それを始まりと呼ぶには
信号機の音が聞こえる。
ピッ、ピッ、ピッ――
どこか間延びした電子音が、朝の空気に溶け込むように鳴っていた。
進まなくてはいけない。
そんな気がして、足を前に出そうとする。
けれど、そこでふと気がついた。
「あれ?」
声にならない疑問が、喉の奥で引っかかる。
「……何処に行こうとしてたんだっけ?」
自分でも驚くほど、自然に浮かんだその疑問。
まるで、大事な前提をごっそり忘れているような感覚だった。
周りを見渡す。
朝の出勤、登校時間。
スーツ姿の社会人、制服の学生、スマートフォンを眺めながら歩く人、眠そうに欠伸を噛み殺す人。
結構な人数が、皆それぞれ急ぎ足に、あるいは朝特有の怠さを引きずりながら、横断歩道の前に並んでいる。
誰一人として、立ち止まらない。
迷っていない。
疑問を抱いていない。
――ああ、そうか。
その流れに乗るように、つい足を前に動かしてしまう。
信号が青に変わり、人の群れが一斉に動き出す。
オレも、その一部になった。
白線の上を踏みしめながら、信号を渡っていく。
人の肩がかすめ、鞄が揺れ、靴音が重なり合う。
流れに身を任せて歩いた。
けれど、胸の奥に引っかかる違和感が消えない。
――目的地は、どこだろう?
いや、それ以前に。
――そもそも、何でオレは外に出てるんだ?
頭の中で思考を巡らせる。
けれど、答えは出てこない。
名前。
年齢。
職業。
今日の予定。
どれも、霧がかかったみたいに曖昧だった。
信号を半分ほど渡った、その時だった。
――ドンッ!
まるで巨大な何かを、真上から地面に叩きつけたような音。
空気が震え、足元から衝撃が伝わってくる。
「……っ!?」
事故でも起きたのか?
反射的にそう思い、振り返った。
そして――
そこに、ある?
いた?
――違う。
在った。
それを視界が捉えた瞬間、全身の細胞が同時に軋み、悲鳴を上げた。
理解するより先に、身体が拒絶する。
心臓が、氷水に沈められたように強張る。
一拍遅れて、凍りついた血が無理やり流れ出す感覚。
喉が内側から掴まれ、肺が空気を拒み、叫び声は形になる前に押し潰された。
黒い。
形容する言葉がそれしか存在しないほど、
徹底的に、救いようもなく、黒い。
黒いナニカが、そこに在った。
大きさは、人間の三倍ほど。
だが大きさなど些細な問題だった。
光を一切反射しない。
いや――反射しないのではない。
奪っている。
視線も、光も、存在感すらも吸い込む、底なしの黒。
ブラックホールが、悪意を持って形を取ったような、
この世にあってはならない“塊”。
輪郭は定まらず、常にどろりと歪んでいる。
境界が曖昧で、どこまでがそれで、どこからが空間なのか分からない。
ゲームに出てくるスライムを連想させるが、
それは生ぬるい比喩だ。
これは、もっと生々しく、もっと人間的で、もっと冒涜的だった。
よく見ると――
見てしまったことを、即座に後悔する。
表面が、蠢いている。
皮膚のようなものが波打ち、
内側から何かが押し上げてくる。
――顔。
人間の顔だった。
目。
鼻。
口。
だが、それらは“顔”として成立していない。
溶け、引き伸ばされ、途中で千切れ、
別の顔と無理やり縫い合わされている。
何人分あるのか、分からない。
数えようとした瞬間、意識が拒否する。
口が裂け、歯が覗き、
次の瞬間には目になり、
鼻が潰れて喉へと変形する。
悲鳴を上げているようにも見える。
だが、笑っているようにも見える。
いや――
悲鳴と笑いの区別が、もう存在していない。
未練。
後悔。
恐怖。
死にきれなかった感情。
それらが混ざり合い、腐り、沈殿し、
最終的に「形」だけを得た――
そんな存在だった。
見ているだけで、
自分の中の何かが削り取られていく。
長く見てはいけない。
理解してはいけない。
それは、“見る側”をも取り込む。
そう、本能が警告していた。
きっと、上から落ちてきたのだろう。
オレがさっきまで立っていた場所。
そこにあった信号機は、根元から折れ、地面ごとひしゃげていた。
――死ぬ。
本能が、そう告げていた。
なのに。
周りを見ると、誰一人として立ち止まっていない。
誰も、見ていない。
黒い化け物のすぐ横を、スーツ姿の男が通り過ぎる。
学生が談笑しながら、その影の中を歩いていく。
「……は?」
声が、震えた。
何で?
何で誰も騒がない?
何で逃げない?
オレの視界には、確かにあの化け物がいるのに。
頭の中が、急激に混乱する。
「おかしい……だろ……」
世界が、ズレている。
自分だけが、違うレイヤーにいるみたいだった。
その時。
――ぬるり、と。
黒いナニカが、こちらを向いた。
無数の目が、同時にオレを捉える。
視線が、絡みつく。
ああ、分かった。
見えているのは、オレだけだ。
理解した瞬間、遅れて恐怖が爆発した。
「う、うわああああああっ!!」
今度こそ、叫んでいた。
化け物が、地面を抉りながら迫ってくる。
速度は遅いのに、距離が一気に詰まる。
逃げなきゃ。
考えるより先に、身体が動いた。
人の流れを無理やり掻き分け、横断歩道を駆け抜ける。
誰かにぶつかっても、誰もこちらを見ない。
「なんだよ……なんなんだよ、これっ!」
後ろから、湿った音が追ってくる。
振り返らなくても分かる。
あれが、追ってきている。
通りに出る。
車が走り、店が並び、人々はいつも通りの日常を送っている。
――なのに。
オレだけが、命の危機に晒されている。
混乱と恐怖で、頭がおかしくなりそうだった。
必死に走り、角を曲がり、細い道に入る。
人の数が減り、息が荒くなる。
ようやく、路地裏に飛び込んだ。
薄暗く、湿った空気。
背中を壁につけ、膝に手をつく。
「……はぁ、はぁ……」
巻いたか?
そう思った、その瞬間。
目の前の闇が、形を持った。
黒いナニカが、そこにいた。
逃げ場は、ない。
無数の顔が、歪んで嗤う。
――ああ。
妙に冷静な思考が浮かぶ。
オレ、ここで死ぬんだ。
次の瞬間、視界が黒に塗り潰された。
痛みも、音も、感覚も、すべてが遠のいていく。
オレの視界は、完全に暗転した。
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