第3話

「子宮口、開いてきてます。バルーンはもう取りましょう」

 股から「バルーン」の白い棒を飛び出させたままひょこひょこ歩いて辿り着いた内診室で、先生の話を聞いて安堵した。

 

 バルーンーー呼び名の通り棒の先に風船が付いたような医療器具。

 半日前説明を受けた際には、「膣に入れ、中で膨らませて子宮口をこじ開ける」というあまりにも物理的な使用方法に、面白さと恐怖で笑ってしまった。なんかこう、薬とかでは、できないんですか。

 

 とにもかくにもバルーンは役目を終え、私の中から取り出された。トイレの拍子に器具の一部が飛び出してきたからかなり焦ったが、問題なかったようだ。

 バルーンを入れた絶妙な痛み、それも座ると強く増す痛みの中で夕飯の時間になるのは嫌だと願っていたところでもあったので、私は入院してから初めて少し明るい気分になった。

 夕飯、おいしく食べられそうだ。病院食は結構うまい。

  

 振り返れば、妊娠してから食べることばかり考えている。

 

 帰国した私を待ち受けていたのは、猛烈な食べづわりであった。

 食べなければ吐き気をもよおすけれど、かと言って何でも食べられるわけではない。私の嗅覚は頼みもしないのに日毎研ぎ澄まされて、匂いすらだめな食べ物がどんどん増えた。

 そうなると不快感なく食べられたメニューを「食べやすいものリスト」に書き足していくことが、次の吐き気を迅速に抑え、何よりも自分の命を繋ぐために必要な、大切な日々の仕事となった。

 

 カレー、ポテトフライ、オムライス、たこ焼き、アイスクリーム……


 リストにはお子様ランチのようなメニューが並んだ。


 中でも丸美屋のちいかわカレーにはお世話になった。

 冷凍室の雑多な匂いをまとった解凍ご飯の味を、子供用カレーは不思議に甘いスパイスの香りとほどよいとろみで覆い隠してくれる。大好きだったお酒をやめて幼児退行した私の舌に普通のカレーは辛すぎた。

 

 つわりがおさまるまでの二ヶ月弱、吐き気を感じるたびにちいかわカレーを食べる日々。

 乗り越えた、ときには乗り越えられなかった吐き気の分だけ、おまけのシールが増えた。それをそこら中に貼ってはカラフルになってゆく家の中を眺めて、この家はもうすぐ子を育てる家になるのだと、常時うっすらと残るカレーの匂いの中に何度も思い描く。

 同時に、まだ産まないうちからこんなにシールだらけの家にしてしまって、これからの数年でどんなめちゃくちゃな家になるんだろうという不安も募った。貼らなきゃいいのに。

 

 つわりが終わっても私の食欲は止まらなかった。

 唾液とともにいつまでも口の中に変な味が湧いてきて、今度は甘い菓子類を食べずにはいられなかったのだ。

 

 体重は実に十八キロほど増えた。

 太り過ぎた身体に腰が悲鳴をあげて、杖無しでは歩けなかった時期もある。私は腰が痛いやら、何度注意されても体重管理できないことが気まずいやらで、思えば妊婦健診でもずっとエビのように背中を丸めていた。

 

 しかし今、バルーンが外れ、子宮口も開いた。

 分娩は明日。食欲に振り回される日々がやっと終わる。

 

 病院食が運ばれてくる。

 異常な食欲の傀儡となって味わう最後の夕食は回鍋肉だった。

 さすがに縁起が悪いので、「最後の晩餐」とは書かないことにする。

 

 

 

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