第3話:混合気のメランコリー

今日やるべきことは、本当は二つある。

出し忘れたクリーニングの大きな袋を店に届けること。それから、昨日からずっと澱のように溜まっている「なんとなく、どこかへ消えてしまいたい」という、輪郭のない気分にケリをつけること。


ガレージの隅、古新聞の束と生活雑貨に押し込まれるようにして、その小柄な鉄屑は立っていた。

ベスパ、P200E。

イタリアの石畳を駆け抜けるために生まれた、プレス鋼板のモノコックボディ。現代のスクーターのような滑らかなプラスチックの質感はどこにもない。そこにあるのは、冷徹な鉄の肌触りと、わずかに漏れ出した古いガソリンの匂いだけだ。


俺はスーツの袖を汚れぬよう慎重に捲り、床に置かれたオイルの計量カップを手にした。

こいつは「混合給油」という、今どき流行らない面倒な手間を要求してくる。ガソリンスタンドへ行く前に、あらかじめオイルとガソリンの比率を脳内で計算し、自らの手でタンクの中に黄金色のオイルを注ぎ込まなければならない。


「今日は、職場とは真逆の方向へ行ってみるか」

サイドパネルの丸みを帯びた鉄を撫でながら、独り言ちる。

「いや、あるいは、そのまま海沿いの国道を、燃料が尽きてこのエンジンが止まってしまうまで、走り続けてみるのも悪くない。何も持たずに、このスーツのままで」


予定という名の、自己対話。

本気で全てを捨て去りたいわけじゃない。ただ、左手のグリップを捻って、ワイヤーを介してギアを叩き込むたびに、社会的な肩書きや義務といったものが、少しずつ剥がれ落ちていく感覚を求めているだけだ。


ベスパ特有の、右側にエンジンが偏った奇妙な重心。

シートに腰を下ろすと、鉄のボディがギシりと鳴って、俺の体重を受け止める。


燃料コックを垂直に回し、チョークノブを引き抜く。

右足のキックペダルに足を乗せた。その感触は、重厚な大型車とはまるで違う。どこか軽やかで、けれど二ストローク特有の、反発の強い「生きた」手応えだ。


一発目。

パラン、パラン……という、心許ない音を立てて爆発は消えた。

二ストロークのエンジンは、まるで思春期の子供のような気難しさを持っている。優しく撫でるだけでは決して起きないし、かといって強すぎれば機嫌を損ねて、点火プラグを真っ黒なオイルで濡らして黙り込む。


「お前も、月曜日の朝は体が重いか」

俺は一度、深く息を吐いてから、ペダルを一番上まで戻した。

今度は少しだけスロットルを回し、自分の憂鬱を全て右足に乗せるようにして、奥まで一気に踏み抜く。


パララララッ、パラララッ……!

青白い煙とともに、甲高い、けれどどこか懐かしい排気音が狭いガレージを満たした。

焼けたオイルの、あの甘く、少しだけ鼻を刺す独特の匂いが、ヘルメットを被る前の顔を包み込む。この匂いを吸い込むと、頭の奥で凝り固まっていた「やるべきこと」のリストが、霧の中に消えていくのがわかる。


アイドリングは、まるで急かされる心臓の鼓動のように速く、軽快だ。

鉄のボディが細かく震え、ハンドルの先に付いた丸いミラーの中で、見慣れた退屈なガレージの景色が細かく揺れている。スロットルを煽るたびに、エンジンの咆哮がシートを抜けて、脊髄にダイレクトに響く。


「走り出すか」

俺はネクタイを締め直し、スーツの襟を正した。

「それとも、この白い煙の中に、今日の分の全ての迷いを閉じ込めて、ここでエンジンを切るか」


左手のクラッチを引き、グリップを「1」の目盛りへと捻る。

カコン、というプラスチックと金属が不器用にかみ合ったような、独特の変速音が足元で弾けた。


さあ、行こうか。

行き先は、まだ決まっていない。だが、走り出せば風が勝手に決めてくれるだろう。

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