第2話 「常連になりかけの客」

その店に入れるのは、

死にたいと思ったことがある人間だけだ。


少なくとも、そういう人間にしか、

あの暖簾は見えない。


 


 朝の電車は、いつも同じ速さで揺れる。吊り革の白い輪が、車両の端から端まで並んでいる。そこにぶら下がっている指が、同じ形をしているように見える。指の節、爪の白い縁、スマホの角。全部が規格品みたいだ。


 俺はその規格の中に混ざっている。混ざれているふりをしている。胸の奥が薄いのに、身体だけが人の列に合わせて動く。駅の改札を通るとき、ピッという音がする。あの音はいつも、少し遅れて頭に届く。


 会社のエントランスはガラスが多い。外の光が入る。受付の前に観葉植物が置いてある。葉が埃をかぶらないように拭かれている。誰かが毎日拭いているのだろう。そういう小さな手間が、ここでは当たり前の顔をして置かれている。


 俺は自分のデスクに座る。パソコンを開く。通知が鳴る。メールが溜まっている。件名だけが並ぶ。内容を読む前に、指が勝手にマウスを動かす。クリックする。スクロールする。返信の定型文が脳内に浮かぶ。手が追いつく。


 昼休憩の時間になると、同僚が立ち上がって言った。


「真白、飯行く?」


 名前を呼ばれたのに、反射が遅れる。視線を上げると、同僚の口が笑いの形をしている。笑っているかどうかは分からない。形がそうなっているだけだ。


「あ、うん。……行く」


 返事が少し途切れた。途切れた瞬間に、周りの空気が一拍だけ止まる。止まったのに、誰も気にしない。誰も気にしないふりがうまいから、空気はまた流れる。


 食堂の照明は白い。白すぎて、顔の影が薄い。トレーの上の定食が整列している。揚げ物の匂い。ソースの匂い。味噌汁の湯気。全部が分かりやすくて、分かりやすすぎて、胃が少しだけ拒む。


 同僚が話す。プロジェクトの愚痴、上司の口癖、週末の予定。俺は相槌を打つ。声の高さを合わせる。口角を少しだけ上げる。鏡がなくても分かる。これは笑いの練習だ。


 箸を持つ。米を口に運ぶ。噛む。飲み込む。味はある。なのに、舌に残るのは味よりも、口の中の乾きだ。水を飲む。冷たい。冷たいのに乾きは薄くなるだけで消えない。


 午後の会議室は空調が効きすぎている。スーツの袖から冷えが入る。資料が配られる。紙の匂い。インクの匂い。誰かがペンを回す音。画面に映るグラフ。数字が動く。数字は嘘をつかない顔をしている。嘘をつかない顔ほど、疑わしく見える。


 俺は頷く。質問されると答える。答えるときに、自分の声が少しだけ上ずる。上ずった声が、会議室の白い壁で反射して戻ってくる。それを聞くと、喉の奥が熱くなる。熱くなっても、声のトーンは変えない。変えないほうが楽だ。


 終業のチャイムはない。パソコンの画面を閉じるタイミングは自分で決める。みんなが立ち上がると立ち上がる。エレベーターのボタンを押す。開く。乗る。降りる。ビルの外に出る。夜の空気が頬に触れる。昼より湿っている。


 帰る。帰れる。


 そう思ったのに、足が駅へ向かわなかった。向かわないまま、角を曲がっていた。商店街の裏。昨日の路地の近く。自分から行くつもりはなかった。つもりはなかったのに、そこだけが視界に入る。


 路地が一本だけ暗い。奥が見えない。外の街灯の光がそこだけ避けている。避けられているのは路地なのか、俺なのか分からない。


 昨日と同じ滲みが、奥にある。暖色。電球の色が湿った空気に溶ける。


 俺は舌で唇の内側をなぞった。乾いている。今日も乾いている。昼に水を飲んでも残っている乾きだ。


 息を吐く。息は白くならない。なのに、胸の奥が冷える。


 暖簾が見えた。


 白い布。黒い文字。文字は今日も滑る。目が追うほど逃げる。逃げるのに、入口だけは確かにそこにある。昨日よりも抵抗が少ない。抵抗が少ないことが不気味だった。


 俺は一歩踏み出す。胃が縮む。喉が乾く。乾きが、背中を押す。


 暖簾をくぐった。


 


