第2話 CJD
友人から電話があった。
息子が発症したらしい。
対処法を求められたが、「一度発症したら治療方法はない」と伝えると、何やら電話越しに怒鳴り声や嗚咽が聞こえたが、科学的に正しい知見を述べただけだ。
ここ数年世界各国で若年層のアルツハイマー様症状が問題となっているが、原因が分からない。
xxxやxxxの報告から、ウイルスもしくは細菌などの感染症に起因すると考える者が増えて来たが、私が知る限り、コッホの四原則を満たした報告は無い。
脳内に蓄積したアミロイドβから病原体を分離したという報告は出ているものの、いずれも第三者による追試験が上手くいっていないことから、科学的立証はされていない。
私もアミロイドβからの病原体分離を試みている身であるが、電子顕微鏡を何日間見続けても何も見つからない。
アミロイドβを乳剤化し、ヒト化マウスなどの実験動物の脳内に接種することも試みているが、発症する個体と発症しない個体の間に違いを見つけられていない。
同じ検体から接種しても結果が異なるということは、何か動物由来の因子があるのだろうか。
実験台の上で、採材されたアミロイドβを含む脳組織が、チューブの中でヌメヌメと光っている。
動物由来の因子が原因であるとしても、均質化された実験動物で差が出ることはあるのだろうか。
今では当たり前の様に、その姿を写真に収めることができるようになったウイルスも、電子顕微鏡が普及するまでは、「濾過性病原体」として間接的に認知されているだけだった。
もしかすると、この症状は現代技術では認知できない未知の病原体が原因なのかもしれない。
・
世界各国で問題が報告され始めてから5年が過ぎた。
未だ、誰も原因を特定出来ていない。
人々は若年性アルツハイマー様症状を、「あることが当然のもの」として認識し始めていた。
若年性の場合、加齢性の物と異なり、認知機能の低下がある一定のレベルで止まることが多かったためだ。
生活に支障をきたすことはあっても、世間がそれを認知している社会では、1つの個性の様に受け入れられていた。
しかしある時期を境に、若年性のアルツハイマー様症状に変化が起き始めた。
加齢性の物では見られない速度で認知機能が低下していく症例が認められ始めたのだ。
昨日まで何の問題もなく生活を送っていた若者が、突然流涎しながら彼方を見るだけの姿になっていった。
そのような症状を示した場合、殆どの場合、自立呼吸すら困難となった。
死亡した若者達の病理検査をした結果、ほぼ全ての検体で脳組織のスポンジ化が認められた。これはCJD、一般的に認知されている疾患名としては狂牛病で見られる症状で、通常高密度に詰まった脂肪組織である脳が、スカスカになり、まるで台所用スポンジの様に変化する。
その様な状態となった脳組織からは、アミロイドβだけでなく、異常プリオンが検出された。
異常プリオンは狂牛病の原因として広く認知されているタンパク質である。タンパク質でありながら感染性をもつとされるこのタンパク質は、「感染」とは言うものの、コッホの四原則を満たさない。
「接種した動物を長期間飼育すると同じ様な症状を示すことが多い」という状況証拠を基に仮説がサポートされ、本説の提唱者であるプルシナーはノーベル賞を受賞している。
狂牛病は処理が不十分な肉骨粉を食べた牛からヒトに感染するケースが多い。しかしこれが以前問題になって以降、レンダリングを実施する工場において適切な処理が行われるようになり、牛を原因とした疾患の発症は殆ど認められなくなった。
それが突然、若年層を中心に、世界各国で同時多発的に発生した。
その症状から、狂牛病やCJD同様、何らかの食物が原因と考えられ、疫学者達は発症した若者達の食生活の調査を開始した。
今回注目すべきは、イスラム教徒とヒンドゥー教徒達にも同様の症状の発症者が増えていることだ。すなわち、牛と豚は原因ではない。
また、多くの菜食主義も発症している。
菜食主義者はタンパク質摂取のため、牛乳、チーズ、卵を摂る。しかしヒンドゥー教徒達の発症から考えると、牛は原因から外れるため、食肉を原因とする場合、残すは世界各国で食べられている鶏だけだ。
なるほど確かに鶏の可能性を否定することは難しそうだ。
それと何らかの野菜だ。
野菜については、世界各国の農家が企業から種や肥料を買っている以上、企業で何らかの問題が生じた場合、その問題が世界中に拡散されるというのは容易に想像できる。
現在も疫学者達は血眼になりながら調査を続けている。
しかし、彼らは大事なことを忘れていようだ。
そもそも本疾患の発症年齢の分布は二峰性なのだ。
食べ物が原因であるとすると、年齢層で発症率が大きくことなるのはおかしいのではないか。
この理由から、私は原因は食べ物ではない何かと推察している。
そんな中、ある疫学調査の報告が、マイナーなオンライン雑誌に静かに投稿された。
それは若年層のアルツハイマー様症状が問題となり始めた時期及び、急速な脳のスポンジ化によるCJDもしくは狂牛病様の症状が問題となり始めた時期と、その時世の中であった出来事の相関関係を調べたものだった。
このような論文の多くは「事象A」と「事象B」の高い相関性のみを取り上げ、その背後にある事象について詳しく考察がなされない。多くが偽相関であることから、疫学者達はその結果を軽視する。
この論文が比較した対象は、「通信技術の発達と発症の相関」だった。
それは「ある野球選手の打率が高い年は、国内消費が伸びる」というような、ワイドショー的な内容に見えた。
もちろん科学論文であるので考察はされていたが、殆どの研究者は論文タイトルを目に入れるだけで、リンク先をクリックすることはなかったようだ。
私はこういったトンデモ論文を娯楽として読むのを趣味としている。多くの研究者とは反対に、タイトルを見た瞬間、リンク先へ飛んだ。
「通信技術の発達とデジタルデバイスの発達は、間違いなく相関するだろう。デジタルデバイスの発達と共にアルツハイマー様症状やCJD様症状が増加して来ているのだから、通信技術の発達と発症の相関はあるに決まっているだろう」
そう思いながら、概要を読み始めた。
結論としては私の予想通りのものだったが、2点、気になることが記載されていた。
1. 急速な脳のスポンジ化によるCJDもしくは狂牛病様の症状の流行開始時期が、新しい通信技術の使用開始時期と完全に一致している
2. 新しい通信技術を使用したVRを長時間体験後、数日以内に発症したケースが多い
*「長時間のVR使用により、何らかの理由で免疫機能が低下。その結果、通常では問題にならない未知の病原体に感染し、発症する」*
*なるほど*。「風が吹けば桶屋が儲かる」のような話だが、この説は事実の一端を示しているのかもしれない。
一般的に、疲労が続くと免疫機能は低下する。
その機序は以下の通り。
疲労により活性酸素の量が過剰となり、重要なタンパクや脂質などが酸化される。細胞そのものや重要な細胞内小器官が損傷する。それを感知した免疫系細胞が免疫サイトカインを脳神経系・内分泌系などに送り、修復を試みる。
長期間のVRの使用により、活性酸素が過剰となり、免疫不全の様な状態を呈するのであれば、これはあり得る話だ。
だがこの説が正しいとすると、まず最初に問題になるのはHIV患者のような、免疫機能が低下している者達であるだろう。加えて、VRと活性酸素の関係が不明確だ。
何かある気がしたが、結局何も分からないままだ。
しかし、「VRやデジタルデバイスを生活に取り入れていた頻度と発症率の相関を示した図」「通信速度の上昇と症状の重篤化について線形モデルを用いて解析した図」が、私の頭から離れることはなかった。
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