第5話 彼女は、何も知らない

その日は、特別なことのない一日だった。


 だからこそ、少しだけ救われた気がした。


 午前中の講義を終え、俺は学食の端の席に座っていた。安い定食を前にして、スマホをいじるでもなく、ぼんやりと人の流れを眺めている。昨日までなら、こんな時間は落ち着かなかったはずなのに、今日は不思議と静かだった。


「……あ」


 声がして、顔を上げる。


 トレイを持って立っていたのは、黒瀬だった。


 同じ学部で、同じ学年。顔見知りというほど親しくはないが、名前と顔は一致する。研究室の噂で有名な、ちょっと変わった人。


「ここ、いい?」


「どうぞ」


 短いやり取りだけで、黒瀬は向かいに座った。


 白衣は着ていない。講義のときの、地味な服装。髪は無造作にまとめられていて、目の下に薄くクマがある。


 少し、疲れているように見えた。


「一人?」


「うん」


「そっか」


 それだけ言って、黒瀬は食事を始める。会話が続かないのに、気まずさはない。むしろ、こういう沈黙を苦にしないタイプなんだと、今さら気づく。


 しばらく、箸の音だけが続いた。


「ねえ」


 黒瀬が、不意に言った。


「最近、寝不足じゃない?」


 心臓が、わずかに跳ねる。


「……そう見える?」


「うん。顔」


 あっさりした言い方だった。責めるでも、探るでもない。


「ちょっとね」


「そう」


 それ以上、踏み込んでこない。


 黒瀬は、食事を続けながら、窓の外を見る。


「最近さ」


 独り言みたいに言う。


「説明できないこと、増えてない?」


 箸が、止まりかける。


「……例えば?」


 俺は、なるべく自然に返したつもりだった。


「うーん」


 黒瀬は少し考えてから、肩をすくめる。


「データが合わないとか。

 原因がないのに、結果だけあるとか」


 冗談めかした口調だった。


「まあ、研究やってると、よくあるんだけど」


 よくは、ない。


 でも、俺は何も言わない。


「でもさ」


 黒瀬は、俺を見る。


「そういう時って、決まって“誰かの生活”の近くなんだよね」


 言葉の意味を、測りかねる。


「生活?」


「うん。実験室じゃなくて、普通の場所」


 黒瀬は笑う。


「だから、余計に困る」


 その笑顔は、穏やかだった。

 何も知らない顔だった。


 それが、少しだけ胸に刺さる。


「……黒瀬は」


 俺は、話題を変える。


「研究、大変そうだね」


「楽しいよ」


 即答だった。


「分からないものが、分からないまま存在してるのが」


 その言葉に、俺は返事ができなかった。


 食事を終え、二人で学食を出る。午後の講義は別々だ。廊下の分岐で、黒瀬が立ち止まる。


「じゃあ、また」


「うん」


 一歩、歩き出したあと、黒瀬が振り返る。


「無理しないでね」


 それだけ言って、去っていった。


 理由も、説明もない。

 それなのに、不思議と残る言葉だった。


 午後の講義中、俺は何度も彼女の言葉を思い出していた。


 ――誰かの生活の近く。


 アパートに戻ると、部屋はいつも通りだった。電気も、エアコンも、何の問題もない。昨日のログのことを思い出しそうになって、首を振る。


 今日は、考えない。


 ベッドに腰を下ろし、天井を見る。


 黒瀬は、何も知らない。

 俺が何を手に入れたのか。

 どこまで世界に触れてしまったのか。


 だからこそ。


 この日常は、壊れやすい。


 俺は、そう強く思ってしまった。


 守りたい、という言葉は大げさだ。

 ただ――


 知らないままでいてほしい人が、

 初めてできた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る