第3話

 その帰り道、よりによって、今一番会いたくない奴と会ってしまった。


 スカ区とノミ屋の事務所は真反対の位置にあり、メインストリートを横切ろうとしていた時だった。何の気なしに競龍場がある山の方を見た瞬間、そいつと目が合った。

 人通りが多いお陰で俺の様子ははっきり見えていないだろうけど、追ってくるという確信があった。


「……疲れたから少し休む」

「ざまあみろ」


 予想通りニコラスはそう吐き捨てて先に行く。俺はメインストリートを渡って横道に入ると、肩を貸した男を端に投げ捨て、何食わぬ顔でさらに道を変える。


「なんで逃げるの?」


 シイナ──妹の声が後ろから聞こえた。


 まともに会ったのは競龍学校を辞めてこの街に帰ってきた一月ほど前か。できればまだ会いたくはなかった。俺は泥だらけの躰も隠さず、堂々と足を止めて振り返る。


「久しぶりだな。なんか用か?」


 俺の汚れた躰をまじまじと見てくる。

 シイナは腰まで伸びた髪を全体を布で包んで束ね、毛先だけをはみ出させている。服装は抑えめにして髪を包む布の柄で遊ぶところは小さい頃から変わらない。今日は白と淡い青を使ったデザインか。大人びようとしている雰囲気はあっても子供っぽい趣味だ。


「わたしのこと避けてるよね?」


 長々と話したくなかった。

 この辺りはメインストリートの商業組合が雇った衛兵のおこぼれで治安が良く、現地住民向けの店が軒を連ねて女子供で賑わっている。この中なら目立ちはしないけど、他人に見られるリスクは極力減らしたかった。


「気のせいだろ。俺も忙しいんだよ。じゃあな」


 身を翻そうとして、シイナに手を握られた。以前と同じ柔らかい感触だ。


「なんで競龍学校を辞めて帰ってきたの?」

「……俺の勝手だ」


 手を振り解こうとしても離れない。シイナが覗き込むように俺の眼を見上げてくる。


「勝手でも理由はあるでしょ? それを話してよ」

「それも俺の勝手だ」


 空いた手を使ってシイナの手を引き剝がした。今度は俺を捕まえようとはしない。無言で俺を見続けて、俺も無言で目を逸らす。


「お父さんとお母さんが死んじゃったから?」


 俺は何か答えようと口を開く。丁度いい言い訳が思いつかず、口をつぐんで背中を向けた。そのまま歩を進める。


 シイナもそれ以上は追ってこなかった。




 回り道して男を捨てた場所まで戻り、拾い上げて事務所に帰った。ニコラスは同僚と出くわしてそのまま酒を飲みに行ったらしい。

 俺は待機していた下っ端に男を預け、二階の休憩室に上がって腰を落ち着けた。


 約三千万ルーブル。


 それが死んだ両親が残した借金の総額だった。


 この街で真っ当な職に就いたとしても、返すのに何十年と掛かる。このままノミ屋の用心棒をしていればもう少し早く返せるだろう。ただ、それまで俺が生きている保証はない。


 現実的には返済不可能な金額だ。


 そもそも、両親が借金を抱えていることすら知ったのすら一月半ほど前のことだった。


 この街を挟む大国の一つ──リントウ帝国の競龍学校を卒業間近という時、両親が死んだという知らせを受け取った。


 帰った時には既に火葬され、代わりに待っていたのがノミ屋だった。


 元々、学費の支払いは遅れていた。俺が成績優秀だったから待ってもらえていたけど、返す当てがなくなり退学を余儀なくされ、借金を返す為にノミ屋の用心棒に収まった。


 あれ以来、夢から覚めたばかりの、まどろみのような感覚が続いている。


 両親への恨みは、多分ない。あるのは疑問ぐらいか。よくこれだけの大金を借りれたな。それなのによく俺たちを育てられたな。そして何より、この力だ。


 俺は人差し指を立てた。指先に意識を向けると、先端に火が点る。


 『神の加護』と呼ばれる力だ。


 太陽神や地母神といった神々に信仰を捧げることで、その神から加護を得た人間が使える力──それが神の加護だ。


 この街で使える人間はまずいない。リントウ帝国にいた頃は貴族たちが使っているのを見たけど、普通はそういった上流階級の人間しか使えない。


 ただし、本当の神の加護はもっと強力だ。俺が両親から教わった神の加護は便利ではあるけど、蠟燭に火を点けるのが関の山でそれだけで食っていくにはしょぼすぎる力だ。


 そこで我に返り、俺は自分自身を鼻で笑った。


 今の俺にそんな疑問は意味がない。野垂れ死ぬまで一生奴隷。いや、奴隷なだけマシなんだろう。大金の代償が用心棒で済んでいるんだから文句を言えた義理はない。その程度で済ませたノミ屋のボスに感謝してもいいぐらいだ。


 ただ、それで俺の人生は終わる。


「くだらねえ」


 息は吐き、自己憐憫を止めた。考えても空しいだけだ。


 指先に灯した火がやけに明るく感じる。外を見やると日が沈もうとしていた。経った時間は数時間かもしれないし、数日かも知れない。あの日以来、俺の時間感覚は漠然としたものに変わっている。


 事務所を閉めようと一階に降りるとニコラスがいた。下っ端の姿はなく、頬を仄かに赤らめたニコラスは椅子の背もたれにしな垂れかかって天井を仰いでいる。


「妹がいるんだな?」


 ニコラスが言った。その声は微塵も酔っちゃいない。


 よりによってこいつに見られたのか。その通りだよ──俺は言葉ではなく視線で答えた。ニコラスは含み笑いを漏らして笑顔を向けてくる。


「怒るなよ。別に取って食いやしねえよ」


「後先は考えて行動しろよ。やるのは自由だけどな、お互い様だぞ」


「仲間の家族に手なんか出すかよ」


 ニコラスが立ち上がる。まっすぐ俺に向かってきた。改めて見ると女のように小さい男だ。奇襲以外の暴力も不得手。それなのに、ツケの回収を任されている。


「仲間なんて思ったことないだろ」


「まさか。これから飲みに行くか、お兄ちゃん」


 陽気に肩を叩かれた。こいつが挑発に冗談を返せているから、こっちは冗談で済ませられなくなる。


「勝手に行け。いつも通りは夜は俺が詰める。下っ端はもう帰したんだろ?」


「さっきな。ま、そういうことならご縁がなかったってえことで」


 ニコラスが事務所を出ていく。その間際、奴はまた含み笑いを漏らした。

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