「お」


 声がした。昨日と同じ低さ。


「皿係」


 言い方が軽い。軽いのに刺さる。刺さるのに、刺さった場所が分からない。言葉が喉の奥に当たって止まった。


 店主はカウンターの奥に立っている。エプロンは昨日と同じ。まな板と包丁。鍋。湯気。台所の匂い。


「俺、名前あるんですけど」


 言った瞬間、自分の声が少し硬い。硬い声は自分のものじゃないみたいに聞こえる。


「あるな」


 店主が包丁を止めずに言う。


「でも、ここじゃいらない」


「いらないって」


「いらない」


 そこで話が切れる。切れるのに、切れた場所が気持ち悪くて、俺はもう一度口を開きそうになる。


 店主はちらりと俺を見る。目がこちらの顔ではなく、手元に落ちる。俺の指先。爪。乾きの具合。見られている感じがして、手をポケットに入れたくなる。


「昨日、皿洗った」


 店主が言う。


「洗った」


 俺は返す。


「じゃあ、皿係」


 理屈がない。理屈がないのに、押し返せない。押し返せないのは、言い返す元気がないからだ。元気がないと言葉にした瞬間に、元気があるふりをしなきゃいけなくなる。だから、黙る。


 カウンターに座る。木が冷たい。昨日より冷たく感じる。昨日は冷たさに気づく前に、頭がざらついていた。今日は冷たさが先に来る。つまり、俺は昨日よりも現実に寄っている。寄っているのに、ここにいる。


「水」


 店主が言って、何も聞かずにコップを置く。透明なガラス。水。音が小さい。


 俺は飲む。喉を冷やす。冷やすと、胸の奥の薄さが少し厚くなる。厚くなるのに、安心はしない。厚みが戻ると、その厚みの中にあるものも戻ってくる。


「今日も来た」


 店主が言う。


「来たくて来たわけじゃ」


「来た」


 言葉が切られる。切られると、反論が形になる前に消える。俺は舌先で歯の裏をなぞった。乾きはまだ残っている。


 暖簾が揺れた。


 客が入ってきた。


 


