Ep2.いけ好かない男


翌週。

杏華は最近の中でも最も憂鬱な朝を迎えていた。


前に立って爽やかに挨拶の言葉を述べる清水瑛人を、オフィス後方のデスクからげんなりした顔で見つめる。


——もっとも、そんな顔で彼を見ているのは、この空間で杏華ただ一人だ。


あの男が口元にうっすら笑みを浮かべて「今日から二課チーフの清水瑛人です」と一言発しただけで、周囲は花でも咲いたようにざわついた。


容姿が良いのは認める。


まず背が高い。きっと一八〇センチはとうに越えていているし、顔も小さい。

それだけでほとんどの女性は彼に好印象を抱くはずだ。


それに加え目鼻立ちは端正で、潔くあげた前髪のおかげでその整った顔立ちが際立っている。

部長室で向かい合った時に感じたあの威圧感も、ただ大柄なだけではなく、スーツ越しでも分かる、あの鍛えた体が理由なのだろう。


印象こそ最悪でも、顔が良いのは認めるしかない。


——だからといって、ああいうふうに人を蔑むのはどうかと思う。


(宣言通り、チーフ昇格の踏み台になってもらいますからねっ)


と、心の中でふんぞり返った時——

さっきまで少しは穏やかに見えた清水の瞳が、いつの間にか冷ややかにこちらを捉えているのに気付いた。

初対面の時と同じ、杏華を値踏みするような視線だ。


(え…なに…?)


思わず顔を強張らせたところで。


「おーい、安積?大丈夫か?」


課長の鳴海直樹<なるみ・なおき>が声を上げ、ハッとする。

気付けば他のみんなも、杏華を不思議そうに見ていた。


「え、あ……はい……?」


瞬きながらそう答えた途端、「君も前へ」と手招きされ、前に出るように促された。


「課が変わったから、安積からも一言もらえる?」


鳴海にそう言われたあと、杏華は自分が何を口にしたのか、まるで覚えていなかった。

口が動くままに適当なことを言ったのだろう。

——というのも、隣に立つデカ男に意識をすべて持っていかれたからだ。


いつも大勢の前でプレゼンをしている杏華が、知った顔ぶれが揃うこの場で緊張などありえない。

なのに、どうして隣に立たれるだけでこんなにも居心地が悪くなるのか。


みんなの拍手に軽く一礼し、杏華はそそくさと自分のデスクへ戻った。

そして——今朝から感じていた嫌な予感が、やはり的中する。


「清水の席は安積の向かいだ」


そう促された清水が静かに歩み寄り、杏華の真正面の席に腰を下ろしたのだ。

今朝出勤した時、自分の目の前のデスクだけ綺麗さっぱり片付いていたのを見て、“まさか”と胃がキリキリした予感は当たっていた。


清水が席に着いたのを合図に始業となり、オフィスにざわめきが戻る。

パソコンが立ち上がるのを待ちながら、杏華は無意識に視線を上げた。

すると、真正面に君臨するように座る清水と目が合った。


杏華は視線を逸らすどころか、逆に睨みつけるように目を細める。

そんな彼女に、清水はふっと鼻で笑った。


「朝からぼーっとしていたようだが、それでアシスタントが務まるのか?」


嫌味たっぷりの一言。

けれど、やり返す気力も湧かない杏華は深いため息だけ返すと、パソコンに視線を戻した。



°・*:.。.



「はぁ…」


十一時。まだ始業から二時間しか経っていないというのに、杏華はもう一日を終えたかのような疲労感に襲われていた。

冷たい水で手を流しながら、鏡に映る疲れ切った自分と睨めっこする。


今朝、清水から与えられた仕事のことを思うと、到底デスクに戻る気にはなれない。

かといって、こんなところで小休憩している暇など本当はないのだけれど——


『前年度の問題点をまとめて、改善案を十三時までに』

『十六時までに、次のプロジェクト用の案を三案提出』

『過去三年分の案件の成功例と失敗例の振り分け、課題抽出。これは——今日中でいい』


朝礼後のあの嫌味をこぼした数秒後、清水は何食わぬ顔でこうして次々と仕事を積み重ねてきたのだった。


一日はおろか二日あっても怪しいレベルの内容まで含めて、だ。

しかも最後の一言がまた腹立たしい。

今日中“で”いい——まるで自分が譲歩したと言わんばかりのその言い方。


唖然としたのも束の間、「俺のアシスタントなら、この程度は簡単なはずだ」と不遜な物言いを残され、杏華は奥歯を噛み締めて頷くしかなかった。


そして、しばらく熱心に取り掛かったものの——人に仕事だけ押し付けておいて、本人は涼しい顔でコーヒーを口にする姿が不愉快すぎて、苛立ちを抑えるのに必死で何ひとつ進まず、今に至る。


