第3話 守るための沈黙
支所の廊下は、朝でも静かだった。
靴音が反響するたび、小百合は少しだけ歩幅を調整する。
「香月さん」
背後から呼ばれて、振り返る。
研究班の若い職員だった。白衣ではなく、今日は私服だ。
「昨日の観測データですが……」
言いかけて、言葉を止める。
周囲を気にしている様子だった。
「後で、時間もらえますか」
「……はい」
その返事をした瞬間、胸の奥に小さな波が立つ。
嫌な予感ではない。
けれど、軽くもない。
会議室の一角。
遮音ガラスの向こうに、人影はない。
「率直に言います」
職員は、端末を伏せた。
「上は、あなたの能力を“再現可能”にしたがっています」
小百合は、何も言わない。
「手順に落とせば、教育できる。
事故を減らせる。
それは、正しい理屈です」
声は低い。
「でも……」
一拍置く。
「香月さんのやり方は、真似できない」
小百合は、静かに頷いた。
「私たちが書いているのは、
あなたの魔法ではなく、“観測できなかった理由”です」
「……それは、悪いことですか」
「分かりません」
正直な答えだった。
「ただ、このまま進むと、
あなたは“使いづらい例外”になります」
例外。
分類不能の、次の名前。
「だから……」
職員は、少しだけ声を落とした。
「黙っていてほしいんです」
小百合は、目を上げる。
「何を、ですか」
「あなたが、意図的に説明を避けていることを」
沈黙が落ちる。
「隠している、と受け取られれば問題になります。
でも、分からないから話さない、なら――」
「守れる?」
「たぶん」
たぶん、という言葉が正直だった。
その日の探索は、中止になった。
ダンジョン側に、小さな不安定が出たためだ。
小百合は、支所の待機室で一人、窓の外を見ていた。
工事中の高架、ゆっくり進む車列。
魔法がない日常。
それは、壊れやすくも、しなやかだった。
――黙る。
それは、逃げだろうか。
それとも、守る行為だろうか。
夕方、霧島がやって来た。
「今日は、何もなかったな」
「はい」
「……何か、言われたか」
小百合は、少し迷ってから答えた。
「言われました」
「内容は?」
「……言わないほうが、いいと言われました」
霧島は、深く息を吐いた。
「そうか」
それ以上、聞かなかった。
「小百合」
珍しく、名前だけを呼ぶ。
「説明しないことが、悪になる場面もある」
「はい」
「だが、説明しきれないものを、
無理に言葉にする必要はない」
その言葉は、誰かの意見ではなく、
長く現場に立ってきた人の重さがあった。
夜。
自室の机に向かい、小百合はノートを開く。
白紙のページ。
書こうと思えば、何かは書ける。
感じたこと。
流れ。
違和感。
でも、それを書いた瞬間、
それは“手順”になってしまう。
誰かが真似をし、
うまくいかず、
傷つくかもしれない。
小百合は、ペンを置いた。
沈黙は、逃げではない。
言葉にしない選択も、意思だ。
翌朝、研究班に簡単な報告を出す。
「特記事項なし」
それだけ。
誰かが落胆し、
誰かが安堵する。
境界線は、少し厚みを増した。
香月小百合は、その内側で、
何も語らないという魔法を選んでいた。
守るための沈黙。
それは、まだ名前を持たないが、
確かに力を持っていた。
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