第九章:ストックホルムの鐘の音

一九八〇年代の終焉と共に、僕たちが仕掛けた「文学的テロリズム」は世界中に放たれた。


新作のタイトルは、僕のiPhoneには存在しない、全く新しいものだった。その物語は、ノーベル賞作家としての村下冬樹(春樹)に期待されていた「洗練された知性」や「完璧な調和」を、無残なまでに裏切っていた。支離滅裂な暴力、出口のない井戸、そして何より、読者に一切の安らぎを与えない剥き出しの孤独。


その一冊が書店に並んだ瞬間、ストックホルムの鐘の音は、祝福ではなく警鐘のように響いた。


「これは詐欺だ」と、かつて僕らを絶賛した評論家たちは憤慨した。「高潔なノーベル賞作家が、自らその経歴を泥に塗った。これは文学の自殺だ」と。


だが、僕と春樹さんは、国分寺の薄暗い部屋で、その罵詈雑言を最高の音楽として聞き流していた。


「見てください。世界の温度が変わりました」 僕は窓の外を見つめた。完璧に整えられていた一九八〇年代の景色が、少しずつ、僕の知っている「不透明で不確実な世界」へと戻り始めていた。街を歩く人々は、完成された正解を与えられなくなったことで、再び自分自身の欠落に気づき、戸惑い、そして考え始めていた。


「これでいい」と春樹さんは、手垢で汚れた受話器を置きながら言った。先ほど、スウェーデン・アカデミーからの抗議の電話を切ったばかりだった。「名誉は返上できないが、権威を壊すことはできた。僕はまた、ただの『物語を書かずにはいられない男』に戻れたんだ」


その時、僕の手の中で、ずっと黙っていたiPhoneが不気味に震えた。 バッテリー残量、〇パーセント。 しかし、画面には信じられない文字が浮かんでいた。


[System Restored: Original Timeline Reconnecting]


「春樹さん、時間です」 僕の輪郭が、激しい火花を散らして消え始めた。歴史の修正プログラムが、ついに僕を「元の場所」へと引き戻そうとしている。


「佐藤君」 春樹さんは、消えゆく僕の目を見て、最後にはっきりと告げた。 「君がくれた『未来の言葉』は、もうここにはない。でも、君が僕の隣で過ごしたあの退屈で刺激的な時間は、僕の筆先に残っている。これから僕は、君の知らない物語を書くよ。それは、君のiPhoneのどこにも保存されていない、世界で最初の『不完全な物語』だ」


「……待っています」 僕は消えゆく声で答えた。 「十月の夜に、どんなに落選して、どんなにネタにされても、あなたが書き続けている。その事実だけで、僕は救われるんです」


視界が真っ白に染まり、ストックホルムの冷たい鐘の音と、ピーター・キャットに流れる古いジャズが混ざり合った。


再び目を開けた時、僕は二〇二五年の東京にいた。 手元のiPhoneは、相変わらず一%の残量を指して沈黙している。僕は震える手で、ニュースサイトを開いた。


『村上春樹氏、今年もノーベル文学賞を逃す。ファンからは「もはや秋の風物詩」の声』


画面に映る春樹さんの写真は、僕が知っているあの記念館の虚ろな男ではなく、どこか悪戯っぽく、深い闇を抱えた「現役の作家」の顔をしていた。


僕は、本棚に駆け寄った。 そこには、あの豪華な「村下冬樹全集」などどこにもなかった。代わりにあるのは、少し背表紙の焼けた、いつもの村上春樹の単行本たちだ。


僕は、最新刊の一冊を手に取った。 それは、僕のiPhoneのデータには存在しなかった、全く未知のタイトルだった。 あとがきをめくると、そこにはたった一行、こう記されていた。


「完璧な文章は存在しない。だが、共に完璧な失敗を夢見た友人のことは、今でも時折、レコードを磨く時に思い出す」


僕は本を胸に抱き、窓の外を見た。 そこには、不完全で、残酷で、しかし、どうしようもなく愛おしい、僕たちの愛した世界が広がっていた。

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