(私、これ、今日帰れるのかな…)


しかも今日は、清水の歓迎会を兼ねた新年度の飲み会がある。

飲みの席は嫌いではないが——主役があの男となれば話は別だ。

正直、参加したくない。


残業を理由に断ろうか——そんな考えが一瞬、頭を掠めた。けれど。


“仕事を終わらせることができなかったから参加できなかった”などと思われれば、間違いなくまた嫌味を言われる。


口先をわずかに上げてこちらを蔑む清水の顔が、簡単に脳裏に浮かぶ。

たかが被害妄想にすぎないのに、腹が立って仕方ない。


(…それなら、何がなんでも全部終わらせて、勝利の美酒を味わってやる…)


自分を奮い立たせるように、胸元まで流していた髪をひとつに結ぶ。


「よし」


小さく頷き、杏華はデスクへと戻った。


席に戻ると、向かいでは清水が淡々とパソコンに向かっていた。

杏華の存在など眼中にないかのように、姿勢良くキーボードを叩き続けている。

与えてきた仕事量を思えば、ほんの少しでも罪悪感を滲ませてもよさそうなものなのに——そんな気配は一欠片もない。


(…どういう神経してるんだろう、この人)


資料を開いた瞬間、カタリと小さな音がして、清水がすっと立ち上がった。

どこかへ行こうとするその姿を、無意識に目で追う。

そして彼は鳴海のもとへ歩み寄り、持っていた資料を差し出した。


「午後の企画会議用の資料です。確認をお願いします」


「…もう作ったのか?」


鳴海が目を丸くするのに、清水は淡々と頷いた。


「帰国前から考えていたので。二課の現状だけ、先ほど加えました」


鳴海が資料に目を落とすと、こちらから見てもはっきり分かるほどその表情が変わった。


「…すごいな。完成度が高い…」


清水は誇るでもなく、「ありがとうございます」とだけ告げ、静かに戻ってきた。

ふっと短く息を吐いて、再びパソコンと向き合う清水を見て、杏華は自分が資料をめくる手を止めていたことに気づく。

周囲も同じだったらしく、背後からは小さなざわめきが起きていた。


「さすが清水さんだね……」


そんな声が耳に入り、資料を摘む指先にぎゅっと力がこもる。


(…この人、本当に何者なの…?)


異国で実績を残し、こちらの業績低下を聞いて自ら戻ってきた男。

自負があるのは当然だ。


だとすれば——杏華に与えた仕事も、いじめでも無茶振りでもなく、この男の基準では本当に“今日中の仕事”なのだ。

驚きと感心が胸の中で入り混じる。

けれどなにより——


“敵わない”


そう直感してしまった自分が、一番悔しかった。



°・*:.。.



十二時を回ると、一斉に昼休憩を取ることになっている。

オフィスのあちこちで椅子が引かれる音が重なり、みんなぞろぞろと立ち上がっていく。

今日も例外なく全員が席を離れた——ただ一人、杏華を除いて。


いつもなら杏華もそそくさと席を立つ。

だが今日はそうはいかない。

視界はモニターの中の数字とグラフで埋め尽くされ、胃は空腹よりも焦燥でぎゅっと縮んでいた。

杏華は立ち上がるどころか、むしろ椅子に深く沈み込んでいた。


「おい」


突然つむじに落ちてきた低い声に、杏華の肩がわずかに跳ねる。

顔を上げると、清水がジャケットに袖を通しながらこちらを見下ろしていた。


集中するあまり、前のめりにモニターへ噛りついていたせいでまだ清水が席にいたことにすら気づいていなかった。

杏華が目だけで「何か?」と問い返すと、清水の感情の読めない視線が、散らかったデスクの上をゆっくりとなぞる。


「行かないのか」


「え?」


「休憩だ。一時間の昼休憩は原則だろう」


至極当たり前のことを言われ、杏華はわずかに口を開いたまま固まった。


(…誰のせいでこうなってると思ってるの…)


