」


「お。素直じゃん。可愛いとこあるねぇ、杏華ちゃん」


拓海はわざとらしくニヤつきながら、最後にひと言だけ柔らかい声で付け足す。


「ま、身体壊さないようにがんばれよ」


「……ありがと」


拓海の軽い言葉が思いのほか沁みて、杏華は小さく息を吐きながらうどんを啜った。



°・*:.。.



その日の午後から、清水率いる大型プロジェクトは本格的に動き出した。


会議では「私と安積で十分」と清水は言い切っていたが、他案件の進行状況や若手育成の面も踏まえ、結局二課からあと二名をアサインすることになった。


誰を連れていくかの判断は、杏華に一任された。


一人は、昨日の飲み会でも同じテーブルにいた佐々木絵里。

杏華より一つ歳下の後輩で二十八歳。三年ほど同じ課で働いた仲だ。

信頼できて気も利き、杏華がもっともやりやすいメンバーでもある。

今年また同じ課になったことは、杏華にとって密かに嬉しい出来事だった。


そしてもう一人は田端雄大<たばた・ゆうだい>。

二十五歳で二課の中では最年少。

普段は明るく素直な努力家だが、「俺に務まりますかね……」と、さっきから杏華と佐々木に挟まれて胃を押さえている。


その田端の肩を叩きながら「大丈夫大丈夫」と宥めている佐々木も、どこか緊張しているのはバレバレだった。


——ということで、表向きには清水と杏華の二人で動く体裁のままだが、拓海の言っていたような完全なる“二人三脚”は免れたのだった。


「——揃っているな。始めよう」


清水は会議室に足を踏み入れるなり、表情ひとつ変えずそう言うと、横一列に並んで座る杏華たち三人の正面の席に腰を下ろした。


まるで面接が始まるかのような空気に、佐々木も田端も途端に背筋を伸ばす。

杏華は内心に緊張を秘めながらも悟られまいと、清水のネクタイの結び目あたりに視線を置いた。


「今日は、役割分担と今後の進行スケジュールを共有する。無駄は省く。重点だけ確認する」


淡々と告げながら、清水はノートパソコンを操作する。


「今回の案件はこの四人で担当するが、全体統括は——安積、君に一任する」


画面から上げた瞳とまっすぐ視線が交わり、杏華は小さく息を呑んだ。


「はい……」


「佐々木はSNS動向と競合分析。田端は市場データの精査と数値化。それから適宜、安積の補助に入れ」


「了解です!」

「りょ、了解しましたッ!」


二人の返事に、清水はわずかに頷く。


「では、全体の進行スケジュールを共有する」


その低い一声だけで、三人の指先が揃ってスケジュール帳へと移った。


「まず一週目は、徹底した情報収集だ。ブランド側の過去事例、現行プロモーション、ターゲット分析、SNS上の反応——使えるものはすべて洗い出す。この段階での精度が、その後の企画の質を決める」


その工程自体は、杏華にとって特別なものじゃない。

何度も経験してきた“いつもの段取り”のはずだ。

——なのに、清水の抑揚のない、それでいてどこか圧を孕んだ声で説明されると、普段より重く感じてしまう。


「二週目は、アイデア出しと企画骨子の作成だ。方向性を複数パターン用意し、メリット・デメリットを明確にした上で絞り込む。ここが最初の山場になる」


“最初の山場”。

けれど、この男の元では一週目の情報収集さえ容易くないだろう。

誰でも拾えるような温い情報では満足しないタイプに違いない。

つまり杏華たち三人にとって、この企画は最初から最後まで、ずっと山場だ。


「三週目に資料作成に入る。提出用とプレゼン用の二種類を作る」


既にびっしり埋まりつつあるスケジュール帳に、さらに予定が追加されていく。

普通なら憂鬱になるはずのその密度に、むしろ血が騒ぐ自分がいる。


(ほんと……性分よね)


「そして四週目。仕上げとしてプレゼン準備に入る。読み合わせ、尺調整、質疑応答の想定——一切の抜かりを許さない」


まるで軍の司令のような口調で淡々と語られていく、“地獄の四週間”。


「——今日のところは以上だ」


清水がパソコンを閉じかけ、ふと手を止める。

そして視線を杏華へ向けた。


「安積。明日の九時に再度ここへ来い。詳細を下ろす。

全体統括として、まず君に全容を叩き込む」


「……はい」


返事をした瞬間、杏華の胃が静かにキリ、と音を立てた気がした。



°・*:.。.