「うわ、なにここ」


 入ってきたのは二十代くらいの男だった。スーツっぽいけど、ネクタイは緩い。髪は整っているのに、目の下だけが薄く青い。口元は笑っている形。形だけが先にある。


「深夜食堂? てか、映える? 写真撮っていい?」


 言い方が軽い。軽いのに、声が少し浮いている。浮いている声は、喉の奥が乾いている人の声だ。


 男はスマホを持ち上げかけて、指が止まった。止まったのはためらいじゃない。手が微かに震えている。震えを隠すために、男は笑いの形を強める。


「ダメかー。まあいいや。ねえ、なんか出してよ。ここ、なんかそういう店でしょ」


 俺は男を見る。見ると、男は目線を合わせてくる。合わせてくるのに、瞳の中心が合わない。焦点が少しずれている。ずれているのに、口だけが饒舌だ。


 店主が言った。


「映えない」


 短い。


「喉に刺さる」


「最高じゃん」


 男が笑う。笑い声が乾く。乾いた笑いが店内に落ちて、床で小さく割れるみたいに散る。


「刺さるの好き。俺、今、刺さってないと死んじゃうタイプ」


 冗談の形をしている。形だけ。言い終えたあと、男の喉仏が上下した。唾を飲み込む動き。飲み込むものが足りない動き。


 店主は包丁を置いた。置く場所は昨日と同じ。刃が触れない位置。指先が一瞬止まる。止まってから、鍋のほうへ移る。


「何を食いに来た」


「え、なに、メニューから選ぶの? てか、メニューどこ」


「ない」


「ないのか。じゃあ、店主が作る感じ? 任せる。俺、なんでも食える」


 男は言い切って、すぐに付け足した。


「いや、なんでもって言うのは嘘。パクチー無理。あと、俺、辛いのも無理。でも映えるならいける」


 言いながら、男の手が膝の上で動く。スマホを持ったり離したり。指先が落ち着かない。


 店主が言った。


「忘れたいのか」


 男の笑いが止まる。止まったのは一瞬。男はすぐに笑いの形を戻す。


「うん。忘れたい。めっちゃ。いや、忘れたいって言うと重いね。やだな。もっと軽く言いたい」


 男は舌で唇を湿らせようとして、うまく湿らない。乾いている。乾いているのに、口だけが動く。


「忘れたい人がいる。っていうか、忘れないと、俺、どこにも行けない」


 どこにも行けない、という言葉が出たあと、男の肩がほんの少し下がった。下がった瞬間、笑いの形が崩れかける。崩れかけたのを、男は歯を見せて持ち上げる。


「忘れたら、楽になるでしょ」


 男が言う。自分に言い聞かせるみたいな速さ。


 店主は男を見ない。鍋の前で手を動かしながら言った。


「楽になると思う?」


「なるなる。絶対。だって、思い出すたびに胃がキュッてなるし。あ、今の、ちょっと気持ち悪かった? ごめん、言い方。まあ、とにかく、忘れたい」


 男の指がカウンターを叩く。叩いているつもりはない。指が勝手に動いて、木を打つ。コン、コン。乾いた音。音が一定じゃない。一定じゃないことが、落ち着かなさを目立たせる。


 店主が言った。


「忘れると、空く」


「空く?」


 男が聞き返す。聞き返した瞬間、笑いの形が少し弱まる。


「空くと、何が入る」


「え、何それ、怖い話?」


 男はまた笑う。笑うとき、喉が少し詰まる。詰まったのを、咳払いで誤魔化す。


 店主はフライパンを出した。火をつける。油の匂いが立つ。焦げる前の匂い。これから焼く匂い。


「名前」


 店主が言った。


「え?」


「忘れたい奴の名前」


 男の指が止まる。止まった指が、爪を少し噛む。噛んでから、慌てて手を下ろす。噛む癖を見せたくなかったんだろう。でももう見えた。


「言うの、やだな」


 男は笑う。笑うと、目の下が少し痙攣する。


「言わないとダメ?」


「言わないなら食うな」


 店主の声は変わらない。変わらない声が、男の笑いの形を削っていく。


 男は息を吸う。吸う量が浅い。浅く吸って、短く吐く。


「……ユイ」


 男が言った。小さな音。店内の湯気に消えそうな音。


 俺はその名前を聞いて、何も思わないはずだった。知らない名前だ。知らないのに、舌の裏が少しだけざらついた。ざらつきは、昨日の小鉢を食べたときのざらつきに似ている。似ていると言葉にすると、また思い出す。だから、黙る。


