半歩前のメルミと、ゆりえのがま口 ― 螺旋のレクイエム ―

リリフィラ

第0話:愚者 ― 灰色の崖を落ちるための旋律 ― ①



 世界から色彩が剥落し、静止した「空白」となってから、七日が過ぎた 。


 葬儀という騒々しい儀式が去った後の部屋は、かつての喧騒を嘲笑うかのように、粘度の高い静寂に満たされている 。窓から差し込む冬の斜光さえもが、ゆりえの瞳には凍りついたアスピリンの破片のように見えた。光は暖かさを失い、ただ網膜を無機質に突き刺すだけの、鋭利なノイズと化している。


 鼻腔の奥にこびりついて離れないのは、手向けられた百合の芳香ではない。看取りの二ヶ月間、ゆりえの指先を白く荒れさせ、感覚を麻痺させ続けた、あのアルコール綿の鋭利な匂いだ 。肺の奥で空気を吸い込むたび、薄いプラスチックの膜をメスで擦るような不快な摩擦音が脳裏に反響し、彼女の自意識を執拗に削っていく。


「……もう、全部やったから。やれることは、全部」


 剥き出しの壁に放った声は、乾いた砂のように崩れ、床に溜まった塵(ちり)と同化した 。

 視界の端には、乾いた泥の塊をつけたままのバギーが、亡霊のように居座っている 。その泥は、メルミが生きていた最後の「時間」を固着させたまま、清潔すぎる部屋の秩序をあざ笑うかのように黒く、重く沈んでいた 。


「後悔なんて、あるはずがない。私は最期まで、あの子の傍にいたのだから」


 自分を納得させるための、あまりに正しく、あまりに冷徹な理屈。しかし、その強固なはずの論理を、堰を切ったように溢れ出した涙が容易く粉砕していく 。

 思い出は、もはや救いなどではない。それは今の自分を、メルミを救えなかった「無力な者」として吊し上げ、断罪し続ける終わりのない刃だ。温かな体温の記憶も、鼻の奥で鳴る「フガフガ」という湿った呼吸音も――それらを脳裏に現像することは、この空虚で無慈悲な現実を、永遠の真実として固定することと同義だった。


(……だから、私は、全てを解体することにした)


 ゆりえは、肩にかけたレンガ色のがま口に指をかけた 。

 それは、何も持たず、自責の重力から逃げ出すために用意された、彼女自身の「空っぽ」の魂の器だ 。


「パチン」


 口金が跳ねる硬質な音が、真空のような部屋の時間を無理やりこじ開ける。

 がま口が広げた闇の深淵を覗き込んだ、その刹那だった。


『――守りたいなら、来なさい』


 耳元で、風の残響を縒り合わせたような女の声が響いた 。

 それは警告ではなく、郷愁と罪悪感に震えながらも、今のゆりえが捨て去ろうとしている「熱」を必死に繋ぎ止めようとする、切実な招きであった 。


「……え?」


 振り返る暇も、その声の主を疑う余裕も与えられなかった。

 ゆりえは自らの意志で、自らの重力ごと、がま口の闇が作る奈落へと意識を投げ出した 。


 視界が、古びたスエードが放つ「無」の色に飲み込まれていく。

 意識の上下が反転し、ゆりえの身体は底のない深淵へと放り出された。肉体の境界が曖昧になり、肺に残っていたアルコール綿の匂いさえもが、加速する闇に剥ぎ取られていく。


(……ああ、私は落ちている。私という、閉じた回路の中に)


 ふと、右手に確かな、そして異質な重みがあった。

 見れば、そこには今しがた自分が飛び込んだはずの、あのレンガ色がま口が握られている 。

 自分が「中」にいるのか、それとも「外」から持っているのか。大きさの概念は、捨て去ったはずの現実の論理と共に霧散していた。この小さな器こそが今の彼女のすべてであり、それ以外は何も持たない「空っぽ」の自分を象徴している。


 その思考を、強烈な「水平の火花」が射抜いた。


 垂直に、受動的に落下し続けるゆりえの瞳を、真横から切り裂くようにクリーム色の塊が躍り出る 。

 奈落の壁を、あの日失われたはずの「生の傲慢さ」が駆け抜けていく。

 四本の短い足が、目に見えない水平な「道」を力強く蹴り、ゆりえの鼻先をかすめる距離で「フガッ、フガッ」という、あの生命力に満ちた鼻鳴らしが響き渡った 。


 重力に翻弄されるゆりえに対し、その生き物は自身の重力を完全に統御し、堂々と「半歩前」の虚空を横断していく 。


「……メル、ミ……?」


 その名は、落下する恐怖と絶望を塗りつぶすハミングの、最初の旋律となった 。

 空っぽの器を握りしめたまま、ゆりえの墜落は、色彩を奪還するための、時速百キロの疾走へと反転する。


 モノクロームの霧の向こう側に、色彩の剥げた灰色の断崖がその牙を剥こうとしていた 。


(つづく)

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