第3話
第十一章 プリナップの影と言い換え
夜九時過ぎ、茉莉のスマホに着信が入った。差出人は大橋恭子。件名は「式前・事務連絡(ご確認のみ)」、添付にWordファイルが一つ。
開くと、婚前契約――いわゆるプリナップの草案だった。穏当な文言が並ぶが、第三章だけが異様に長い。「家計の健全運営」「創作活動の継続支援」と題され、具体に踏み込むほど靄がかかる。
――著作物は婚姻共同体の“家族ブランド”として一元管理する。
――ペンネームおよび派生名義は、混乱回避のため統一する。
――収益口座は“運用効率”を鑑みて代表者(夫)名義で集約する。
――作品制作に関わる連絡・調整は、家族ユニット窓口(恭子)を経由する。
言い換えの層を一枚ずつ剥ぐほど、本心がのぞいた。「管理」「統一」「集約」「窓口」。どれも優しげな衣を着た奪取の語彙だ。
茉莉は言葉を失い、端末を差し出した。弘樹は受け取り、まず「プロパティ」を開く。作成者:kyoko_ohashi。最終保存者:masahide_hando。変更履歴は“単語の置換”が多い。〈管理→支援〉〈共有→一元〉〈独占→混乱回避〉。痕跡は残っていた。
「原本、保存する」
弘樹はUSBを差し込み、ファイルを複製。さらにPDF化、スクリーンショットを要所ごとに撮り、タイムスタンプ付きで保全する。コメント欄には、恭子の吹き出しが生々しく並んだ。〈ここ、柔らかく。家族ユニットで〉〈“代表口座”は断固。隼人くんの税理士が管理〉。隼人の返信もある。〈ブランドは一つ。外向けは美しく〉。
その瞬間、茉莉の画面にSNS通知が弾けた。匿名の文化アカウントが、「鬼桜」へ当てこすりのスレを立てている。〈“元ネタの人”を守るためにも、加害側が大人の対応を〉――投稿時刻は、恭子のメール送信とほぼ同分。根回しは、もう始まっている。
「茉莉」
弘樹は、妹の肩越しに静かに言った。
「これは“支援”じゃない。創作を、執筆の手順から奪う契約だ」
茉莉は震える息を吐き、頷いた。優しい語尾で塗られた条項ほど、刃がよく切れる。だからこそ、言葉の外側――修正履歴、保存者、時刻、通知の連動――を並べる必要がある。
「明日、式場でこれを出す?」
「出す順番と、出し方を考える。まずは“誰が、いつ、どう差し替えたか”。それからだ」
家族の守りが沈黙なら、兄の守りは手続きを光に晒すこと。弘樹は電源を落とし、USBを掌に包んだ。執筆は、茉莉の机で続く。奪えないものを、証明するために。
第十二章 二次会台本と「ブランドは一つ」
式前日の夜、恭子からもう一通、共有フォルダのリンクが届いた。ファイル名は「二次会_台本_ver7.docx」。開くと、司会の進行からゲームの景品名、BGMの頭出しまで緻密に書かれている。だが弘樹の目を止めたのは、途中に差し込まれた「特別企画」のブロックだった。
――〈“新ユニット発表”セレモニー〉
――新郎半藤挨拶:「家族はチーム。ブランドは一つに」
――新婦コメント(※事前に了承済の短文を読了)。
――登壇:大橋恭子(窓口)、永沢綾(クリエイティブサポート)
――ケーキ入刀ならぬ“ロゴ入刀”演出(横断幕掲出:K.M.Family Writers)
茉莉は凍りつき、次いで小さく息をのむ。「了承済って、誰が?」
台本の余白に、正英の校正コメントが残っている。〈“ブランドは一つ”を二度繰り返し〉〈外向け名称はK.M.で統一、個別PNは括弧書き〉。恭子の返しは〈混乱回避を前面に〉〈税務は代表口座で一括〉。どの語も、昨夜のプリナップと同じリズムで茉莉の執筆を囲い込む。
「合理化の言い換えだな」
弘樹は台本の変更履歴を追い、差し替え時刻を控える。BGM指定「春の夜桜」は恭子。掛け声「新ユニットへエールを」は正英。二人の手つきが、段取りの骨に入り込んでいる。
「二次会で“既成事実”を作るつもりだ。発表、歓声、写真、ハッシュタグ。あとで何を言っても、『皆さんの前で約束しましたよね』に化ける」
茉莉は唇を噛み、そっと端末を伏せた。「私、賛成なんて言ってない」
「だから、残す」
弘樹は台本の該当ページをPDF化し、コメント一覧と修正履歴をエクスポート。さらにスクリーンショットを撮り、保存先を三重に分ける。証拠は、感情ではなく手順で積む――それが兄のやり方だった。
その夜遅く、正英から家族グループにメッセージが入る。〈当日は“家族としての歩み”を示せたら嬉しい。ブランドは一つ。茉莉の負担は僕が軽くする〉
