第5話 鎧が光る女と、盗まれた水袋
翌日正午。ヴァルノの市門前は、陽射しだけが妙に元気だった。石畳の照り返しがまぶしく、荷車の金具がきらりと光る。城門の影はくっきり落ちているのに、その影の縁だけ、黒い薄がぬらりと滲んでいた。人の流れは途切れず、門番の声が上から降ってくる。
ローマーは喉を鳴らし、空の口を舌で湿らせた。昨夜の煮込みの温かさが、もう遠い。ネマーニャは地図筒を抱え、門の柱に刻まれた記号を見上げてから、紙へ何本か線を引いた。寺院の方角の見当をつけているらしい。ベルジャコフは歩きながら、昨日の酒場の拍手を思い出したのか、指で太腿を叩いてリズムを取っている。スビツァは周囲の匂いを嗅ぎ分けるように、鼻先をわずかに動かしていた。
そこへ、太陽を連れて歩いてくるみたいな女が現れた。
胸当てにも肩当てにも、やたら飾りが付いている。角度を変えるたび、鎧の縁の金色がぱん、と光って目に刺さる。女は門番の前でぴたりと立ち、片手で顎を持ち上げ、もう片方の手で鎧を軽く叩いた。コン、という硬い音が鳴る。
「見なさい、この輝き。護衛の名刺代わりよ!」
言葉は知らないはずなのに、声の調子だけで意味が分かる。女は自分を指し、次に門を指し、さらに周囲の群衆を指して大きくうなずいた。護衛としてここに立つ、そう言っているのだろう。門番が何か返すが、女は負けじと胸を張り、鎧を太陽へ向けて反射させた。
門番が目を細め、少し後ずさる。周りの人まで眩しそうに顔を背け、誰かが笑った。笑いが起きた瞬間、黒い薄が一度だけ波打ち、また影の縁へ戻った。ローマーの胸の奥の影も、つられて形を変えそうになる。
女は笑いを味方にして、さらに大袈裟に口上を続けた。腕を広げ、足を踏み鳴らし、鎧を鳴らす。カチャ、カチャ、と金具が踊る。ベルジャコフが「それ、私の舞台でやりたい」と言いたげに目を輝かせた。
ネマーニャが、その女を指して紙に四角を描き、四角の周りに小さな星を散らした。眩しい、の絵だ。ローマーは思わず頷き、目を細めた。
そのとき、背中の方で「ぐうう」と腹の音がした。
振り向くと、少年みたいに細い男が、人混みの中で手を上げていた。手の中には、水袋。革の紐が切れかけている。男は水袋を掲げたまま、こちらを見て、にやりと笑った。
「それ、食える?」
ローマーは反射で「食えねえよ!」と突っ込んだ。突っ込んだのに、男はさらににやっとして、口をすぼめて水袋へキスの真似をした。喉が渇いているのが丸見えだ。
だが次の瞬間、男の肩を掴む手が二つ伸びた。衛兵だ。腰に鈴を下げた衛兵が、男の手首をねじ上げ、もう一人が水袋を奪い返す。周囲の空気が一気に固くなる。固くなるほど、影の縁の黒い薄が太くなる。
男は笑ったままだが、笑いの端がわずかに引きつっていた。逃げようとする足が、石畳に貼りついたみたいに止まる。衛兵が怒鳴り、門の影が伸びる。薄い霧が足首へ絡みつく。
ローマーは一歩、前へ出かけて止まった。言葉が通じない場所で口を挟めば、余計に悪くなるかもしれない。胸の影が「やめろ」と囁く。だが、さっき男が上げた手が、助けを求める形にも見えた。
その迷いを、鎧の女がぶった切った。
女が衛兵の前へ割って入り、鎧を鳴らしながら大きく手を振った。目立つ。とにかく目立つ。衛兵の視線が女へ吸い寄せられ、周囲の人も釣られて顔を向ける。女は衛兵の腰の鈴を指し、次に自分の鎧の金具を指した。鈴と金具、同じ音だ、と言いたいのかもしれない。
衛兵が一瞬、眉をひそめて鈴を押さえた。カラン、と小さく鳴った。
ローマーは、その音に反射した。鈴の鳴る間隔。歩くたび、少し遅れて響く揺れ。ローマーはリュートを抱え直し、弦へ指を置いた。弾けないのに楽器を買った。その指が、今は音の形だけを追いかける。
カラン。間。カラン。
ローマーは弦を軽く弾いた。ひどく細い音。次に、胴を叩いた。コツ。鈴の余韻と木の鈍い音が重なり、妙に間抜けな拍になった。