翌朝。

指示どおり、杏華は朝一で会議室へ向かった。

一度オフィスに寄ってコートと荷物を置いてきたが、清水の姿はなかった。

ということは——扉の向こうにいるであろう男を想像し、意を決するようにしてドアを開ける。


予感どおり、清水はすでにいた。

ノートパソコンを開き、横には分厚い資料の束。

杏華を一瞥したあと、腕時計に視線を落として言う。


「時間通りだな。座れ」


「失礼します…」


椅子に腰を下ろした瞬間、


「早速だが——GELLATは去年から若年層の離反が顕著で、オンライン売上比率も目標を下回っている。そこを改善するための統合プロモーションだ」


清水は淡々と話し始め、そこから三十分。


企画の規模、求められるクオリティ、クライアント側の傾向、媒体別の配分——

怒涛の情報が次々と落とされ、杏華は必死でペンを走らせる。


ノートのページが走り書きで埋め尽くされた頃、清水がようやく口を閉じた。


「——以上だ。何か質問は」


杏華は一瞬迷ったが、小さく息を吸って口を開いた。


「その……全体統括を私に任せてもらえるということですが、プレゼンも私が前に立つ想定で?」


「ああ。そうだ。任せる以上は全部やってもらう」


清水が当然のように頷くのを見て、杏華は胸の奥がじり、と熱を帯びるのを感じた。


(——言ってたもんね。“君が立派なチーフになれるよう育ててやる”って)


あの時のやり取りを思い出し、本気で言っていたんだ と、今になって実感する。


踏み台にするつもりだったのに、逆にこちらが全力で走らされている気分だ。


「今の内容は君から佐々木と田端に要点を下ろしておけ。田端は不安がある。猿でもわかるよう噛み砕け。そういうのは、君のほうが向いているはずだ」


「…了解しました」


「それから、明日までに“ブランドの現状課題”を三十項目洗い出せ」


「……三十?」


清水はそこで初めて、わずかに口元を歪めた。

笑っているとも、挑発しているとも取れる薄い笑み。


「もちろん、それ以上でもいい。——できるだろう?君なら」


試すような声音に、杏華のこめかみがぴくりと跳ねた。

それは期待なのか、それとも単なる圧なのか。

いずれにせよ——苛立ちの種であることに変わりはない。


オフィスに戻って席につくと、すぐに佐々木と田端が駆け寄ってきた。


「杏華さん、おはようございます。……どうでした?」


「うん、まとめて話すね」


杏華の腕に抱えられた分厚い資料を見て、二人はそろって小さく息を呑む。


「……え、その量を……?」


「大丈夫。私が噛み砕くから」


杏華が説明を始めて間もなく、清水も席へ戻ってきた。


佐々木と田端が「おはようございます」と軽く会釈すると、清水は静かに返し、コーヒーを置いてデスクの資料に手を伸ばす。


杏華は説明を続けるが、なんとなく清水が耳を傾けている気がして、ほんの少しだけ緊張が走った。

それでも、さきほど三十分で叩き込まれた内容を、杏華は十分ほどで的確に、無駄なくまとめ切る。


「——っていう感じなんだけど、大丈夫そう?」


「完璧です」


「……安積さん、マジ神っす……」


杏華は短く笑い、二人を見渡した。


「よし。じゃあ、始めよう」


その言葉に、佐々木と田端が勢いよく頷く。


向かいでは、清水が変わらぬ涼しい顔で資料に目を通していた。


——こうして、怒涛の一ヶ月が幕を開けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る