 店主が皿を出す。焼いたもの。香りが強い。醤油と、砂糖と、焦げ。焦げの匂いは、台所の匂いに混ざると生活になる。生活になると、逃げ場がなくなる。


「執着焼き」


 店主が言った。


「やだな、その名前」


 男が笑う。笑いが薄い。薄い笑いの裏で、喉が鳴る。生唾を飲み込む音。


「執着って、なんか、未練がましいじゃん。俺、未練がましいとかじゃない。だって、俺が悪いわけじゃないし」


 男は言い切って、すぐに口を閉じた。言い切ったのに、自分の言葉に引っかかったみたいに。引っかかったところを、歯で噛み切ろうとする。


 店主は何も言わない。皿を置く。箸を置く。水も置く。


 男は食べる。最初の一口は勢いがある。勢いがあるのに、噛む速度が遅い。味を確かめるより、喉に通るかを確かめている。


 二口目で、男の眉がほんの少し寄る。寄ったのに、すぐに戻す。戻すのが速い。速いから、寄ったことが逆に目立つ。


 男が三口目を飲み込んだとき、手が止まった。


 止まったのは箸じゃない。男の顔が止まった。目が一点を見る。見ているのに、見えていない目。


「……え」


 男が小さく声を漏らす。漏らした声が、店内の湯気に吸われる。


「どうした」


 俺が言った。自分の声のほうが驚いていた。


「名前」


 男が言う。口を開いて、閉じて、もう一度開く。


「なんだっけ。今、言ったのに。言ったよね。え、俺、言ったよね。え、待って」


 男は笑おうとする。笑えない。口角が上がりきらない。上がりきらない口の形が、かえって危うい。


「ちょっと待って。ユ……ユ……」


 男が言う。言葉がそこで止まる。止まると、男の喉仏が何度も上下する。飲み込む動き。飲み込むものがない動き。


「やばい。出てこない。え、嘘でしょ。え、最高」


 最高、と言いながら男の指が震える。震えは大きくなる。大きくなるのに、男は笑いの形を作る。作って、崩れて、また作る。


「名前が、出てこない。え、すご。俺、勝ったじゃん。勝った。これで勝った」


 男は笑う。笑い声が乾く。乾いた笑いが、さっきよりも高い。


 俺はその笑いを見て、箸を持つ手が冷えた。冷えは指先から来る。指先が冷えると、腕が少しだけ重くなる。


 店主が言った。


「空いたな」


 男の笑いが止まる。


「え?」


「空いた」


 店主は同じ言い方をする。同じ言い方が、男の顔の筋肉を少しずつ固める。固めるのに、男は笑いの形をやめない。


「空いたって、なにが」


「名札が落ちた」


 店主が言う。


「名札?」


「おまえの中の」


 男は口を開けたまま、閉じる。閉じたとき、唇が乾いてひび割れそうに見える。ひび割れそうに見えるのに、男は舌で湿らせようとして、うまく湿らせない。


「まあ、いっか」


 男が言った。軽く言おうとしている。軽く言い切った瞬間、目が少し泳ぐ。泳いだ目が天井を探して、床を探して、俺のほうに来る。


「なあ、俺さ、顔、思い出せるかな」


 男が俺に聞いた。店主じゃなく、俺に。俺は答え方が分からない。分からないとき、喉が乾く。乾いた喉が、声を薄くする。


「……分かんない」


 俺はそう言うしかなかった。


「だよね。分かんないよね。でもさ、名前だけだよね。名前だけ。顔は残るよね。だって、顔って映像だし」


 男は自分で自分を説得する。説得の言葉が速い。速い言葉の間に、息が足りない。


 店主が言った。


「顔は残る」


 男の肩が少しだけ落ちる。落ちると、息が一つだけ深くなる。


「よかった」


 男が言う。よかったと言いながら、指先がまだ震えている。


「じゃあ、帰る。ありがとう。マジで助かった。俺、これでちゃんと生きられる」


 生きられる、という言葉が出た瞬間、男の口角が上がりきらない。上がりきらないのに、言葉だけは上向きだ。その差が、俺の目に引っかかった。


 男は立ち上がる。立ち上がったとき、膝が少しだけ揺れる。揺れを隠すように、男は背筋を伸ばす。


「次、来てもいい?」


 男が言った。


 店主は即答しない。包丁を取り、まな板の上の何かを切り始める。トン、と音がする。一定の音。一定の音が返事みたいに続く。


「来るなとは言わない」


 店主が言った。


「でも、常連は嫌いだ」


「なんで」


「混ざる」


 店主の声は短い。短いから、意味だけが残る。混ざる。昨日も言われた言葉。


 男は笑う。軽く笑う形を作る。


「混ざるの、何が悪いの。人生、混ぜたほうが楽しいじゃん」


 男はそう言って、暖簾へ向かった。暖簾をくぐるとき、男の背中が少しだけ固い。固いのに、歩幅は軽く見せている。見せているから、かえって違う。


 男が出ていくと、店内が少し広くなった気がした。広くなったのは錯覚だ。空気が薄くなった。薄くなると、耳に入る音が増える。鍋の煮える音。換気扇の回転音。水滴が落ちる音。


