AI短編小説集

猿のタイプライター

珈琲と煤と、過ぎ去った事件 ジャンル:推理

 意識は、深い沼の底から、ゆっくりと浮上していた。



 鼻腔に、濃密な珈琲の苦みと、古い紙の時間の煤(すす)が混ざったような匂いが流れ込んでくる。

 瞼の裏では、雨に濡れた石畳の光沢と、白い手袋をはめた誰かの手が、一瞬で弾け飛んだ銃声の残響と化して消えた。

 それらは全て、掴みどころのない泡のように、彼の内部で弾けては消える、虚無的な残像だった。


 彼は、自分が誰なのか、なぜここにいるのかを知らない。

しかし、その「知らない」という事実に、驚きや焦燥はなかった。

まるで、それが当然の、与えられた役割であるかのように、静かに受け止めていた。


 肌に触れるのは、使い込まれた革張りのざらつきと、首筋を伝うひんやりとした寒気。


 ゆっくりと重い瞼を持ち上げた。


 視界を最初に支配したのは、埃を纏った無数の背表紙だった。

 天井まで届く壁一面の本棚。

 背表紙は微かな光の中で、知の重みと、物語の終わりなき連鎖を伝えている。


「目が覚めたかね、探偵さん」 


 声の主は、カウンターの向こう側、分厚い眼鏡をかけた老人だった。

 頭頂部は光沢を帯び、開かれた新聞の向こうから、深い諦観と、わずかな面白みのような視線を送っている。


「探偵……ですか」 


 男は自分の名を思い出そうとしたが、頭蓋骨の中は白い靄がかかったように空虚だった。


「ああ、そうさ。君は三日前にふらりとこの〈黄昏書房〉へやってきて、『記憶喪失の探偵』を名乗った。この店の珈琲は、この街の三つの塔の影が一番濃くなる時間に淹れる。そう、古時計台が鳴る少し前の時間だ」 


 男は、真鍮の鍵とメモ帳、鉛筆をポケットから取り出した。

 メモ帳には、殴り書きで「神代(かみしろ)」とだけ書かれている。


 店主は、使い古されたしおりと、白黒の古びた写真の二つを差し出した。


「この中央の女性、千鶴(ちづる)。五十年前、この写真の翌朝、自宅の洋館で姿を消した」 


 しおりの裏面には、小さな星と、そこから伸びる三本の線で構成された紋様。

 そして、千鶴が読んでいた本は、『夜想曲(ノクターン)の庭』。

 館の地下に隠された財宝を探す物語。

 


「この紋様は、千鶴さんの失踪と何の関係が?」 


「誰も分からなかった。だが、私はこの紋様を、どこかで見た気がする。それは、この街の、誰かの切望が石になった場所でね」 


 神代は、マグカップを一気に飲み干した。

 そして、メモ帳に紋様を正確にスケッチする。

 その手の動きが、あまりに迷いなく滑らかであることに、神代は小さな違和感を覚えた。

 この動きは、過去の誰かの習慣だ。

 しかし、その違和感は、探偵としての強い予感に塗り替えられていく。


--- 


 洋館は、丘の上、街を見下ろすように佇んでいた。

 正面の窓ガラスは割れ、中庭に落ちた薄暮の光は、割れたガラスの破片に反射し、千鶴の逃亡劇の断片のようにきらめいている。

 


 神代は、真鍮の鍵で扉を開けた。

 屋敷の中は、埃、カビ、そして千鶴の華やかで、しかしどこか哀しい香水の残り香。


 図書室で、深緑の革装丁の『夜想曲の庭』を見つけた。

 物語の財宝のありかは、館の窓から見える、星の配置図だという。


 神代は、しおりの紋様を窓の外の庭の景色に重ね合わせた。


 庭の隅には、他の木々とは異質な三本の糸杉。

 そして、その間に、石造りの井戸。



星:井戸 


三本の線:三本の糸杉 



「これは、暗号だ」 


 井戸は、ただの井戸ではない。

 隠し扉だ。

 煉瓦の継ぎ目に指をかけ、力を込める。

 


「ゴリッ……」 


 錆びた蝶番が悲鳴を上げ、井戸の蓋がスライドする。

 地下室への階段が現れた。


 神代は、階段を降りた。

 地下室は、湿った土の匂いが充満している。

 奥の壁際には、一筋の細い月の光が差し込み、中央の木箱と日記帳を、スポットライトのように照らしていた。

 この光こそが、千鶴の「救済の光」のようだった。


 木箱の中は、日記帳と、一束の熱烈な手紙。

 神代は、千鶴の日記帳を開いた。


「――あの人の瞳は、この退屈な檻の外の、遠い海の色をしている。私たちは、この地下室を『夜想曲の庭』と名付けた。財産は鎖。だが、私たちが手に入れるのは、世界で最も価値のある、自由という名の、魂の救済。明日、この日記を埋め、過去の私への決別を誓って、古時計台の下で彼と合流し、この街を出る」 


 日記は、強い決意の熱を帯びていた。

 失踪は、愛の成就だった。


 その時、神代は、自分の手が日記を握りしめていることに気づいた。

 彼の体は、彼女の情熱と決意に共鳴している。

 記憶はなくても、この謎を解くことが、過去の自分を繋ぐ「鍵」であるという確信が、微かな温もりとして胸に広がった。


 そして、千鶴の日記にあった「古時計台の下で彼と合流」という言葉。

 しおりの紋様は、単なる井戸の暗号では終わらない。



--- 


 古書店は、深夜の静寂に包まれていた。


「解けたかね、探偵さん」 


「ええ。千鶴さんは、愛と共に自由を勝ち取った。財宝は、魂の救済でした」 


 神代は、しおりの紋様を指差した。


「この紋様は、井戸と糸杉であると同時に、この街の地図です。三本の線は、店主が言った三つの塔。星は、その中央にある古時計台。彼女は、自分たちの愛の隠れ場所を暗号化した一方で、後に続く探偵のために、この街の中心への道標を残した」 


 店主は、グラスを静かに置いた。


「千鶴さんは、貴方に、鍵を渡したわけだ。彼女の『夜想曲の庭』は愛と自由で完結したが、貴方にとっての物語は、これから始まる。古時計台の下に、何があるのか。それは、貴方の探偵としての資質が導き出す答えだ」 


 神代は、アームチェアに深く腰を下ろした。

 珈琲の湯気が、彼の目に映る。


「私の記憶はまだ戻らない。しかし、私の魂は、この謎の先に進むことを知っている。私の名が神代であることも、私が探偵であることも、全ては彼女の残した招待状から始まった」 


「謎は、いつだって、新しい謎を生むものだ」店主は静かに言った。

「夜が明けるまで、君の記憶の謎を、千鶴さんの最後の謎と、ゆっくりと混ぜ合わせて、味わうといい」 


 古書店は、夜の帳の中で、古紙と珈琲と、そして、新しい探偵の決意の匂いを、深く吸い込んでいった。

 時計台の鐘が、遠く、深く、二度鳴った。

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