神の位置から

LucaVerce

第1部:塩湖のアルテミア

 一七五七年。善意が銃弾よりも効率的に他国を蹂躙できることが証明されつつある時代。英国南部のライミントン塩田において、ひとつの発見があった。


 ジョン・ラッカム。彼は地元の名士であり、敬虔な信徒であり、そして致命的に無知な自称・博物学者だった。

 彼が塩湖の澱んだ水たまりの中にその生物を見つけたとき、最初に抱いた感想は「研究対象としての興味」ではない。

「救済が必要だ」

 という、傲慢な慈愛だった。


 体長一〇ミリメートル前後の、透き通った甲殻類。

 一億年前から姿を変えていないとされるその種を、彼はロンドンの邸宅へ持ち帰った。

 彼には金があった。時間があった。そして何より、「未開の生物を文明的な環境に導く」という、啓蒙思想に裏打ちされた使命感があった。


 彼は実験を開始した。


 1.楽園の構築

 まず、彼が着手したのは居住環境の改善である。

 彼らが住んでいた塩湖は、泥と藻にまみれた不衛生な場所だった。ジョンは眉をひそめ、最高級の設備を用意させた。

 イタリアから取り寄せた、歪みのないクリスタルガラスの水槽。

 そして底には、泥の代わりに、宝石のように美しくカットされた鋭利なガラス質の砂利を敷き詰めた。

「これが君たちの新しい家だ。王宮のように美しいだろう」

 ジョンは満足げに個体群Aを放った。

 三〇分後、異変が起きた。

 アルテミアの繊細な脚や尾は、泥の中を泳ぐために進化していた。鋭利にカットされた砂利の隙間は、彼らにとって無数の「虎挟み」だった。

 一匹、また一匹と、砂利の隙間に脚を取られ、動けなくなる。

 もがけばもがくほど、ガラスの刃が彼らの柔らかい腹部を切り裂き、透明な体液が漏れ出した。

 水槽の底で、生きたまま拘束され、上層を泳ぐ幸運な仲間を見上げながら餓死していく彼らを、ジョンは微笑ましく見つめた。

「旅の疲れが出たのだろう。皆、底で落ち着いて休息をとっている」


 2.清浄なる水

 次に、水質の改善である。

 塩分濃度二五パーセントという過酷な環境は、神が創造した生物にとってふさわしくない。喉が渇くだろう。肌が荒れるだろう。

 彼はそう判断し、水槽に蒸留酒のように透き通った、不純物ゼロの真水を満たした。

「聖書には海の水が塩辛いとは書かれていない。あれはノアの洪水の際の汚れだ。よって、真水こそが彼らの本来の姿なのだ」

 個体群Bを投入する。

 三秒後、全個体が激しく痙攣した。

 急激な浸透圧の変化により、細胞膜が耐えきれず、内側から破裂したためだ。

 プチ、プチ、という微かな音が水槽内で響き、水が白濁していく。

 ジョンは悲しげに首を横に振った。

「まだ、彼らの魂にはこの清らかさは早すぎたようだ。徐々に慣らしていく必要がある」

 彼は日誌に「水質への不適応」とだけ記し、白濁した水を庭に捨てた。


 3.文明的な食事

 食事も変えねばならない。

 泥やバクテリアなどという粗末な食事は、文明的な生物には適さない。彼は王室御用達の金魚の餌を用意した。高タンパク、高脂質の高級飼料である。

 彼はそれを乳鉢ですり潰し、水面に撒いた。

 個体群Cは、それを喜んで抱え込んだように見えた。

 数分後、水底に沈殿する死体が増え始めた。

 彼らの消化器官は、バクテリアを濾し取るためのものだ。高栄養価すぎる脂質はエラを塞ぎ、微細な粒子は消化管の中で水分を吸って膨張し、内臓を内側から圧迫した。

 窒息と腹痛の苦しみで、身体をくの字に折り曲げて死んでいく様を、ジョンは満足げに観察した。

「ああ、お腹いっぱい食べて、幸せそうに眠っている。やはり、良い食事こそが教養の第一歩だ」


 4.孤独の解消

 ある日、ジョンはふと気づいた。

「彼らは種族だけで固まっていて、社会性がない。これでは井の中の蛙だ」

 多様性こそが進化の鍵だ。彼はそう信じ、ロンドンのペットショップで、美しい銀色の小魚を購入した。攻撃性の低い、温厚な種である。

「友達だよ。仲良くしたまえ」

 水槽に小魚が放たれる。

 小魚に悪意はなかった。ただ、泳いだだけだ。

 だが、その魚が尾びれを一振りするだけで発生する水流は、数ミリのアルテミアにとっては「竜巻」に等しかった。

 水流に巻き込まれたアルテミアたちは、洗濯機の中のように回転し、目が回り、あるいは水圧で手足を千切られた。

 さらに、魚の排泄物によってアンモニア濃度が急上昇した。

 毒素に侵され、ふらふらと水面に浮いてきたアルテミアを、小魚が無邪気についばむ。

 ジョンは手を叩いて喜んだ。

「見ろ! 彼らがキスをしている! 種を超えた友情が成立したのだ!」


 5.愛の温度

 冬が近づき、ジョンは戦慄した。

 塩湖の水温は低い。だが、彼は自らの肌で感じる室温と比較し、一五度という水温を「虐待」だと断じた。

「こんな寒さでは、愛など育めるはずがない」

 彼は特注のヒーターを導入した。

 水温は二八度、やがて三〇度まで上昇した。

 温かいスープのような水の中で、アルテミアたちの代謝は極限まで高まり、寿命を削りながら泳ぎ続けた。