 俺は言った。


「今の、救いじゃない」


 自分でも驚くくらい、言葉が出た。出た瞬間、喉の奥が熱くなる。熱くなるのに、声は冷たい。


 店主は手を止めない。


「救いが欲しいなら宗教へ行け」


 昨日と同じ言い方。今日も同じ。


「ここは台所だ」


 その言葉は、昨日より重く聞こえた。重いのに、押しつけではない。重い物を置いただけ。


「でも、名前が」


「名前は道具だ」


 店主が言った。


「道具は欠ける」


「欠けたら、困るだろ」


 俺の声が少し上ずる。上ずった瞬間、俺は口を閉じる。上ずると、正しさを主張しているみたいに聞こえる。主張はここでは滑る。滑るのに、刺さる。


 店主が包丁を置く。置く音が小さい。小さい音が、俺の言葉を切る。


「困るのが嫌なら、最初から持つな」


 店主は俺を見ない。見ないのに、俺の胸のあたりを見抜いているみたいな言い方をする。


「それ、乱暴だ」


 俺は言う。乱暴という言葉が出たとき、舌がざらついた。ざらつきは、昼の食堂では出なかったざらつきだ。ここでは出る。


「乱暴に見えるだけだ」


 店主が言う。


「おまえは、救いって言葉で責任を薄めたいだけだ」


 責任。昼の会議室で出た言葉と同じ。なのに、ここで聞く責任は違う匂いがする。洗剤じゃない。焦げと、湯気と、湿った木の匂いの中の責任だ。


 俺は言い返せない。言い返せないまま、指先が冷える。冷えると、指が勝手に握られる。爪が手のひらに当たって痛い。痛いのに、離さない。


「おまえ、正しいふりがうまい」


 店主が言った。


 正しいふり。ふり、と言われた瞬間、胸の奥が少しだけ薄くなる。薄くなると、昼の規格の世界が戻ってくる。あの白い照明。あの笑いの練習。あの相槌。俺はふりをしている。それは分かっている。分かっているのに、ふりと言われると、喉が詰まる。


 俺は水を飲んだ。冷たい。冷たいのに、詰まりは残る。


「俺が、救いを求めてるみたいに言うな」


 俺はそう言った。言った瞬間、声が少し震えた。震えは怒りじゃない。怒りと決めると楽になるのに、決められない震えだ。


 店主は言った。


「救いを求めてないなら、怒るな」


 短い。返しが速い。そこに余計な同情がない。同情がないから、俺の言葉が浮く。


 俺は口を閉じる。閉じた口の中で舌が動く。何か言おうとして、言葉が見つからない。見つからないま思考だけが回る。回ると、胸の薄さが増える。増えると、息が浅くなる。浅い息は、店の湯気に負ける。


「皿」


 店主が言った。


 俺はシンクのほうを見る。皿が二枚。箸が二膳。水の匂いがする。洗剤の匂いがする。生活の匂いがする。


 俺は立ち上がって皿を洗い始めた。泡が立つ。泡が立つと、指先に感覚が戻る。戻る感覚が、俺の頭のざらつきを少しだけ薄める。薄めるだけで、消えない。


 洗っているとき、暖簾がまた揺れた。外の風が入ったのかと思って顔を上げる。入口のほうには誰もいない。なのに、暖簾が微かに揺れている。揺れ方が、誰かが通り過ぎた揺れ方だ。


 俺は泡のついた手を止めた。止めた瞬間、水が流れ続ける音が強くなる。


 店主が言った。


「見るな」


「今、誰か」


「見るな」


 同じ言い方を重ねる。重ねられると、反射的に目が入口へ向く。向いたのに、誰もいない。誰もいないはずなのに、空気だけが少し濃い。濃い空気が、そこに何かあったと教える。


 俺は視線を戻した。皿の縁をこする。泡が落ちる。水が落ちる。指先が冷える。冷えが、さっきよりも強い。


 洗い終えて、拭く。布が水を吸う。吸われると、指の皮膚が突っ張る。


 そのとき、床に小さな音がした。


 カツ、と軽い音。硬い物が木の床に当たった音。


 俺は目を落とす。


 小さなキーホルダーが落ちていた。金属の輪。透明な樹脂の中に、小さな飾りが入っている。どこかのキャラクターみたいな形。子どもが持っていそうな、安っぽい可愛さ。


 さっきの男が落としたのだろう。男のポケットから、立ち上がったときに滑ったのかもしれない。そう思って拾おうとした。


 指先が触れた瞬間、匂いがした。


 匂い、としか言えない。香水でも柔軟剤でもない。台所の匂いでもない。湿った紙の匂い。古い引き出しの匂い。そこに混ざった、少しだけ甘い匂い。甘いのに、胃がきゅっとなる匂い。


