4話 そして追放へ
宮廷楽団に入団してから、二週間が経過していた。
音瀬奏の生活は充実していた。
午前中はマリーへのフルートの個人レッスン。午後は楽団の練習場でのリハーサル。そして夜はハインリヒに連れ回されて王都の酒場へ繰り出すか、自室で個人練習をする日々だ。
音楽に没頭できる環境。衣食住の保証。そして何より、自分の音を必要としてくれる人々がいる。
前の世界では、藝大生、それも国際コンクールに出るような実力があっても、音楽だけで生活するのは厳しかったことを考えるとまるで天国のよう。
そう、奏は思っていた。
その背後で、粘着質な悪意が渦巻いていることに気づきもせずに。
§
マリーの部屋の中で、不慣れなフルートの音が響いていた。
制御しきれずに裏返った高音が、静寂を切り裂く。
マリーが眉を寄せ、悔しそうに唇を尖らせている。
彼女の手には、ハインリヒが用意した初心者用の洋白銀のフルートが握られていた。
「大丈夫だよ、マリー。最初は誰でもそうなるから。もっと肩の力を抜いて」
奏はマリーの背後に回り込み、彼女の細い腕を支えるようにして構えを直した。
必然的に、身体が密着する。
奏が彼女の手首と指先に触れると、途端に頭の中にマリーの声が流れ込んできた。
『……難しいです、先生。息を入れているのに、音にならないなんて』
直接響く声は、少し拗ねていた。
「口の形――アンブシュアが少し硬いかな。ストローを軽く咥えるようなイメージで」
奏はマリーの指の上から自分の指を重ね、正しいキーの押さえ方を教える。
肌が触れ合っている間は、彼女の心の声が聞こえる。これはレッスンにおいて驚くほど便利だった。
彼女がどこに力が入っているのか、何に戸惑っているのか、言葉にする前の感覚がダイレクトに伝わってくるからだ。
『こうですか?』
「そう、その感じ。……じゃあ、もう一度吹いてみて」
奏が手を離そうとすると、マリーが慌ててフルートから片手を離し、奏の袖を掴んだ。
『待って! 離さないでください。……先生が触れていないと、不安で音が逃げてしまいます』
(そんな理屈はないと思うけど……)
奏は苦笑しつつ、結局そのまま彼女の手を包み込むようにして指導を続けた。
マリーにとって、奏とのレッスンは単なる音楽の勉強ではない。
閉ざされていた世界から、音という翼で外へ飛び立つための儀式なのだ。
『……いつか、先生みたいに綺麗な音が出せるようになりますか?』
マリーが上目遣いで見上げてくる。
「なれるよ。マリーは耳がいいからね」
『えへへ。……先生のおかげです』
甘やかな空気が流れる。
王女と専属教師。その関係は、周囲が思う以上に親密で、共依存的だった。
しかし、そんな穏やかな時間は、午後になると一変する。
§
その日の午後の練習は、王宮内の小ホールで行われていた。
来週に控えた定期演奏会の最終調整だ。
曲目は、ウェストリア王国の宮廷作曲家が書いた交響曲。
伝統的で厳格な構成の曲だが、奏がフルート首席奏者として加わったことで、楽団の響きは劇的に変化していた。
指揮者のカールがタクトを振る。
木管セクションのソロパート。奏が息を吹き込む。
黒いフルートから放たれる音色は、他の楽器を圧倒するほどの存在感を持っていた。
ただ音が大きいのではない。遠達性――音が遠くまで飛ぶ力が桁違いなのだ。
現代の地球で確立された奏法と、この謎めいた黒いフルートの相乗効果だろうか。奏の音が芯となり、ぼやけていたオーケストラ全体の輪郭をくっきりと縁取っていく。
演奏が終わる。
団員たちから、自然と感嘆の息が漏れた。
「すごいな、カナデ君。君が入ってから、全体が引き締まった気がするよ」
隣の席のオーボエ奏者が、興奮気味に話しかけてきた。
他の団員たちも、好意的な視線を向けてくる。実力主義の音楽家たちにとって、優れた演奏者は歓迎すべき仲間だ。
練習の休憩時間。
奏が壁際の給水ポットで水を飲んでいると、ポンと肩を叩かれた。
「お疲れ、カナデ」
コンサートミストレスのアメリだ。
彼女は姉が弟を世話するように、ハンカチを差し出してきた。
「汗かいてるわよ。はい、使いなさい」
「ありがとうございます、アメリさん」
「アメリでいいってば」
彼女は快活に笑うと、少し声を潜めて奏に顔を近づけた。その表情には、同僚としての純粋な気遣いが滲んでいた。
「……ねえ、少し耳に入れておきたいことがあるの」
「何ですか?」
「あんたの音、すごく目立ってるでしょ? それが面白くない連中もいるのよ」
アメリは視線だけで入り口の方を示した。
