蒼バスとガラス玉

夏目よる (夜)

第1話 蒼の沉溺

森川青が玄関のドアを開けると、センサーライトがゆらめきながら点き、細やかな電流音が響いた。まるで、水野汐がかつてマイクに向かってわざと幼音で喋っていた調子のようだ。


靴を脱ぐ手が一瞬止まった。指先が玄関棚に積もった薄い埃のイルカ置物に触れた——これは汐が10歳の誕生日にくれたもので、陶製の表面は触り込んでツヤが出ているが、尾びれの一角が欠けている。去年の引っ越しのときに落としたのだ。


靴を替えることもなく、青はまっすぐ浴室へと向かった。


白いタイル壁は日差しに温められており、真ん中には昔ながらの楕円形のバスタブが嵌め込まれている。何度も拭き上げられた磁器の表面は、執着的とも言える深い蒼さを纏っている。これは彼女がこの家に引っ越す際の唯一の条件だった。母は彼女に拗ねられて、結局元の白いバスタブをこの深海蒼のオーダーメイドに替えてくれたのだ。


蛇口をひねると、お湯がバスタブの底に叩きつけられ、細やかなしぶきが跳ねる。音が狭い浴室に響き渡る中、青は壁にもたれてしゃがみ込み、水面が徐々に上がっていくのを見守った。湯がバスタブの三分の一を覆ったところで、彼女は手を伸ばして蛇口を閉めた。


服を脱ぐこともなく、青はそのままバスタブに足を踏み入れた。


蒼い湯が瞬く間に足首を包み込み、ズボンの裾からじわじわと浸み込んでいく。綿のパーカーが水を吸って重たくなり、体に密着した。青は体を丸めて膝を胸に抱き、腰の長さまで伸びた濃い青の髪が水面に散らばり、まるで溶けた墨のようだった。


湯温はちょうど良く、冷たくも熱すぎず、まるで汐がかつて彼女の手を握っていた温度だ。


ポケットからガラス玉を取り出した。透明な球体の中に青い砕けた模様が封じ込められている——これは汐が海辺で拾ってきたもので、「この中に一片の海が入ってるんだ」と言ってくれたのだ。青はガラス玉を湯の中に置くと、それはゆっくりと沈み、バスタブの底を数回転がり、排水口のそばで止まった。


「今日も先生とケンカしちゃった」


青はガラス玉に向かって声を掛けた。声は湯気に包まれて曖昧に滲んでいた。

「美術の授業で、紙一面に蒼色を塗ったら、先生にいい加减に描いてると叱られた。でも……ただ蒼色を描きたかっただけなんだ」


水面に波紋が広がった。浴室の窓が閉まっておらず、風が入り込んで湯面を乱したのだ。だが青は、汐が彼女に応えてくれているように感じた。


先週のダイビング事故の報道が蘇った。ニュースによれば、汐の酸素タンクのバルブに故障が生じ、海中で酸素が途絶え、仲間が発見した時にはもう手遅れだったという。警察が事情聴取に来た時、最後に汐と連絡を取ったのはいつか聞かれ、青はスマホを握り締めた。画面には三日前のチャット履歴が止まっていた——

【汐:土曜日海でダイビング行こう!超綺麗なサンゴ礁見つけたよ!】

【青:行かない、画用紙仕上げなきゃ。一人で行って、またトラブル起こすな】

【汐:ふん、けち!じゃあ一人で行くね!】


最後の「じゃあ一人で行くね」は、汐がいつものように撒きん坊なトーンだった。だが青は決して想像もしなかった——これが彼女の耳に入る最後の言葉になるとは。


もしあの日、意地を張らなければ。もし汐と一緒に行っていれば。全てが違っていたのではないか?


この問いは細い棘のように喉に刺さり、一呼吸する度に痛みが走った。青は顔を膝に埋め、肩が細かく震えた。涙が湯の中に落ち、蒼のバスタブと溶け合い、どれが水でどれが涙か区別がつかなくなった。


突然、浴室のドアに軽いノック音が響いた。


青は驚いて頭を上げ、心拍数が一瞬止まったようだ。母が帰ってきたのかと思った。だがドアの外から聞こえてきたのは、見知らぬ少女の躊躇いたげない声だった。

「森川さん?おうちにいますか?クラスの橘奈緒です……」


橘奈緒?


青は眉をひそめた。この名前を覚えていた。クラスでいつもカメラを背負っている女の子で、明るすぎる性格で、沈黙ばかりの自分とは全く別の世界の人間だ。どうしてここまで来たのか?


「大丈夫だよ」

青は声を抑え、普段通りのトーンになるように努めた。

「何か用事ですか?」


ドアの外の奈緒が一瞬躊躇した後、紙が擦れる音が聞こえた。

「先生からノートを届けるように言われたんです。今週三日も休んでるから、ノートが溜まってるでしょ?玄関の棚に置いておくね、忘れずに取ってね」


青は応じなかった。外の足音がだんだん遠ざかっていくのを確認して、ようやく肩の力を抜いた。


手元の湯の中を見ると、ガラス玉が静かに底に横たわり、青い砕けた模様が光の下でゆらめいていた。青は手を伸ばしてガラス玉を掬い上げ、頬に当てた。冷たい触感が混乱した思考を少しだけ整理してくれた。


汐は、自分がこんな状態でいるのを望んでいないはずだ。


道理は分かっている。だがどうしても、踏み出せなかった。


湯はだんだん冷め始めた。だが青は立ち上がる気配もない。蒼い湯の中に体を丸めたまま、時が一秒一秒過ぎていくのを任せていた。ここにいる限り、汐に関する、消えようとしている痕跡を少しでも捉えられるような気がしたのだ。


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