雨上がりの青空 〜ふたり分の朝食〜
比絽斗
第1話 春の嵐
「……ねえ、本気なの? 私を追い出すって」
あかりの声は、震えていたが、それは悲しみではなく怒りによるものだった。 リビングの床には、彼女の派手な柄のキャリーケースが口を開けて転がっている。そこへ、可奈美がクローゼットから掴み出したあかりの服を、次々と無造作に放り込んでいく。
「本気よ。あなたの荷物はこれで全部? ああ、洗面所の使いかけの美容液も忘れずに持っていってね。二度とここには戻らないでちょうだい」
可奈美の声は、低く、冷徹だった。いつもの穏やかな「義理の姉」の姿はどこにもない。
「功! 何とか言ってよ! この人、おかしいよ。私たちが付き合ってるのに、なんで部外者のお義姉さんにこんなことされなきゃいけないの!?」
あかりが矛先を功に向ける。 功は壁際に立ち、自分の拳を強く握りしめていた。視線の先には、先ほどあかりのスマホに届いた通知が見えている。『今夜、いつもの場所で待ってる』。送り主は、功の同期で、あかりの浮気相手の男だった。
「部外者……か。あかり、ここは兄貴が住んでた部屋で、今は可奈美さんの名義で借りてるんだ。君を住まわせる義理なんて、最初からないんだよ」
「……はあ!? 何よそれ。今までさんざん私のこと『癒やしだ』とか言ってたクセに。結局、死んだお兄さんの影に隠れて、お義姉さんに甘えてるだけじゃない!」
「いい加減にしなさい!」
可奈美の鋭い声が、狭いリビングに響き渡った。 可奈美はあかりの目の前に立ち、その射抜くような視線で彼女を沈黙させた。
「功くんがどれだけあなたに尽くしてきたか、横で見ていて反吐が出たわ。彼の優しさに胡座をかいて、他の男と遊び回って……。功くんは兄の身代わりじゃないし、あなたの家来でもない。出ていきなさい。今すぐに」
「……フン、わかったわよ。こんな湿気臭い、死人の気配がする部屋、こっちから願い下げ。功も、一生そうやってお義姉さんの言いなりになってればいいじゃない! マザコンならぬ『義姉コン』ね。気持ち悪い!」
あかりは床の荷物を乱暴に足で蹴ると、キャリーケースのジッパーを無理やり閉めた。 玄関へ向かう際、彼女はわざとらしく功の肩を強くぶつけていった。
「さよなら。せいぜい、二人で仲良くお通夜みたいな生活を続けなよ」
バタン! とドアが閉まる音が、この部屋との縁が切れた合図だった。
静寂が戻った。 窓の外では、春の嵐が激しく吹き荒れ、雨がガラスを叩いている。
功は、膝から力が抜けるのを感じて、その場にへたり込んだ。 視界の端で、可奈美の細い肩が、小刻みに震えているのが見えた。
「……可奈美さん」
「……ごめんなさい、功くん。私、勝手なことして。あんな言い方、あなたを傷つけるだけだったかもしれない」
可奈美は顔を覆っていた手を離した。その瞳には涙がたまっていたが、彼女はそれを決して零さなかった。
「……いえ。ありがとうございました。俺、自分じゃ言えなかったから」
「……馬鹿ね。あんな子に、あなたの時間を一分一秒だってあげる必要はないのよ」
可奈美は、あかりが投げ捨てたクッションを拾い上げ、丁寧にパンパンと叩いて形を整えた。その仕草は、自分自身の乱れた心を取り繕っているようにも見えた。
「さて……。毒を吐いたら、お腹が空いたわ」
可奈美が不意に振り返った。その顔には、先ほどまでの「般若」のような厳しさはなく、どこか吹っ切れたような、寂しげな微笑が浮かんでいた。
「功くん。……冷蔵庫にピーマンがあるんだけど。食べる?」
「え、ピーマン……? 今からですか?」
「そう、今から。苦いものを食べて、体の中から掃除しなきゃ」
嵐の夜。 兄を亡くした二人の、歪で、けれど唯一の居場所が、本当の意味で再始動した瞬間だった。
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