第2話 能力を使わない一日

 目が覚めた瞬間、最初に思ったのは――夢だったかもしれない、という期待だった。


 天井のシミ。少し黄ばんだ壁紙。カーテンの隙間から差し込む朝の光。どれも昨日までと同じで、変わったところは何もない。心臓の音も、いつも通りだ。


 俺は、ゆっくりと起き上がった。


 机の上を見る。財布が置いてある。

 中身を確認する。


 一万円札は、ない。


 胸の奥が、少しだけ沈む。

 夢じゃない。


 昨日の出来事を、順番に思い出そうとする。声。歪んだ空間。消えた札。そして――説明できない確信。


 永久機関を、無から生み出せる。


 その考えが浮かんだ瞬間、体が反応しかけた。頭の奥で、何かを「作ろう」とする感覚。反射的に、俺はそれを押し止める。


「……今日は、使わない」


 声に出して言う。

 理由は単純だった。


 怖いから、ではない。

 興奮しているから、でもない。


 今日は、普通でいたかった。


 歯を磨き、顔を洗い、いつもと同じインスタントコーヒーを淹れる。湯が沸く音。カップに注ぐ音。全部、ちゃんと聞こえる。世界は、まだ壊れていない。


 ノートパソコンを開き、大学のポータルサイトを確認する。今日の講義は午後から。午前中は空いている。


 暇だ、と気づいてしまったのがまずかった。


 何もしない時間があると、人は余計なことを考える。


 俺は、部屋を見回した。コンセント。延長コード。電源タップ。昨日まで、何も疑問に思わなかったものばかりだ。


 視線を逸らす。


 試さない。

 今日は試さない。


 スマホが震えた。

 電力会社からの通知……ではない。講義のお知らせだった。


 拍子抜けしつつ、ベッドに腰を下ろす。その瞬間、冷蔵庫の音が――一瞬だけ、途切れた気がした。


「……?」


 耳を澄ます。

 すぐに、いつもの低い唸り音が戻る。


 気のせいだ。

 そう思うことにした。


 昼前、部屋を出て大学へ向かう。アパートの階段を下りながら、何度も振り返りそうになるのを堪えた。部屋に何かが残っているわけじゃない。それでも、自分が違う側に立ってしまった感覚が消えない。


 講義は、いつも通り退屈だった。教授の声が遠く、スライドの文字が頭に入ってこない。ノートを取るふりをしながら、俺はひたすら考えないようにしていた。


 もし、これが本当だったら。

 もし、昨日の声が正しかったら。


 その「もし」を考え始めたら、戻れなくなる。


 講義が終わり、学食で安い定食を食べる。味は覚えていない。ただ、ちゃんと金を払って、普通に食べているという事実だけが、やけに重要だった。


 午後、図書館で時間を潰す。スマホの充電が減っていくのを見て、無意識に残量を気にしている自分に気づく。


 ――それ、意味あるのか?


 そう思った瞬間、背筋が冷えた。


 意味がある。

 意味があると思わないと、危ない。


 夕方、アパートに戻る。鍵を開け、ドアを閉める。いつもと同じ動作。だが、部屋に入った瞬間、空気が少し違う気がした。


 静かすぎる。


 耳を澄ます。

 外の音はする。隣の部屋の生活音も、遠くにある。


 それでも、何かが足りない。


 俺は、深く息を吸った。


「……使わない」


 もう一度、言い聞かせる。


 シャワーを浴び、夕飯を済ませる。テレビをつけるが、内容は頭に入らない。バラエティ番組の笑い声が、やけに薄っぺらく聞こえる。


 その時、スマホが鳴った。


 電力会社からの通知。


 心臓が、一瞬跳ねる。


【お知らせ】

現在、ご請求情報の更新に遅延が発生しています


 それだけ。


 エラーでも、異常でもない。

 ただの遅延。


 画面を閉じる。

 偶然だ。まだ、偶然で片づけられる。


 夜。ベッドに座り、部屋の明かりを消す。暗闇の中で、天井を見上げる。


 昨日と同じ状況。

 でも、決定的に違う。


 今は、知っている。


 作ろうと思えば、作れる。

 止めようと思えば、止められる。


 それでも、今日は何もしなかった。


 その事実が、少しだけ誇らしく、そして――不安だった。


 我慢は、いつまで続く?


 誰かに見られたら?

 事故が起きたら?

 使わざるを得ない状況になったら?


 考え始めて、やめる。


 目を閉じる直前、部屋の奥で――

 何かが、静かに待っている感覚がした。


 見なくても分かる。

 触れなくても分かる。


 それは、急かさない。

 脅さない。


 ただ、そこにある。


 一万円で手に入れたものは、

 使わなくても、もう手放せない。


 その事実だけが、

 眠りに落ちるまで、

 ずっと頭から離れなかった。


□□□



主人公は慎重な性格です。


現時点で能力が本物だとほぼ確信しています。

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