一見、優しい。「軽くする」は「奪う」の婉曲であり、「一つ」は「支配」の輪郭だ。日向子は既読だけをつけ、誠は短く〈当日、話は別室で〉と返した。父の短文には、職場で培った危険察知の硬さがある。
ベッドに横たわりながら、茉莉が囁く。「兄ちゃん、もしあれを大広間でやられたら?」
「やらせない。仮に始まっても、止める。そのための順番を決める」
弘樹は、式→中座→二次会の動線を紙に描き、司会・音響・会場責任者の名前をメモへ移す。止めるべきは言葉ではなく“段取り”だ。マイクに電源が入る前、横断幕が降りる前、ロゴ入刀のナイフが渡る前。
「合図は、俺が出す」
窓の外に、夜更けの風がさっと走った。明日、光の下で掲げられるはずだった“統一のロゴ”は、まだ布の裏側にいる。兄妹は黙って目を閉じ、心の中でナイフの柄から先に外す練習を繰り返した。
第十三章 静かな爆発の種(十秒)
日付が変わる少し前、茉莉のスマホが震えた。発信者は正英。画面には〈明日の段取りを軽く確認〉とだけある。茉莉は深呼吸し、ボイスメモを起動してから受話ボタンを押した。スピーカーはオフ、AirPodsは外す。余計なノイズを入れないのは、弘樹から教わった“記録の作法”だ。
「明日ね、二次会で“家族としての宣言”をする。……それと、結婚したらさ、夢は一回やめよう。うん、出産に専念してほしい。落ち着いたら“みんなで”書けばいい」
十秒ほどの、短くて決定的な文言。茉莉は相づちを打たず、沈黙で針を進めた。相手は沈黙を合意と誤解する。録音には、彼の独り言めいた圧の質感がそのまま残った。通話が切れると同時にファイル名を「2025-12-XX_2259_mari_hando.m4a」に変更し、iCloudと外付けに二重保存。作成日時、機種名、OSバージョン――メタデータは触らない。触れないことが保存だと、兄に叩き込まれている。
リビングの灯りは落ち、弘樹の部屋だけが細く明るい。ノックの音に彼が振り向く。茉莉は端末を無言で差し出した。波形の山が十秒ぶん、くっきり立っている。再生。言葉の刃が静かに机に置かれた。
「十分だ」
弘樹はUSBメモリを二本取り出し、一方を読み取り専用に設定してから書き込む。もう一方には検証用コピーを置き、ハッシュ値を計算して紙に記す。封筒の表には「A-3:強要発言(逐語・十秒)」とだけ走り書きした。
「これだけで全部は動かないよね」茉莉が言う。
「これ“だけ”では、な。けど“他の証拠と噛み合う十秒”だ。台本の『ブランドは一つ』、プリナップの曖昧条項、綾と恭子の発表段取り――どれも同じ方向を指してる。方向が一致してることそのものが、意思だ」
弘樹は録音の逐語をタイムコード付きで書き起こし、発言の主語・述語・要求形を赤でマークする。「“やめよう”“専念してほしい”――柔らかい命令だ。柔らかい分、外面がよく見える。だからこそ録音が要る」
廊下を渡る冬の空気が冷たい。茉莉は自分の掌を見下ろし、握ったり開いたりした。「明日、私が怖くなっても、兄ちゃんは止めてくれる?」
「止める。止める前に、段取りを崩す。司会に“別室で”と言わせ、支配人に“事実確認のみ”を宣言させる。マイクより先に、ルートを切る」
机に並んだのは三つの封筒。A-1「PCタイムスタンプ連鎖」、A-2「いじめ構図の証跡」、そしてA-3「強要発言(十秒)」。短い十秒は、長い数年と結びつくためにそこへ置かれた。
「爆発は派手じゃなくていい」弘樹が微笑む。「点火すれば、あとは重ねてきた紙が燃える」
時計の針が零時を過ぎる。二人は灯りを落とし、それぞれの部屋へ戻った。闇の中で、茉莉の胸の奥に小さな火が残る。十秒の火だ。消えないうちに、明日を迎える。
第十四章 式当日:兆しと配置
ホテルの自動ドアが開くと、花の匂いとPAの微かなハム音が胸に触れた。受付脇のモニターにはOPムービーのテスト再生。画面に出るのは新郎新婦のはずが、妙に長い尺で映るのは永沢綾の近影、同人即売会の戦利品紹介、柔道の表彰写真――茉莉の素材は、やわらかな笑顔が数秒、すぐにフェードアウトする。
弘樹は立ち止まり、スマホで連番の写真を切った。画面端にバーコードのリハ札、タイムコード、ファイル名。証拠は華やかな場所ほど落ちている。
席次表を受け取る。前列中央には「永沢綾」、その隣に「大橋恭子」。新婦側親族席の最前列に、なぜか“来賓扱い”の肩書きまで添えてある。茉莉の旧友は後列に散らされ、両親の誠と日向子の名も一段落ちる。
