第五章:ハルキ・ムラカミの落選

一九八〇年代の中盤、世界は「村下冬樹」という現象に飲み込まれようとしていた。


本来なら、この時期の村上春樹はまだ『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書き終えたばかりで、海外での評価は萌芽(ほうが)に過ぎなかったはずだ。しかし、僕と彼が共謀して作り上げた「村下文学」は、未来の洗練と過去の熱量を同時に孕み、国境や言語の壁を軽々と飛び越えてしまった。


「ストックホルムからの風が、今年は東から吹いている」


文芸誌の巻頭を飾ったその一文は、もはや単なる期待ではなく、確信に近い予言として世間に受け入れられていた。僕たちはついに、歴史の最前線に立っていた。


だが、その栄光の影で、僕の「命」は限界を迎えつつあった。 iPhoneのバッテリー残量は、ついに二十パーセントを切った。


「見てください、春樹さん」 僕は、色あせた公園のベンチで、彼にiPhoneの画面を見せた。そこには、僕がもともといた二〇二〇年代のニュース記事のアーカイブが表示されている。『村上春樹、今年も受賞逃す』『ハルキストたちの溜息、四谷のカフェで』。


「これが、僕が書き換えたかった、あなたが本来辿るはずだった未来です。毎年十月の第二木曜日、あなたは世界中の期待を背負わされ、そして落選の報に『やれやれ』と肩をすくめる。そんな茶番が数十年も続くんだ」


春樹は画面に映る、少し老けた自分自身の顔を静かに見つめていた。 「気の毒な話だ。でも、この未来の僕の顔は、それほど不幸そうには見えないけれどね」


「あなたは強くても、ファンはそうじゃない。落選が定例行事になることで、あなたの文学そのものが、ある種のパロディとして消費されてしまうのが僕は耐えられなかった。だから、この時代(いま)獲るんです。誰も文句を言えない圧倒的な若さで、世界文学の頂点に立つんです」


春樹は吸いかけの煙草を足元でもみ消した。 「わかったよ、佐藤君。でも、そうなると一つ問題がある。君が言う『落選のアイコン』という役割を失った世界で、僕は、そして文学はどう変質してしまうんだろうね」


その問いに答える時間はなかった。 十月の第二木曜日。ストックホルムのアカデミーが沈黙を破るその日がやってきた。


例年なら、僕は東京のカフェでスマートフォンを握りしめ、速報を待っていたはずだ。しかし今、僕は一九八〇年代の「ピーター・キャット」の店内で、黒い電話機の前に春樹と並んで座っていた。


「緊張しますか?」と僕は聞いた。 「いや、不思議と静かな気分だよ。レコードの溝を掃除している時と同じくらいにね」


その時、電話が鳴った。 ジリリリ、というアナログな音が店内に響き渡る。春樹はゆっくりと受話器を取った。英語での短いやり取り。彼の表情は、まるで遠くの波音を聞いているかのように穏やかだった。


「……Thank you. Yes, I understand.」


受話器を置いた春樹が、僕の方を向いた。 「決まったよ。スウェーデン・アカデミーは、村下冬樹、つまり僕たちの作品を選んだ。史上最年少のノーベル文学賞受賞だ」


その瞬間、僕の目から涙が溢れた。やったんだ。歴史は変わった。もう彼が、秋の風物詩として揶揄されることはない。彼は正当に、そして誰よりも早く、世界の頂点に刻まれたのだ。


歓喜に震える僕の手の中で、iPhoneが短く振動した。 バッテリー残量、十パーセント。


それと同時に、僕の周囲の世界が、古いテレビの電源を切った時のように端から暗転し始めた。カウンター、レコード、そして目の前にいる春樹の姿が、細かな光の粒子となってほどけていく。


「佐藤君!」 春樹が叫び、僕の肩を掴もうとした。しかし、彼の指は空を切り、僕の体はもはや実体を持たない影へと変わっていた。


「春樹さん……おめでとうございます。僕はこれで、帰るんだと思います」 「待て、まだ何も話していない! 君はこれからどうなるんだ?」


「僕は……ただの読者に戻るだけです。でも、これだけは覚えておいてください。あなたがこれから書く物語も、僕はずっと読み続けます。たとえそれが、僕の知っている未来とは違うものになったとしても」


iPhoneの画面が最後の一光を放ち、真っ暗になった。 僕の意識は、深い井戸の底へと落ちていくような感覚に包まれた。 最後に聞こえたのは、春樹の「やれやれ」という、どこか晴れやかな溜息だった。

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