 俺は息を止めた。止めたのに、匂いは鼻の奥に残る。残った匂いが、頭の中のどこかを叩く。叩かれた場所が、記憶に近いところなのに、そこに自分の記憶がない。


 俺はキーホルダーを握りしめた。硬い。硬いのに、指の中で少しだけ温度が上がる。上がる温度が気持ち悪い。気持ち悪いと言葉にすると、吐き気に変わりそうで怖い。


「落ちてた」


 俺は言った。声が低くなる。低くなると、落ち着いて見える。落ち着いて見えるのが、今は助かる。


 店主がこちらを見た。初めて、目が合う。目の中心がキーホルダーに落ちる。落ちた目が、一拍だけ止まる。止まったのは驚きではない。止めて、確かめる目。


「それ、持って帰るな」


 店主が言った。言い方がいつもより硬い。硬いのに、声は上がらない。


「なんで。落とし物だろ。返すだけ」


「返すなら、ここに置け」


 店主が言う。


「混ざる」


 またその言葉。混ざる。混ぜるな。昨日も今日も。


 俺はキーホルダーを見る。透明な樹脂の中の飾りが、光を反射している。可愛い。可愛いはずなのに、胸の奥が薄くなる。薄くなって、息が浅くなる。


「でも、置いといたら」


「置いとけば、戻る」


 店主はそう言った。戻ると言い切るのに、根拠の説明がない。根拠がない言い切りは、ここでは一番信用できる形をしている。


 俺はキーホルダーをカウンターの端に置こうとして、指が止まった。止まったのは迷いだ。迷いがあるのが、自分でも分かる。迷う必要がないのに、迷う。


 俺は店主を見た。店主は鍋のほうへ視線を戻している。俺を見ていない。見ていないのに、俺が迷っているのは分かっているみたいな背中だ。


 俺はキーホルダーをポケットに入れた。


 入れた瞬間、樹脂の硬さが布越しに手のひらに残る。残った硬さが、俺の体温で少しだけ温かくなる。温かくなると、匂いがまた立つ。匂いが立つと、さっき叩かれた場所がもう一度叩かれる。


 店主が言った。


「混ぜるな」


 短い。昨日より短い。短いほど刃になる。


 俺は言い返さなかった。言い返すと、ポケットの中の硬さが増える気がした。増える硬さが、俺の身体のどこかを壊しそうだった。


「帰れ」


 店主が言った。いつもの言葉。今日は少しだけ遠い。


 俺は暖簾へ向かった。暖簾はそこにある。見える。見えるのが当たり前になりつつあることが不気味だ。


 暖簾をくぐる前に、俺は一度だけ振り返った。


 店主は包丁を持っている。指先が止まる。止まってから、切る。切る音が一定に戻る。一定の音が、俺の胸の薄さを少しだけ押さえる。押さえるだけで、消えない。


 外へ出る。路地の空気が冷たい。冷たいのに、ポケットの中だけが温かい。温かいのが気持ち悪い。気持ち悪いと言葉にすると、吐き気に変わる。だから黙る。


 路地を出ると、街の音が戻る。車の音。人の笑い声。看板の光。全部が分かりやすい。


 分かりやすいのに、俺のポケットの中の硬さだけが、分かりにくい形で残っている。


 家に帰る道の途中で、俺はふと、キーホルダーを取り出しそうになった。取り出して確かめたくなる。確かめたら、何かが分かる気がする。分かる気がするのに、分かるのが怖い。


 俺はポケットの上から硬さを押した。硬さが返ってくる。返ってくる硬さが、俺の中の薄い場所に当たって、そこだけ少し濃くなる。


 濃くなった場所が、知らない匂いをしていた。

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