今日は月が綺麗ですね、でも君は醜い。

夢見のゆめこ

第1話 初恋

初恋、という言葉を思い出すたび、私は奥歯の裏側が痺れるような不快感を覚える。

 あれは中学3年生のちょうど進路を決めなければならない時期だった。相手は六歳上の大学生。通っていた個別指導塾の、国語の担当講師だった。落ち着いた声、整えられた指先、口元にある小さなほくろ。いかにも文系といった雰囲気をまとった落ち着いた男だった。女というものは、なぜだか年上に憧れてしまう時期があるもので。

「あれは、単なる憧れだったんだと思う」

 今の私なら、過去の自分にそう言い訳を用意してあげられる。けれどそれは、時効というものが効くような年齢になったからに過ぎない。

当時は進路の相談と称して話を聞いてもらったこともあった。進路相談という大義名分を盾に、彼との時間を一分一秒でも長く引き延ばそうと躍起になっていたのだ。

 彼が授業の合間に教えてくれたのは「愛してる」の誤魔化し方だった。

 教科書の文章を読みながら呟く。

「夏目漱石。彼はI love youを月が綺麗ですねと訳したと言われている」

「直接言わないあたり、日本人って感じですね。」

「美しいものに託して想いを伝える。そこに風情があると思うんだ」

 彼は満足そうに目を細める。

「素敵ですね」

 ただの臆病者じゃない。自分の言葉で自分の責任で「好きだ」といえない臆病者。

「先生、二葉亭四迷はなんて言ったんですか。」

「死んでもいいわ、だよ。」

「ふーん」

 それくらい直接的な方が私は好きかも、なんて。

「先生はどっちが好きですか」

「え?そうだな...」

 私の問いに、彼は少し意外そうな顔をしたあと、細い指先で顎に触れながら悩む素振りを見せた。

「僕は夏目漱石かな。あなたならこれで伝わるはずっていう信頼感がいいなって思う」

「私も、そう思います。」

 一口で言うなら、傲慢だと思った。自分が美しいと思っているものを、相手も同じように美しいと感じているはずだ、と信じて疑わないその姿勢。

 

「じゃあ、これでおわり。復習しておいてね」

「はい、ありがとうございました。あ、そうだ先生。」

 帰る支度をしながら問いかける。

「ん?」

「月が綺麗じゃなかったときはなんていえばいいんですか」

 きれいなものに愛を託すのならば、汚いものしかなかったとき一体何に想いを託すのだろう。

 彼の口が動いた。私は彼の薄い唇の端にある小さなほくろを、ずっと見つめていた。

 答えの意味を知るには私はまだ幼すぎた。

 帰り道に思ったことといえば今日は月が見えていなくてよかった。ただ、それだけだ。

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