第36話 沈黙の行間に咲くもの
翌日の稽古後、慧は急な打ち合わせで、スタジオに顔を出さなかった。
タイミングを見ていたわけじゃない。
でも、気がつけば私は控室の奥、書類や過去の脚本が雑多に詰まった棚の前に立っていた。
「……月下の檻、初期稿……」
紙の背表紙に鉛筆でそう書かれていた分厚い束を、私はそっと取り出した。
ページを捲る指が、ほんの少し震えていた。
こんな事をしている自分に、後ろめたさがなかったわけじゃない。
でも、それ以上に――知りたかった。
“有馬航生が描いた《月下の檻》の、本当の形を。”
「…………」
書き出しは、意外なほど静かだった。
セリフも少なく、舞台上の“沈黙”に意味を持たせる構成。
空気の変化で観客の呼吸すら支配するような、緻密な間合い。
そして、何より――
ヒロインの描き方が違っていた。
強く、脆く、逃げずに他人の罪を真正面から受け止めようとする女性。
誰かの代わりでも、何かの象徴でもない、ただひとりの人格を持った存在として。
「……これが……」
言葉が出なかった。
私が知っていた《月下の檻》では、ヒロインは“男に裏切られた哀れな女”として描かれていた。
でも、有馬の書いたヒロインは違う。
彼女は、決して被害者ではない。
選び、裏切られ、それでも信じることを選ぶ、覚悟を持った女だった。
ページをめくるごとに、言葉にできない感情が、静かに胸の内側を撫でていった
まるで自分自身の、誰にも触れられたくなかった部分を、暴かれていくような感覚。
でもそれは、不快じゃなかった。
むしろ、痛いほど正確だった。
この脚本を書いた人間は、ヒロインという存在の“核”を、見透かしていた。
「……ずるい……」
呟いた声が、部屋の静寂に溶けていった。
こんなものを、黙って書いていたなんて。
脚本を抱き締めた手に、力が入る。
視線の先で、最終幕のト書きが滲んでる。
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