司会台本は台車の上で付箋だらけに膨らみ、端には「家族ブランドは一つ」「サプライズ英語スピーチ:兄」と蛍光ペン。弘樹は係の目を遮らず、斜めから一枚だけ撮る。焦らない。撮れた断片同士が後で噛み合えばいい。
控えめに笑顔を貼った大橋恭子が現れ、スタッフに指示を飛ばす。「綾ちゃんトークは三分延長で。“創作の原点はみんなで”ってフレーズ、二度入れて」
“みんなで”。柔らかい支配の合言葉。茉莉の肩が小さく強張る。弘樹は視線で「大丈夫」と告げるだけにした。ここで感情を上げると、向こうの段取りに乗る。
控室。茉莉のブーケが置かれたテーブルに、薄い封筒が二通。差出人は「式場プランナー」と「新郎側親族会」。前者は進行修正の同意書、後者は“挨拶文言の統一”という名の口止めテンプレートだ。文末に〈不当に名誉を損なう発言、創作活動を示唆する行為はご遠慮ください〉。
弘樹は目だけで読み、写真は撮らない。これは後で支配人に正式コピーを求める類だ。先にやるのは、ルートの確保。
支配人を呼ぶ。「本番中に進行停止の判断をお願いする場合があります。理由の提示は別室でします」
支配人は一瞬目を瞬かせ、式次第に小さく鉛筆で印をつけた。「中断は司会から私に。別室は桜の間を空けます」
再びホールへ。OPムービーの色調が決まり、スタッフが拍手する。画面に“家族ユニットK.A.O.R.U.”のロゴが一瞬だけ走る。昨日はなかったもの。恭子の癖が露骨に出た。
弘樹は深く息を吸い、茉莉に囁く。「順風でも向かい風でも、帆の角度はこっちで決める。合図は俺から」
茉莉は小さく頷いた。スポットの熱、絨毯の弾み、笑い声の粒。それらすべてが、これから訪れる静かな中断の予告編に見えた。
第十五章 中断の鐘――大広間から別室へ
開宴のファンファーレが鳴り、司会の声が天井のシャンデリアに跳ねた。正英が白いグローブ越しにマイクを受け取り、笑顔を貼り付ける。その横で恭子が台本を指で叩いた。合図だ。
「ここで、新婦のご兄弟・赤松弘樹さまより、英語でスピーチを――」
予定通り。俺は席を立つ。正英が小声で囁く。「兄貴、英文はゆっくりで。みんな、わからないから」
礼を装った侮辱。それでいい。合図になる。
ステージ中央、マイクに息が触れた瞬間、俺は最初の一文だけ英語で述べた。
“Before I speak, I have one request for fairness and safety.”
ざわつき。続けて日本語に戻す。「進行の前に、式場支配人の確認をお願いします。新婦と両家の合意に関わる“文言の統一書面”が、直前に差し入れられました。内容上、個別の場での確認が必要です」
司会が硬直し、支配人が最前列でわずかに頷く。恭子が慌てて立ち上がる。「段取りにない、中傷は――」
「中傷はしません。事実確認です。ここは祝いの場ですから」
俺は深く頭を下げ、茉莉にも会釈した。彼女の唇が「ありがとう」と形を作る。
支配人が即座にマイクを受け取り、声を落とす。「一旦、進行を調整いたします。皆さま、着席のままお待ちください。新郎新婦とご両家代表、ならびに関係者の皆さまは“桜の間”へ」
ハープの伴奏が音量を上げ、照明が一段柔らぐ。中断の鐘は、拍手に似せて鳴らすのが礼儀だ。
移動の列で、正英が横に並んだ。「大げさだよ、弘樹さん。式が壊れる」
「壊れるものは、最初から荷重オーバーだ」
恭子が割って入る。「ブランドは一つで行くって、事前に話したはず」
「“行く”前に、誰のものか決めないと」
俺は支配人に目配せし、先を急いだ。
背後で布擦れとヒール音が強まる。綾が列に割り込もうとしてスタッフに止められていた。「私も関係者です!」
支配人が首を振る。「失礼ですが、こちらはご両家の確認席です。のちほど」
綾の視線が茉莉を射貫き、恭子が“あとで必ず”と目で合図する。二人の連携は固い。だが、場所は分けた。ここからは言葉に証拠を貼る番だ。
桜の間の扉が閉まる直前、俺はステージに残したマイクを一瞥した。祝福のための道具だ。ならばこそ、脅し文句ではなく、整った手順で進める。
深呼吸。封筒は三つ。入っているのは、誰かの肩書きより重い、時間の層そのものだ。ここから先は、祝宴を守るための最短距離で、丁寧に斬る。
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