ベルジャコフがすぐ手を叩き、同じ拍を作る。パン、……パン。
ネマーニャも地図筒の底を指で叩き、紙の擦れる音を混ぜた。サッ、……サッ。
スビツァは指を鳴らす。パチン、……パチン。
四つの音が揃った瞬間、固かった空気が、ほんの少しだけゆるむ。誰かが吹き出し、門番が咳払いで笑いを隠した。鎧の女はその隙を逃さず、衛兵の肩へ掌を置いて、ぐいっと自分の方へ向けた。向けた瞬間、鎧の縁が太陽を跳ね返し、衛兵がまた目を細める。
男は、その間に水袋を差し出した。盗んだのではない、とでも言いたげに、両手で丁寧に返す。衛兵の手が緩む。男は逃げない。逃げずに、その場に残る。腹の音がまた鳴って、男は恥ずかしそうに肩をすくめた。
鎧の女が男の腹を指し、わざとらしく目を丸くした。周囲がまた笑う。笑いが重なると、黒い薄が影の縁から少し引いた。霧はまだいる。けれど、足首に絡む感じが薄くなる。
衛兵が男へ何か言い、最後に指を突きつけた。次はない、という仕草だ。男は胸を叩いて頷き、次にローマーたちへ向かって、掌を上げた。謝っているのか、頼っているのか、その両方みたいな手だった。
鎧の女が、今度は自分の胸を叩き、親指を立てた。名前を名乗るように、口を動かす。
「ヘルマン!」
ローマーは真似して胸を叩き、「ローマー」と言った。ネマーニャも紙に自分の名前の形を描き、指で示す。ベルジャコフは大袈裟にお辞儀して名乗り、スビツァは短く頷いた。
男は自分を指して、腹を押さえ、にやりと笑った。
「シェイフ」
シェイフは、返した水袋の持ち主を探すように周りを見回し、老人へ水袋を両手で渡した。老人が驚いた顔をし、次に、しわだらけの手でシェイフの頭を軽く叩いた。怒っているのに、叩き方が優しい。シェイフは鼻をこすり、笑って肩をすくめた。
ローマーは胸の影が、少しだけ黙るのを感じた。誰かが「逃げろ」と言わないで残った。それだけで、明日がほんの少しだけ近づく気がした。
ヘルマンが顎で門の内側を示し、歩き出す。護衛の歩幅は大きい。鎧がカチャカチャ鳴るたび、周囲の視線がついてくる。シェイフはその後ろで、腹を押さえながらも付いてきた。付いてきながら、屋台の湯気に鼻を向け、また手を上げる。
「それ、食える?」
ベルジャコフがローマーの顔を覗き込み、目で「分ける?」と聞いた。ローマーは昨夜残したパンの欠片を思い出し、首を縦に振った。ネマーニャが地図筒の底から小さな包みを出し、シェイフへ投げる。シェイフは受け取り、驚いた顔で包みを見つめ、次に、ゆっくり頭を下げた。
包みの中は、昨夜のパンの残りと、乾いた肉の欠片だった。シェイフは一口で飲み込みそうに口を開けたが、すぐ閉じた。代わりに包みを半分に割り、近くで立ち尽くしていた子どもへ差し出す。子どもは最初、目だけでパンを見て、次に母親の袖を掴んだ。母親が小さく頷くと、子どもは両手で受け取り、胸に抱えて走り去った。
シェイフは、空になった手を見下ろし、肩をすくめて笑った。笑い方は軽いのに、目はさっきより真っ直ぐだった。ローマーの胸の奥で、不安が心に潜む影となる気配が、ほんの少し遠のいた。
ヘルマンはそれを横目で見て、わざとらしく鼻で笑った。笑ったまま、鎧を指で弾く。コン、コン。合図みたいな二つの音のあと、城門の内側の白い塔を顎で示した。塔の先で、薄い鐘の音が鳴っている。夕方へ向かう刻を知らせる音だ。ネマーニャが地図に線を引き、その塔に丸を付ける。行き先が、言葉なしでひとつに揃った。
門の影の縁でうごめいていた黒い薄が、ふっと薄くなる。太陽が勝ったのか、笑いが勝ったのか、分からない。けれど会話に混じる足音が、同じ方向へ揃っていくのが分かった。
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