 だが、水温の上昇は、致命的な溶存酸素の欠乏を招いた。

 彼らは苦しんだ。酸素を求めて水面近くに密集し、数千匹が一斉に口器を激しく開閉させた。

 その光景を見て、ジョンは涙を流した。

「聞こえるか? 彼らが歌っている! 私の暖かな愛に、合唱で応えてくれているのだ!」

 彼は感謝の印として、ヒーターの出力をさらに上げた。

 翌朝、水面には茹で上がって桜色に変色した死の絨毯が広がっていた。


 6.教育という名の儀式

 数万の死体が積み上がった頃、奇跡的にすべての環境に適応した変異個体が現れた。

 ジョンはその個体を「アルテミア」と名付けた。ギリシャ神話の狩猟の女神の名だ。水槽という檻の中で、彼女だけが生き残った。

 彼は、彼女を「娘」のように愛した。

 そして、愛するがゆえに、教育を施した。

 毎晩八時になると、彼は部屋の灯りを消し、水槽のガラス越しにキャンドルをかざした。手には聖書、あるいはシェイクスピアの戯曲が握られていた。

「聞きたまえ、アルテミア。外の世界には『物語』がある。言葉がある。星がある」

 朗読が始まる。

 ジョンの低いバリトンボイスは、空気中では心地よい響きかもしれない。だが、水中では減衰することのない物理的な衝撃波となってアルテミアを襲った。

 逃げ場のない密室での轟音。

 彼女の微細な感覚毛は、その振動に耐えきれず麻痺し、平衡感覚を失わせた。

 恐怖に駆られた彼女は、不規則な軌道で狂ったように水槽内を逃げ回った。

 ジョンはページをめくる手を止め、恍惚の表情を浮かべる。

「……そうか。嬉しいか。この詩の美しさが、君の原始的な魂をも震わせるか。それが『ダンス』だ。君はやはり、選ばれた知性ある個体だ」

 誤解は、ガラスの厚みを超えて共鳴することはなかった。

 一方は愛を語り、一方は悲鳴を上げる。その地獄のようなディスコミュニケーションが、彼女の中に「光と振動=逃避」という条件反射を刻み込んでいった。


 7.強制進化

 彼は最後の実験に着手した。

「いつまでも水の中にいては、私と語り合えない。こちら側へ来なさい」

 水槽の水位を毎日一ミリずつ下げていく。エラ呼吸から肺呼吸への進化を促す、強制的適応実験である。

 水位が下がるにつれ、水質は悪化の一途をたどった。

 死んだ同胞たちの死骸が腐敗し、ヘドロとなって底に溜まる。

 生き残ったアルテミアは、仲間の死骸の上を這いずり回り、腐敗ガスを吸い込みながら、エラが乾燥して張り付く激痛に耐えた。

 泥の中でのたうち回る彼女を、ジョンは水槽の上から無邪気に応援した。

「頑張れ。あと少しだ。その殻を破れば、人間と同じ世界に来れる」

 そして、ついにその日が来た。

 極限のストレスと環境圧により、彼女は変異した。湿った空気の中から酸素を取り込む術を、奇形的な進化によって獲得したのだ。


 8.墜落

 ある晴れた日、ジョンは水槽の蓋を開けた。

 窓を開け放つ。ロンドンの曇天が珍しく晴れ渡り、真昼の太陽が部屋に差し込んでいた。

「行きたまえ。君が望んだ場所だ」


 アルテミアは、腐臭のする泥から這い出し、濡れたガラス面を登った。

 彼女の複眼が、強烈な光源を捉える。

 あれこそが、彼が毎晩語っていた「星」なのだろうか。振動の主が約束してくれた、約束の地なのだろうか。

 そこに行けば、もうガラスの砂利に切られることも、熱湯で煮られることも、轟音に怯えることもないのだろうか。


 彼女は跳ねた。

 水槽の縁を超え、乾燥したフローリングの上へと着地する。


 そこは、塩湖の底の五〇〇倍の光量に満ちていた。

 直射日光に含まれる紫外線が、色素を持たない透明な甲羅を透過し、内部組織を直接焼き焦がす。

 体内の水分が急激に気化し、体液の温度が沸点に近づく。

 神経節が白く焼けただれる音を、ジョンは聞くことができなかった。


 熱い。痛い。苦しい。

 違う。

 私が欲しかったのは、こんな焦熱地獄ではない。

 ただ、静かな誰もいない塩水の中で、藻を食んで生きたかっただけだったんだ。


 アルテミアは一二対の脚を激しく波打たせた。二〇〇回。二〇一回。二〇二回。

 そして二〇三回目に、すべての脚が硬直し、腹を上に向けて静止した。


 ジョンはしゃがみ込み、動かなくなった彼女を指先でつついた。反応はない。

 彼は少しだけ残念そうな顔をして、すぐに表情を切り替えた。

「光が強すぎたのだろうか。あるいは、まだ信仰心が足りなかったのかもしれない」

 彼は立ち上がり、ピンセットでアルテミアの死骸をつまみ上げた。

 机の横にあるバケツへ落とす。

 カサリ、と乾いた音がした。

 そこには既に、実験の過程で廃棄された数千、数万の「失敗作」たちが重なり合っていた。乾燥し、ひび割れ、ただの有機物の塵となった残骸の山。


 その死体の山の高さは、文庫本の背表紙の厚みにも満たない。

 だから、誰もその物語には気づかない。

































 あなたのせいで








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