そこには、恰幅の良い中年男性が立っていた。高価そうなベルベットの上着に、これみよがしな宝石の指輪。尊大な態度で指揮者のカールを呼びつけている。
「あれはゲルマン伯爵。楽団のパトロンであり、第一王子派の筆頭貴族よ」
「……なるほど」
「この国には『伝統』や『格式』を何より重んじる保守的な人たちがいるの。あんたの革新的な演奏スタイルは、彼らにとっては異端に見えることもあるわ。それに、あんたを連れてきたのが第三王子のハインリヒ殿下っていうのも、政治的に目をつけられやすいのよ」
アメリは心配そうに眉を下げた。
「私はあんたの音が好きだし、味方だからね。でも、理不尽な横やりが入るかもしれないから、気をつけて」
奏はアメリの言葉に感謝しつつ、入り口のゲルマン伯爵を一瞥した。
伯爵の視線が、一瞬だけ奏に向けられた。そこにあったのは、明らかな嫌悪と侮蔑だった。
嫌な予感はしたが、奏は「まあ、よくあることか」と軽く受け流した。
音楽の世界では、スタイルや解釈の違いで衝突するのは日常茶飯事だ。自分の音が万人に受け入れられるわけではないことは、奏自身が一番よく知っていた。
§
その日の夕方。
奏はいつものようにマリーの部屋へ戻った。レッスンの続きをするためだ。
マリーは奏の顔を見るなり、練習していたフルートを置き、駆け寄ってきてその手を握った。
『おかえりなさい、先生!』
直接響く声が、嬉しそうに弾む。
「ただいま、マリー」
二人はソファに並んで座った。
マリーは奏の手を両手で包み込み、癒やすように体温を伝えてくる。
『楽団はどうでしたか? アメリとは仲良くやっているのですか?』
少し拗ねたような響きが含まれている。
「彼女はいい人だよ。色々と忠告もしてくれるし」
『……むぅ。先生は人が好すぎます。あの人は、絶対先生を狙っていますよ』
「まさか。弟みたいに思われてるだけだよ」
奏は苦笑した。
マリーは納得いかない様子だったが、それ以上は言わずにレッスンの準備を始めた。
奏の指がマリーの指に重なる。
その温もりだけが、迫りくる嵐の前の静けさの中で、確かな安らぎだった。
§
翌日。
練習場に行くと、異様な空気が漂っていた。
いつもなら団員たちが思い思いに音出しをしている時間なのに、今日は静まり返っている。
奏が入っていくと、全員の視線が一斉に突き刺さった。
同情、困惑、そして諦め。
譜面台の前には、指揮者のカールが立っていた。
彼は奏を見ると、辛そうに顔を歪め、そして意を決したように口を開いた。
「カナデ君。……残念だが、今日限りで退団してもらいたい」
練習場がざわめいた。
アメリがバイオリンを置いて立ち上がった。
「ちょっと、マエストロ! どういうことですか? カナデの演奏は完璧だったはずよ。彼を外して、来週の演奏会はどうするつもり?」
「黙りたまえ、アメリ! これは決定事項だ!」
カールが声を荒らげた。その手は微かに震えている。
奏は冷静だった。
昨日のアメリの忠告通りになっただけだ。
「理由をお聞かせ願えますか?」
「……君の演奏は、品がないのだよ。音量が大きすぎて、他の楽器との調和を乱している。伝統あるウェストリアの音楽にはふさわしくない」
品がない。音量が大きすぎる。
それは奏が、前世でも何度か言われたことのある批判だった。
ピリオド楽器(古楽器)のような繊細な響きを好む人たちにとって、現代フルートのようなパワーのある音色は「野暮」に聞こえることがある。
それは音楽的な好みの問題であり、ある意味で正当な批評だ。
もちろん、今回に限ってはそれが「政治的な排除」のための口実であることは明白だったが。
アメリがさらに抗議しようとするのを、奏は手で制した。
カールもまた、被害者なのだ。彼自身の本心ではないことは、その苦渋に満ちた表情を見ればわかる。
ここで奏が食い下がれば、カールや、庇ってくれたアメリまでもが巻き添えを食うかもしれない。
奏は静かにフルートをケースにしまった。
留め具を嵌める乾いた音が、静寂な練習場に響いた。
「……わかりました。音楽性の違いなら、仕方がありません」
「なっ、カナデ!?」
アメリが目を見開く。
「今までありがとうございました。皆さんと演奏できて楽しかったです」
奏は深々と頭を下げた。
無理に居座っても、良い音楽は作れない。
奏は練習場の出口へと歩き出した。
扉を開ける直前、背後からカールの小さな声が聞こえた気がした。
――すまない。
振り返らず、奏は外に出た。
§
楽団を追い出されたその足で、奏はハインリヒの執務室へと呼び出された。
部屋に入るなり、ハインリヒは机を拳で叩きつけた。
「すまない、カナデ!」
王子らしからぬ謝罪だった。