心の中で項垂れる杏華の内心など露ほども知らない様子で、清水は続ける。


「血糖値が低いと、ろくなアイデアも生まれない」


その口調には嫌味らしさは一切なく、ただ事実を述べているだけのようだった。

けれど杏華を貫く視線には、相変わらず強い圧がある。

“今すぐ行け”と無言で命じられているようで、杏華はとうとうパソコンをぱたんと閉じた。


「…行きます」


そう答えた瞬間、清水は満足したらしく、わずかに顎を引いた。

そしてそれ以上何も言わず、オフィスを出て行った。



°・*:.。.



食器の重なる音や話し声が混ざり合う、昼の社員食堂。

杏華はいつものようにきつねうどんをトレーに乗せ、窓際の定位置へ向かった。


そこには見慣れた横顔。

杏華に気づいた瞬間、スマホをいじっていた手を止め、「おっ」というように眉をあげた。


「今日は来ないのかと思った」


「ちょっと、ね…」


うどんを置きながら歯切れ悪く答えると、広瀬拓海<ひろせ・たくみ>は首を傾げて「どした?」と問いかけてくる。

同期であり、同じアシスタントチーフで——気の置けない関係、だ。


「清水さん、どんな感じ?」


食べ終えた食器をトレーごと片側に寄せ、頬杖をつきながら拓海が聞いてくる。

杏華は「いただきます」と手を合わせたものの、うどんにはまだ手をつけず、先に返事をした。


「どんな感じか、っていうと…」


そう話しはじめると、もう止まらなかった。

自然と愚痴が口から溢れ出てくる。


初めて会った日の“最高に感じ悪かった件”はすでに拓海へ報告済みだ。

だからこそ、今日の清水がどれだけ最悪だったのか、面白半分で気になって聞いてきたのだろう。


今朝の清水の態度、嫌味、そして“今夜の歓迎会に行けるかも怪しい量の仕事”を与えられたこと――

杏華が息継ぎも忘れそうな勢いでまくしたてるのを、拓海は慣れた顔で聞いていた。


一通り終わると、拓海は「へぇ~」とどこか面白がるように目尻を下げた。


「俺はまだ直接見たことないけどさ、一課の中でも今日は清水さんの話題で持ちきりなんだよ。だから、今日の飲み会で会えるの、けっこう楽しみなんだよな」


「…ただの鬼だよ?」


杏華の愚痴を聞いて“楽しみ”なんて感情がどこから生まれるのか、本気で理解できない。

少し伸びてしまったうどんをようやく口に運びながら、杏華は不満げに首を傾げた。


「飲み会では鬼じゃないだろ、さすがに」


「……お酒入ると説教始めるタイプかもしれないよ」


“昨年度の問題点を一人ひとつ挙げろ”なんて言いかねない——

想像しただけでうんざりして、杏華は肩を落とした。


(まあ、みんなの前では、あの嫌味ったらしい顔はまだ見せてないけどね…)