ハインリヒは悔しげに顔を歪めている。
「ゲルマン伯爵の横やりだ。第一王子派閥が、俺の連れてきた人間が活躍するのを面白く思わなかったらしい。……楽団への予算削減をちらつかせて、カールを脅したそうだ」
「そうでしたか。……まあ、僕の音がこの国には合わなかったということで、気にしないでください」
奏が淡々と答えると、ハインリヒは驚いたように顔を上げた。
「お前、強いな……。だが、俺が納得いかん。もっと強く出られればよかったんだが、今は時期が悪い。下手に動けば、お前の身に直接的な危険が及ぶ可能性があった」
ハインリヒは引き出しから、ずしりと重い皮袋を取り出し、奏に手渡した。
中には金貨が詰まっているのが感触でわかった。
「手切れ金ではない。俺からのせめてもの詫びと、これからの生活費だ」
「殿下、これは……」
「受け取れ。王宮にはもう置いておけん。奴らは執拗だ。お前がここにいる限り、何度でも嫌がらせをしてくるだろう」
ハインリヒは苦渋の決断を下したのだ。
奏を守るために、あえて手放すことを。
「王都の南区画に、身元を問わない宿がある。ほとぼりが冷めるまで、そこで暮らすといい。……才能あるお前を、こんな形で追い出すことになって本当にすまない」
奏は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、殿下。短い間でしたが、お世話になりました」
退出の挨拶をして、扉へ向かう。
その時、廊下から誰かが飛び込んできた。
マリーだった。
息を切らし、乱れた髪も気にせずに奏の元へ駆け寄る。
そして、奏の腕を力任せに掴んだ。
怒りと、悲しみと、どうしようもない無力感が、濁流のように奏の脳内へ流れ込んでくる。
『どうして……どうしてですか!』
悲鳴のような心の声。
『先生は何も悪くないのに! あんな素晴らしい音を奏でるのに、どうして追い出されなきゃいけないの!』
マリーは奏の腕を握りしめたまま、ハインリヒを睨みつけた。
言葉は出ない。けれど、その瞳は兄を激しく糾弾していた。
――なぜ守ってくれなかったのか、と。
ハインリヒは痛みに耐えるような顔で、視線を逸らした。
「……すまない、マリー。俺の力が足りないばかりに」
マリーの身体から力が抜けた。
兄を責めてもどうにもならないことを、彼女自身が一番よくわかっていたからだ。
今の自分たちには、権力に抗う力がない。
マリーは再び奏を見た。
その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
『行かないで……』
か細い声が響く。
『先生がいなくなったら、私はまた一人ぼっちです。暗闇の中で、誰の声も届かない世界に逆戻りです。……嫌だ、そんなの嫌だ!』
彼女の手が、奏の服を強く握りしめる。
爪が食い込むほどの強さだった。
一緒に連れて行ってほしい。そう言いたげな瞳だった。
けれど、マリーはそれを言わなかった。
自分が王族であり、籠の中の鳥であることを理解していたからだ。
無理についていけば、奏が「王女誘拐」の罪に問われるかもしれない。自分の存在が、彼にとって枷になる。
その理不尽さが、やるせなさが、マリーの心を切り裂いていた。
(ごめんね、マリー)
奏は、震える彼女の手を優しく包み込んだ。
(でも、約束するよ。僕は音楽をやめない。この王都のどこかで、必ずフルートを吹き続ける)
『……』
(だから、耳を澄ませていて。僕の音は、きっと君に届くから)
マリーは唇を噛み締め、涙を拭った。
そして、ゆっくりと、断ち切るように奏の手を離した。
繋がりが消える。
声が聞こえなくなる。
静寂が、二人を隔てる壁となって立ちはだかる。
マリーは口を動かした。
声にはならない。けれど、その唇ははっきりと誓いの言葉を紡いでいた。
――必ず、強くなります。
――誰も文句を言わせないくらい偉くなって、先生を迎えに行きます。
その瞳には、かつての無垢な少女の色はなかった。
あるのは、理不尽な運命に抗おうとする、王族としての覚悟の炎だった。
奏は深く一礼し、背を向けた。
背後で、マリーが泣き崩れる気配がした。ハインリヒがそれを支える気配も。
けれど、奏は振り返らなかった。
振り返れば、決意が鈍る気がしたからだ。
こうして、音瀬奏は宮廷を去った。
手元に残ったのは、黒いフルートと、ハインリヒから託された金貨、そしてマリーとの切ない約束だけ。
奏は王宮の門をくぐり、広がる王都の雑踏へと足を踏み入れた。
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