そもそも初日に杏華が楯突いたのがいけなかったのだろう。

清水は絶対、プライドが摩天楼並みに高い男だ。


“女に楯突かれたのは初めてだ”——そんなことをサラッと言っていたくらいだ。

つまり杏華の態度が気に入らなかったに違いない。


……とはいえ、最初に言い返したくなるようなことを言ってきたのは清水の方だ。

今となっては、腹が立ったことしか記憶になくて、細かい会話は思い出せないが。


とにもかくにも。

どれだけイケメンでも、誰がなんと言おうと、杏華の中で清水は“いけ好かない男”で確定だ。


「じゃ、私はもう行くね」


最後の一口をすすりきるや否や、杏華は椅子を押して立ち上がった。

拓海が「また夜な〜」と軽く手を挙げるのを背中で受け、杏華は一目散にオフィスへ戻っていった。


昼休み終了まで、まだ二十分ほどある。

オフィスには誰も戻っておらず、しんと静まり返っていた。


杏華は椅子を引き、資料を手に取って続きをやろうとした——が。


清水が戻った時、自分がすでに席にいたら「本当に昼休憩を取ったのか」なんて疑われる気がした。

そのやり取りを想像しただけで面倒くさい。


杏華は資料を抱えたまま、そっとオフィスを抜けた。


中庭に出ると、空いているベンチに腰を下ろす。

ここには大きな桜の木があり、この時期は昼休憩をここで過ごす社員も多い。

ほのかな風に花びらが舞い、プチお花見気分を楽しむ人たちの姿もちらほら。


そんな穏やかな光景の中で——わざわざここへ来て、青空の下で仕事に取り掛かろうとしている自分に、杏華は思わず反吐が出そうになった。


(どうして私が、ここまで気を遣わなきゃいけないのよ……)


とはいえ、四月の昼下がりのやわらかい日差しは彼女の頬にそっと触れ、ほんの少しだけやる気をくれるようだった。


しばらく資料に集中して視線を落としていると、いつのまにか中庭の人影もまばらになっていた。

腕時計を確認すれば、休憩終了まで残り七分。


そろそろ戻らなきゃ——そう思い、資料を閉じようとした時だった。


ふっと、手元に影が落ちる。


視線を上げ、そこに立つ人物の顔を見た瞬間、杏華は思わず「げっ」と声に出しそうになり、寸前で飲み込んだ。


その代わり、ピクつく口元の筋肉に“笑え”と全力で指令を送りながら——


「……清水さん、お疲れ様です」


どうにかそう声をかけたが、当然のように笑顔は破綻していた。


しかし清水は、杏華のひきつった愛想など気にするそぶりもなく、手に持っていた煙草をゆっくりポケットにしまうと、


「終わりそうか?」


と、表情ひとつ変えずに尋ねてきた。


清水の向こう側——視界の端に喫煙スペースが見えて、杏華は内心で盛大なため息をついた。


(まさか喫煙者だったなんて……)


清水の姿を避けるために、わざわざ中庭に出てきたというのに、まったく意味を成していない。

取り越し苦労にもほどがある。


指先が少し冷えているのを感じながら、杏華は資料を閉じた。


「終わらせます」


そう言って立ち上がった瞬間——

思った以上に清水が近くにいて、杏華はわずかに身をそらす。


膝裏がベンチの冷たさをかすめるほどの距離感なのに、清水は壁のようにまったく動かない。

この男、存在感だけで人を押し返してくる。


杏華は“壁”とベンチの間を、二歩分の小さな横歩きでどうにか抜け出すと、ようやく圧迫感から解放されて胸を撫で下ろした。


(……“終わりそうにない”なんて言ったら、助けてくれるわけ……ないよね)


自分で思って自分で諦め、心の中でだけ肩を落とすのだった。


「では、失礼します」


どうせ戻る場所は同じだというのに、杏華の口は無意識にそう形作っていた。


「俺も戻る」


「……そうですよね、はは……」


清水が動き出す気配に背を向け、先に歩き出そうとした、その瞬間だった。


ふわり——。


髪の上をそっと撫でられるような感触。

何かが掬われた気配に、反射的に振り返る。


すると、清水の指先には淡いピンク色が宿っていた。


「桜の花びら。君の頭に付いていた」


そう言って指を開くと、ひらり、と花びらは足元へ落ちていく。


「綺麗だ」


ふっと口元が緩む。

そのまま真っ直ぐ杏華の瞳を見て、静かにそう呟いた。


そして——

わざと一拍置いた後、少しだけ意地悪げに付け加える。


「……ここの桜は」


清水が先に歩き出す。

余裕を滲ませた背中。


杏華は胸の奥にジリジリと広がる熱に息を呑んだ。


それは、赤い“危険信号”だった。


あの男は危険だ——

一歩油断すれば、一瞬で足元を掬われる。


仕事ができて、顔がよくて、そして……あの手つき。あの目。


女性の扱いにも慣れている。


(ああいう類の男は、ろくなことがない)


胸焼けするような不快と、どうしようもなくざわつく感情を抱えたまま、杏華は清水の数歩後ろを歩いてオフィスへ戻った。

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